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ナイン・テイルズ

拝啓、空を歩く君へ

作者: 穹向 水透

九作目の短編です。この作品は『黄昏を歩いている』からの派生作品となります。



 優しい風が頬を撫でる。

 初夏の空気に包まれ、眼を閉じれば、遠くの潮騒が聞こえてくる。

 さっきまでの通り雨は街を越えて、海の向こう、淡く虹が架かる空に消えていった。遠くに見える小島、名前を夕夏島(せきかとう)と言うのだが、今は雲の作り出す影の所為で、島は夜のように見えた。

 僕は「海の見える丘」の端、星の見える高台よりも高い場所にある草原にいる。この場所は、まだ春の名残があるようだが、遠くで蝉の声が聞こえる所為か、季節の感覚が狂ってくる。

 サイダーの缶を片手に、一面の淡い緑に座り込んで風に吹かれる、これが何よりも優れた心の浄化方法であることは間違いない。

 風が吹く度に、髪が揺れ、草原が揺れ、まるで浅い海の底にいるような感覚になる。

 上を向くと、当然のことだけれど、空が広がっていて、それを遮るものはない。一直線に引かれた飛行機雲の行方を指でなぞると、この世界は無限なんだ、と思えてくる。実際は、宇宙の片隅、銀河の片隅、太陽系の星々の中のひとつで、有限の世界なのだ。つまり、あの青い空も有限で、飛行機雲をなぞっていたら、何処かで繋がってしまうのだろう。

 時計を見ると、午後二時。

 サイダーは半分ほど消費されて、身体に初夏の色を届けてくれる。

 欠伸をして、仰向けになり、眼を閉じる。潮騒や蝉の声、草木が揺れる音。世界を構成する音が聞こえてくる。

 誰かが横に座った感覚。僕はゆっくりと眼を開ける。

「やぁ、久しぶりだね」

 やはり、彼女だった。

 半透明のワンピース、半透明の眼、半透明の身体。まるでガラス細工のように可憐で壊れそうな姿だった。

「久しぶり、青維(あおい)。三年振りってところかな?」

「もう、そんなに経つんだ。時間って早いね」

「まったくね」

「最近はどう、元気?」

「至って普通だよ。可もなく不可もなく」

「学校、楽しかった?」

「うん、良い思い出になったよ」

 青維が僕に手を伸ばす。けれども、彼女の手は僕を透過してしまう。その半透明の細い腕が、心臓のある場所を貫いている。

「このまま、握っちゃおうかな?」

「出来るならやってごらんよ」

「出来たらいいのに」

「本当にね」

 彼女は手を引き抜いて、サイダーの缶を掴もうとしたが、それも透過してしまう。

「不便だよね。何も触れないんだ。どんなに綺麗でも、どんなに気持ち良さそうでも、みんな、私を透過する。今、吹いてる夏の風だって、私にはわからない。でも、仕方ないことだもんね」

「そうだね。君が選んだことだから」

「少しは慰めてよ」

「ダメだよ。落ち度があるのは君だもの。それに、君は慰めたり、誉めたりしたら、調子に乗るからダメ」

 青維がわかりやすく不満を顔に出す。片方の頬を膨らませ、眉を傾ける。光さえも透過するのか、彼女の顔が昼下がりの太陽で白むことはない。

「君こそ、最近はどうなの? 最近というか、ここ三年間か」

「ずっと海外にいたよ。グローバルなの」

「いいよね。少し話を聞かせてよ」

「いいよ」

 青維が髪を耳に掛けた。潮風が吹いても彼女の髪は微動だにしない。

「まずね、海を渡ったんだ」

「海を? どうやって?」

「歩いて。楽しかったよ。浮いたり沈んだり。海底を歩いてみたりね。綺麗だったなぁ。沖の方に行くとね、魚が沢山いて、海の中が銀色になるんだよ。細かい魚が集まって渦を作るんだけど、私が近付いても逃げないから、真ん中で魚たちと遊べるの」

