長時間労働の弊害
憂鬱な気持ちのまま馬車に揺られていたのもつかの間、まもなく王都に到着するようだ。
今日は自由に過ごしていいと言われているが、到着したらマダムフルールの店に挨拶に行かなければならない。長く働き続けるには、第一印象は何としても良くしなければ。
そうだ、いつまでもウジウジなんてしていられない。私はここで1人で生きていくって決めたんだから――。
馬車を降り、気合を入れるために両手で頬を叩いた私は、サーシャにもらった地図を見ながらマダムフルールの店へと向かった。
王都は今まで住んでいた町とは比べ物にならないくらいの大都会だった。
見渡すばかりの人、人、人……。
東京の通勤ラッシュを生き抜いてきた私でも、電車でなく街中にこれだけ人がいるとなると、さすがに驚かざるを得ない。
何とか人ごみをかき分けて進むと、やっと目的地にたどり着いた。
――《マダム・フルール》――
立派な建物が並ぶエリアでも、一際歴史のありそうな建物の大きな入口の脇に店名の刻印がされた看板が飾られていた。
入り口にはドアマンが立っており、客の出入りの度にドアを開けている。
大きな店とは聞いていたが、これほどとは……。
従業員はどこか裏口から入った方が良さそうな気がするが、裏口を探してウロウロしていると不審者に思われそうだ。
この世界に来てから感じたことのない緊張感に包まれながら、私は恐る恐るドアマンに声をかけた。
「あの、すみません。来週からここでお世話になるベスと申します。今日はご挨拶に伺ったのですが、どこから入ればいいのでしょうか」
前の町では見たことのない、洗練されたスーツに、きっちりと分けられた髪、そして白い手袋。まさに都会らしい出で立ちのドアマンが、穏やかな笑みを浮かべながらこちらを見つめる。
「ようこそマダム・フルールへ! あなたの事はマダムから聞いていますよ、ベス。この店の看板息子、ダニエルです。どうぞお見知りおきを!」
そう言いながらダニエルは茶目っ気たっぷりのウインクを見せてくれた。
真面目なのは見た目だけだったのか……。
「ダニエルさん、こちらこそよろしくお願いします。それで、入口は……?」
「これは失礼。この建物の横にあります。ほら、あそこです。休憩時間なら、僕が案内したかったのですが……」
ダニエルが示した方に目をやると、確かにそれらしきドアが見えた。
私はダニエルにお礼を言って、そのドアから建物の中に足を踏み入れた。
廊下を進むと、賑やかな音が聞こえるドアを見つけた。きっと、ここが店内への出入り口なのだろう。
開けて入ろうか否か迷っていると、私と同じくらいの年頃の女性が廊下の向こうからやってきた。
「あの、すみません。来週からここでお世話になるベスと申します。今日はご挨拶に伺ったのですが……」
「あなたが噂のベスなのね! 私はマリアよ。マダムは今接客中だから、こっちの部屋で待っててもらえる?」
マリアに案内され、私は応接室のソファに座って待つことになった。
30分ほどたっただろうか、ドアをノックする音に、私はソファから立ち上がった。
「ごめんなさい、お待たせしちゃって。私がこの店の主人、フルールよ。まあ、本名は違うのだけど、代々この店の店主はフルールと名乗る事になっているの」
ニッコリと微笑むフルールは、上品さと親しみやすさを兼ね揃えた妙齢の女性だった。
「ベスと申します。マダム、私を雇って下さってありがとうございます。こんなに素敵なお店で働けるなんて光栄です。よろしくお願いします」
「よろしくね。サーシャ叔母様から色々と聞いているわ。裁縫以外は一通り経験があるのよね? 人手不足だから助かるわ! 早速明日から頼りにしてるわよ! でも、今日は疲れているだろうからゆっくり休んでね。そうそう、何か分からない事があったら、さっき会ったマリアが色々と面倒を見てくれるわ。あなたと同い年だから、気兼ねなく相談できるんじゃないかしら。あとは……そうね、荷物もあるし、まずは寮を案内した方がいいわね」
マダムに連れられて、私は建物の2階にある寮の部屋に向かった。
案内された部屋は、予想外にも個室だった。それほど広くはないものの、ベッドと机、タンスといった家具が備え付けられており、シンデレラとして住んでいた部屋に比べれば十分過ぎるほどだ。
「部屋はちょっと狭いけれど、共有スペースもあるから使ってね」
「ありがとうございます。私、この部屋がとっても気に入りました!」
階段を降りれば職場だし、通勤いらずで快適だ。
私はこれから始まる新生活への期待に胸が膨らんだ。
「マダム、ちょっとよろしいですか……」
いつの間にかマリアがドアを開けて入って来ていた。
どうやら店が混んできたらしく、人手が足りないらしい。
「ベス、お昼は一緒にと思ってたんだけど、お店が忙しくて……夕食は寮で出るから、それまでは休むなり街を散策するなり、自由に過ごしてちょうだいね」
マダムはそう言い残し、マリアと共に階下に消えていった。
そういえば、そろそろお昼の時間だ。
街の散策も兼ねて、私は外で昼食をとることにした。
マダムフルールは王都の中心、セントラル地区の商業地区に店を構えており、周囲はあらゆるお店が並んでいる。
カフェに入ろうと思ったが、どこも昼時で満席だったので、結局パンを買い寮に戻った。
昼食をとり、再び外出する前に仮眠をとろうとベッドに横になった私は、昨日ほとんど眠れなかったからか、そのまま夕方まで眠ってしまった。
夕食の時間になり食堂に向かうと、マリアが寮に住む同僚たちを紹介してくれた。
寮にはマリア以外に、メアリー、アン、ローラの3人が住んでおり、3人とも私と同じく地方の出身らしい。
4人ともとても優しく、私と仲良くしたいという空気を感じた。
密かに心配していた職場でのいじめも無さそうだ。
だが、私はある事が気になっていた。
元気そうにふるまってはいるものの、時折あくびをしたり、目の下にクマができていたり……。
確かにお店は繁盛しているようだが、そんなに激務なんだろうか。
「あの、マリア? なんだかみなさん疲れているようだけど、ここのお仕事ってそんなに大変なの?」
私の質問に、4人は一瞬顔を見合わせ、どう答えるべきか迷っているようだった。
「仕事自体はとても楽しいのよ。マダムは優しいし、お客さまも皆さんいい人だし、働いた分お給料はきちんともらえるし。ただ……」
マリアが言葉に詰まった。
「……ただ、この前1人辞めてしまって、人手が足りなくて。朝は5時からずっと働いているの。この2週間は休みなしよ」
マリアの後を継いだメアリーが溜息交じりに言った。
「ベスが来てくれたから少しは休めるようになると思うけど、そもそも1人辞める前から忙しかったのよね」
一番疲れて見えるお針子のアンがぽつりと言った。
なるほど、このところ慢性的に残業が続いているという訳か。
「でも、マダムも働きづめだから言い辛くって。相談すればきっと私たちを帰らせてくれるけど、マダムがその分仕事を増やすだけになるのよね……」
ローラの言葉に、全員が頷いている。
「ごめんね、働く前にこんな話をしてしまって」
謝るマリアに気にしないでと答えつつ、私は何とか皆を定時で帰す事が出来ないだろうかと考え始めた。