 彼女は再現するように手をひらひらと動かした。

「サメも見たよ。ジンベエザメ。背中に乗って、遠くまで連れてってもらったんだ」

「触れないんじゃないの?」

「私がそれを足場だって認識すれば乗ることは出来るみたい。それでね、最初にロシアへ行ったんだ。本当は寒いんだろうけど、全然わかんなかったなぁ」

「暑さ、寒さも関係ないんだね。じゃあ、その薄手のワンピースで歩いてたんだ」

「そうだね。変だね」

 彼女は笑う。笑うと幽かに髪が揺れた。

「バイカル湖って知ってる? 凄い大きくてね、凄い透明なんだよ。歩いてみたんだけど、本当に透明なの」

「青維とどっちが?」

「まだ私は眼に見えるでしょう?」

「ごく一部の人にだけね」

「バイカル湖がここにいたら、多分、君の眼には見えないよ」

「面白い説明をするね」

「他に思い付かなかっただけだよ」

 彼女は仰向けになって、頭を地面に浮かせたり、沈めたりして遊び出した。そして、笑い出して、「シーソーみたい」と言った。

「何か、あれだね、本物の幽霊みたいだね」

「だって、そうでしょう?」

「まぁ、間違いはないけれど。で、次は?」

「次はね、ヨーロッパに行ったよ。色んな街を旅したけど、どれもこれも綺麗でね、お伽話に出てきそうな家や人、景色が続くの」

「アルプスには行った?」

「うんうん。ちょうど、登ろうとしてる人たちがいたから、一緒についていったんだ。でも、みんな遅いから先に行っちゃったけどね」

「そりゃあ、君は空を歩けるからね」

「うん。だから、渓谷とかも歩いて、色々な場所へ行ったよ」

「何か食べた?」

「それ、わかってて言ってるなら酷いよ。私、何も触れないの」

「うん、わかってて言った。ごめんね」

 彼女は「相変わらずだ」と言って笑う。

「イタリアとかギリシャを見た後は、地中海を歩いてアフリカに行ったよ。やっぱり、砂漠だね。広大でね、何度か迷っちゃった」

「でも、空を歩けば万事解決」

「その通り」

 青維が僕の手を触ろうと、半透明の手をひらひらさせている。僕は猫を遇うみたいに、手を上下させてみる。

「ピラミッドも見たよ。頂上に上って、エジプトを見渡したのは良い思い出だなぁ。意外と真似できないと思うんだ」

「あとは?」

「ライオンとかも見たよ。一緒にお昼寝したんだ」

 彼女は手を合わせて、首を傾け、眠りのジェスチャーをする。

「キリンにも乗ったよ。首を掴もうとしたら落ちちゃったけど」

「そりゃあそうだね」

「その後は、海を歩いてアラビアに行ったよ。ラクダの背中に乗って、月夜の砂漠を歩いて、オアシスに行ったりね、インドでタージ・マハルを見たり。あとは、山に登ったり」

「エベレスト?」

「うん。上の方に行ったら、カラフルになるの」

「それは死体だね」

「え、そうなんだ。怖いね」

「君も似たようなものだろう?」

「全然、違うよ」

 彼女は笑いながら首を振った。

「あとはカンボジアとか、タイとか。市場が凄く賑わってたなぁ。面白いのはね、雨が降っても私は濡れないんだ」

「どんな感覚?」

「感覚なんかないよ。私の身体を雨粒がどんどんすり抜けていくけど、私には冷たさも痛みもないもの」

「ふぅん」

「アンコール・ワットとかも見たけど、私にはわかんないや」

「君は、その辺の興味はないだろう?」

「うん。無神論者だもん。だから、バリ島に移動して綺麗な景色を楽しんだの。凄いんだよ、空から見ると、エメラルドグリーンって言うのかな? 本当に綺麗なんだ」

「ここの海よりも綺麗?」

 彼女は腕を組んで考えている。

「うーん。甲乙つけ難いけど、やっぱり、ここの海の方が綺麗だよ」

「それはよかった」

「海を見た後は、オーストラリアに移動したんだ。フェリーに乗って行ったんだけどね」

「歩いて行くのとどっちが早い?」

「正直、歩く方かな。この身体だと、疲れもしないし。空を歩けるから、船とかよりもずっと速いし」

「便利だね」

「便利なんかじゃないよ。触れないんだもん」

「自由度は高いけどね」

「まぁね」

 彼女は笑いながら一回転した。

「オーストラリアは見所が沢山あったんだ。カンガルーもコアラもウォンバットも見たよ。あと、グレートバリアリーフも。綺麗だったなぁ。それに、ウルルにも登ってきたよ。赤土の大地が一望できたよ」

「それはそれは。幽霊の特権だね」

「まぁね。その後は、南アメリカに行ったんだけどね、何度もジャングルで迷っちゃったんだよね」

「空を歩けばいい」

「出来るなら空は歩きたくなかったんだけどね」

「ジャングルを彷徨うワンピース姿の少女の幽霊、何だか面白そうな小説が書けそうだね」

「意地悪」

 彼女は僕を小突こうとするが、その小さな拳は僕を透過する。

「多分、ここが肺だよね」

「ああ、そうだね。苦しいよ」

「嘘吐き」

 彼女は笑う。八重歯が覗く。

「南米はジャングル以外に行ってないの?」

「マチュピチュにも行ったよ。凄いね、まさに天空都市だね」

「カリブ海は?」

「宝石みたいだったよ。あ、そうそう、君が言ってたウユニ塩湖も行ったんだ。一日中、湖に座ってたんだよ」

「綺麗だっただろう?」

「プラネタリウムの中にいるみたいだったよ。死ななきゃ見れない景色だったかもね」

「死んで良かった?」

「あんまり聞かないでよ」

「ごめんごめん、北アメリカはどうだった?」

「やっぱり、ニューヨークとかは都会だね。人の波の真ん中に立って、少し眺めたりしてた。北アメリカは行ったことあったから、そんなに長居はしていないよ」

「あぁ、そっか。四年前は北アメリカとかハワイを旅してたんだっけ」

「うん、そう。だから、今回はあんまり見てない」

「それで? その世界一周で三年間を費やしたんだ?」

「うーん、まぁ、そうなるね。ここに戻ってくる前は中国にいてね、万里の長城を最初から最後まで歩いてみたり」

「意味ある? それ」

「ないよ」

 彼女が笑う。

「でもさ、やっぱり、綺麗なものだけじゃないんだなぁ、って思ったよ。戦争をしてる国とか、人種差別が行われてる国も見てきた。弾丸が身体を透過したこともあったし、炎の中を歩いたこともあるよ」

 彼女はゆっくりと座った。

「世界って綺麗だよね。透明に近い海とか、童話の世界の森とか、言葉に出来ない星空とかさ。綺麗なものが沢山あるけど、同じように、醜いものだって沢山ある。とある国で、黒人を殴り殺す白人を見たことがあるんだけど、私は止めようとしたんだ。でも、透過するの。飛んでくる血も、罵声も悲鳴も、私を透過してしまうの。私は、彼の命が殴り殺されるのを見てるしかなかった。身体に布を被せることだって出来ない。その時ほど、この半透明の身体が役に立たないって思ったことはなかったね。君はさ、この世界は綺麗だって思う?」

「……少なくとも、僕と君が見ている、この町の海は綺麗だよ。この狭い世界から出たことのない僕が言うのも何だけどさ、この町の海は世界で一番綺麗だと思う。確かに、エメラルドグリーンの海、天然のプラネタリウム、お伽話のお城……。でも、僕はこの海が断然、綺麗だと思う」

 僕は立ち上がった。

「僕は、君の言う醜いものを知らない。見たこともないし、これから先も見るかどうかなんてわからない。あんまり良くないかもしれないけど、君は、君にはそんな醜いものは見て欲しくなんかない」

「……」

「死んでしまった後は透明でいい。透明で、綺麗なものだけ見てればいい。誰かと誰かが争っていても、僕らには止める術なんてないんだからさ。だったら、そんなものは見ないで、ずっと、ずっと、綺麗な世界を見続けよう」

「夢、みたいな?」

「夢かもしれないけど。君も僕も夢を見ているのかもしれない。現に、君みたいな半透明の幽霊が見えてる時点で現実じゃない可能性は充分にあるだろう?」

「あはは、そうかもしれない」

「戦争だの、何だのってのはさ、見れば見るだけ心が痛むだけ」

 僕は少し歩いて、蹌踉めいて、座り込んだ。

「大丈夫? 寝てないんでしょう?」

「知ってたの?」

「いや、君の眼の下の隈が物語ってるよ」

「まぁ、そうだね、あんまり眠ってない」

「寝ないと死んじゃうよ?」

「関係ないよ。どうせ、もうすぐ、死ぬんだから」

「……それもそっか」

 彼女が幽かに笑う。

「……青維は、この三年間で笑うのが上手になったね。前はもっとぎこちないロボットみたいな笑みだったのにさ」

「うーん、どうしてだろうね? そろそろ、この身体にも慣れてきたからかな? 最初はやっぱり、受け入れ難いものがあったからね」

「そういうものなのか。でも、それだけじゃないと思うよ」

「そうなの?」

「君が見てきたのは、やっぱり、綺麗な世界なんだよ。君ってさ、弱虫だから、戦争とかは眼を細めて見てたんだろ」

「よくわかるね……、正解。ずっと、高い空から見てました。あ、でも、殴り殺されるところは近くで見ちゃったんだ。本当に偶然なんだけど、歌いながら歩いてたら遭遇しちゃった」

「ダメだなぁ、青維は」

「何が?」

 彼女が口を尖らせる。

「死んでも弱虫の平和主義なんだ」

「悪くないと思うけどなぁ」

「今、怖いものなんてないだろう?」

「まぁ、それはないけれど」

 僕はもう一度、立ち上がった。青維が、「大丈夫? 転ばない?」と心配してくれる。

「大丈夫だよ」と僕は言う。

「ねぇ、青維」

「ん?」

「君はさ、君が死んだ時のことを憶えてる?」

 彼女は首を振る。

「だよね。そう、あの時はね、みんなみんな、泣いて泣いてね、誰も理由なんてわからなかったから」

「……」

「君のおじいさんだって、物凄く泣いていてね、人の死ってこういうものなんだなって痛感したよ。あの日は、酷い雨だったよな。朝からずっと、降り注いでいて……。あぁ、確か台風が近かったんだっけ。で、そんな悪天候の日なのに、君が何処にもいない。みんな必死で探したよ。この草原だって探した。君が好きだったからね。でも、いなかった。何処にもいなかった。町の人たちも一緒に夜まで、あの暴風雨の夕暮れ、ずっと、探してくれたけど、見つからなかった。やっと、見つかったのは三日後だったかな。君が浜辺に打ち上げられていたのは。みんな事故だと思ってたし、現にそう片付けたよ。でもさ、僕は見ちゃったんだ。半透明の君が、君の亡骸の傍で呆然と立っているのをさ。それでわかったよ。君は事故で死んだんじゃなくて、自殺したんだって。あの荒れた海に自ら入って行ったんだって。これは君のおじいさんには伝えてある」

「おじいちゃんは?」

「亡くなったよ」

「そっか……」

「おじいさんの遺志で遺骨は海に撒いてしまったから、彼のお墓はこの世界全体ってことになるね」

 彼女が視線を海に向ける。

 海は初夏の風に揺られて、緩やかな波を作り出している。

「で、僕が知りたいのは、君がどうして自殺したのかってこと」

「理由? そんなの、死ぬのが怖かったからだよ」

「なるほどね。似たような理由のやつを僕は知ってるよ。そいつは病気で死にたくないからって言ってたけどね」

「私も、自分の生き死にくらいは自分で管理したかったの。どうせ死ぬなら、先に死んでやる、って。あ、入水したのは特に理由はないよ」

「そうなの?」

「うん。浜辺で海を眺めてたら、いつの間にか、ね。でも、私、憶えてるよ。このまま、海とひとつに、世界とひとつになれたら、なんて思ってたこと。結果的に、世界から永遠に剥離した存在になっちゃったけど」

「死ぬ時は苦しくなかった?」

「そこはね、憶えてないんだ。いつの間にか、半透明になって、誰にも触れられなくなって、空を歩けるようになってた」

 彼女の眼から、水滴が零れ落ちる。

「何で泣くの?」

「わかんない」

 身体を伝った水滴が爪先から、ぽとり、と落ちる。そして、葉に当たって、弾け飛んだ。

「おじいちゃんやみんなに逢いたいなぁ……」

「……残念だけど」

「うん、大丈夫。わかってるよ」

 彼女は眼を手で擦って、無理矢理に微笑む。

「ねぇ、君は今、生きてて楽しい?」

「……どうだろうね。そもそも、生きるって何だろう? 僕らみたいな最初から終わると決まった人生に意味なんてあるかな? 僕らは、誰かの為のオルタナティブの存在でしかない。そんな僕らに、一端の人間みたいなことを言える資格はあるのかな」

「でも、私はこう思ってるよ。命の重み、軽さ、両方を語れるのは私たちだけだって」

「……」

「だからさ、君は、楽しかった?」

「そうだね……、別に苦はなかったかな」

「うん、私も」

「でも、君は早すぎたんだ」

「ちょっとね」

「『僕らは生きている振りをしているに過ぎない。僕らと普通の人が同じになるのは、眠っている時だけだ』。僕の尊敬する人の言葉だ。彼は正々堂々と生きたけど、僕も同じにする必要はないよね」

「ないよ」

「期限はあと四ヶ月程度」

「うん」

「もう一度、逢える?」

「うん、逢えるよ」

「天気は晴れがいいな」

「雨でも大丈夫だよ」

「ひとつだけ確認」

 僕は指を立てる。

「君には、こんな僕と永遠を過ごす覚悟はありますか」

 彼女は考える。いや、考える振りをする。

「はい、勿論。半透明になって、この青く美しい世界に消えることなく、譬えこの宇宙が滅びようとも、君と永遠を過ごします」

「ありがとう」

「あ、泣いてる」

 彼女が笑う。

「そっちこそ」

「だって、だって」

 彼女は足を空に踏み出す。まるで階段を駆け上がるみたいに空を走って、僕の前に飛び降りた。

「ひとりは寂しい?」

「君がいないよりはね」

 突然、強い風が吹き、雲の流れが早くなる。

「じゃあね、またすぐ逢おうね」

 青維が手を振りながら、空を駆け上がり、青に消えていく。

 僕は草原を歩く。サイダーを飲み干し、林道に入った。蝉時雨の中、僕は音を流していないイヤホンをしながら歩いた。緑色で眼が眩んで、何度か蹌踉めきながら歩いた。



 拝啓、空を歩く君へ



 君と初めて会ったのは、お互いが九つの時でした。

 憶えていますか?

 海の見える丘からシャボン玉を飛ばしたこと。君がシャボン液を誤嚥して、すぐに先生たちに運ばれていったことが印象的です。あの時、君は「口からシャボン玉を飛ばしたかった」なんて言って、みんなを笑わせていました。

 イカロスの話を読んだ時のことを憶えていますか?

 みんなが口々に可哀想とか、そんなことを言っている中、君は「私はイカロスみたいに空を飛んで、太陽で暮らしたい」と言って、周りからバカにされていました。僕は、君のその考えが大好きでした。

 君は、将来は天文学者になって、まだ見ぬ星を探したい、と言っていました。今なら行ける筈です。宇宙を歩いて、探しに行きましょう。

 浜辺で貝殻を拾ったことを憶えていますか?

 僕も君も、海に入ったことがありませんでしたが、いつか一緒に海で遊ぼう、と約束しました。でも、君は先に行ってしまいました。

 君は僕が絵を描く度に、僕をバカにしました。魚を描いたのに、カニのハサミと言われた時は流石にショックでした。

 十一の時、君はいきました。

 たった、一年とちょっとの付き合いでしたが、君は僕の人生最大の友人だと思っています。

 入水するのだったら、誘ってくれても良かったのに。

 君がいって数年後、僕はひとりの少年と出会いました。彼も、死ぬのが怖くて自殺したのですが、何でしょう、僕の周りには、そんな人が集まるのでしょうか。彼にも君の姿は見える筈なので、一度、逢ってみるのも悪くはないかもしれません。

 僕は高校生になりました。隣町の普通高校です。

 あんまり友達がいない高校生活でした。

 でも、楽しめるだけ楽しみました。

 どうせ、あと数年で死ぬので。

 修学旅行なんかも行きました。君との約束を、まだ律儀に守ってみた僕は、海には入っていません。誉めて下さい。

 高校を卒業して、僕は今、何をやっているんでしょう? もしかして、所謂、ニートってやつなんでしょうか。

 ずっと、生きる意味について考えていました。

 君には前に言ったように、僕らは誰かのオルタナティブの存在でしかないのです。そんな僕らに、意味を持たせる必要はあるのでしょうか? 意味を持たせたら、何かが変わるのでしょうか? 幸い、僕らにも選べる権利があります。だから、僕は誰にも僕の身体を渡さないという選択、僕は僕として死ぬ選択をします。

 どんな人生だったかと振り返ると、どうしても虚しくなります。あの日以来、空を見上げては、君を探し、帰ってくるのを待つ人生でした。僕の人生の不可欠要素は君です。君がいることで成り立つ人生だったのです。だから、もう、決めてあります。

 明日の昼下がり、僕もいきます。

 待ち合わせ場所は海岸。

 天候も晴れだそうです。

 君が半透明になって、一年後に逢った時の言葉を残しておきます。

『死んだのは私なんだから、私が私を許すしかない。もう思い残すことなんてないから、私は見てみたい世界を見に行く』

 僕も僕を許します。死ぬことを許可します。

 この手紙は、見つけたら、燃やすなり、破くなり、どうしてもらっても構いません。

 どうせ、僕らには触れられないので。

 では、そろそろ、僕の腕も疲れてしまったので、終わることにしましょう。これは遺書になるんですかね。残すことなんてないのに。

 短い人生でした。

 でも、長い人生でした。

 ありがとうございました。

 さようなら。

 次、逢った時は、よろしくお願いします。



 敬具



 波の群れの中を、半透明のふたりが手を繋ぎながら、歩いていく姿が見えて、すぐに青に消えていった。

 今日の空は快晴だった。



「今日は何処へ行こう?」

「太平洋を歩いて、日付変更線に辿り着くまで」

「遠いなぁ」

「時間ならいくらでもあるよ」

「そういえば、ちゃんと、待ってた私、偉い?」

「僕は海岸を待ち合わせにしてたんだけど」

「言われてないもん。てっきり、あの草原かなって」

「ごめんごめん」

「ねぇ、ジュースが飲みたいな」

「サイダーがいいな」

「明日は何処へ行く?」

「そろそろ、宇宙でも見に行こうか」

「いいよ。最初は月で、その次は金星、で、水星、火星って感じで太陽系をぐるっと一周してみようね」

「太陽系の外は?」

「まだ、時間はいくらでもあるよ」

「永遠だもんね」

「だから、ゆっくりと行こうね」

「そうだね、ゆっくりとね」

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