お嬢、初めまして! 2
ちょうど、同じ頃。
お嬢、こと、クラリス・ディッセンバーグは社交デビューの歳を迎えていた。
(なんでわたくしが領地を見に行く必要がございますの?こういうのは、お兄さまだけでも十分でしょうに!)
兄と共に馬車で揺られながら、クラリスは内心に不満を抱えつつ外を眺めていた。
学院の長期休暇に入り、せっかくの長い休みだからと部屋に引き込もって新しく手に入れた本を好きなだけ読もうと思っていたのに。
父から呼び出されて「お前も立派に社交界へ出る歳になったのだ。自分の家が持つ土地を見ておいて損は無いだろう」と言われ、家を追い出されたのだ。
(そもそも学園都市が出来て、男女共に学舎に通う様になった今どき、デビュタントの年齢で社交……っていうのに拘るのって、遅れてません?それ以上に、わたくしの社交デビューと領地の視察って何の関係がありますの?)
クラリスの内心を他所に、正面の席に座る兄は出発から数分で既に夢の中の住人となっている。
(この人、こんなところでよく眠れますわね……)
呆れ半ばで兄を見やれば、横に控えていた彼の従者が口の前に人差し指を立てる仕草をして、ふわりと微笑んだ。
(『起こすな』と言うことね……解ってますわ!)
兄の従者をしているこの男は、兄の幼馴染みで、当然、クラリスとも昔から面識がある。
クラリスから見ても、良くできた男であるのだが、如何せん兄に甘い。というか、激甘だ。
(あ……お父さまが、視察にわたくしを同行させた理由が理解出来ましたわ……)
要するに、領地の視察をする兄を視察しろ……と、そういう事なのだろう。
リトニア公、ディッセンバーグ家の長子であり、王立学院を、クラリスより二年先に卒業する事になる兄は、現在、学院の長期休暇に入ると父から仕事の一部の指導を受けている。
最近では単独で何かを任される事もあるみたいで、この視察もその一環のようなのだが……。
(それなのに、妹と抱き合わせでってどうなのかしら?)
別に兄がボンクラという訳ではない。
むしろ、きちんとやれば、兄は、彼の従者を凌ぐほどの能力を有している。
ただ、風の向くまま気の向くままにふらりと自由な行動をとる事が多分にあるのが問題だというだけだ。
そして、彼の従者は、それを止めない。
むしろ優しく見守る姿勢を貫く。
(でも……ちょっとだけ……気持ち、ほんの、少しだけ、お兄さまが羨ましくもありますわね)
もちろん、ダメダメな部分とか自由過ぎるところが羨ましいのではなく、こうして心を許せる人間がいて、その人を片腕として側に置いておけるという事が、羨ましいのだ。
(別に、お兄さまから彼を奪ってしまいたいとかそういう訳ではないのですけれど)
クラリスの通う王立学院は、王侯貴族が通うという特性上、数名だけ護衛や使用人の随伴が許可されている。
限られた人数という決まり上、信頼のおける優秀な者を連れている場合がほとんどで、クラリスの兄も、入学の折からこの従者を一人、学院内では常に付き従わせている。
しかし、それと反対に。実は、クラリスの側付きは学年が変わる度に別の人物が担当しており、一人の者が長く担当した事はなかった。
(だって、みなさま、ずっとびくびくしっぱなしなんですもの)
落ち着かないからとクラリスから進言したり、向こうから配置変更を願われたりと、変わる理由は様々だ。
実家にいれば、一応、古参の使用人がついていてくれるが、彼らはクラリスの専属という訳ではない。
だから、兄の様に、心を許せる相手がずっと側に居てくれるという状況が、少しだけ……本当に、少しだけ羨ましくなる事があるのだ。
ため息を一つつけば、また、兄の従者が『お静かに』と暗に告げている笑顔を向けてきた。
(だから!解ってますわよっ!!)
本格的に苛立ちを覚えたので、兄と従者を見ていた視線を再び外へと向ける。
すると、外を行き交う人の中で、気になる人物が目に映った。
一見、街の中で住人が口論をしている様に見える。
けれど、そのうちの一人が傷だらけのぼろぼろな姿で、必死に何事かを訴えながら相手にすがり付いているのは、少し異様だとクラリスには感じられた。
おかしな点は他にもある。
ぼろぼろな人物は、見た目からクラリスと年の頃が近いのではないかと思われる少女だった。
着ている服も、学園都市で見かける制服の形に似ているがクラリスは見た事がないものであり、着こなしが、短すぎるスカートの丈など、およそ学園都市……特に、王立学院では絶対見かけない様な崩れかたをしている。
それから、クラリスだけが気づけた少女の唇の動き。
H、E、L、P、 M、E
I、A、M、 H、U、N、G、R、Y
I、A、M、 T、I、R、E、D
(これは……稀人の言葉ではありませんか!)
本を読む事が好きなクラリスは、異国の書物を読むのも好きで、同じ様に異国の言語にも興味を持っていた。
様々な書物を読み漁る中で、最も興味を引いたのは、稀人と呼ばれる異世界からの客人が残した手記と言われている書物だった。
そこに記された、稀人の世界の生活や物語……記述の一部は、その稀人の世界の言葉と、こちらの世界の言葉の両方で書かれているものがあり、それらを熱心に読み込んだクラリスは、そこにある稀人の言葉を、少しだけ習得、理解するに至っていた。
『助けてほしい』
『私は空腹だ』
『私は疲れている』
だから、クラリスは、少女が稀人だという事に気づき、そして、稀人であるならば、彼女がぼろぼろな状態で救済を願っているこの状況は、善くないものであると解った。
──稀人は、その能力や特異性故に、世界を脅かす程の問題を起こさない限りは丁重に扱わねばならない
「ちょっと!停めてくださいまし!!」
クラリスは叫び、馬車が止まると同時に、制止を聞かず飛び出した。
令嬢らしからぬとか、はしたないとか、気にしている余裕もない。
急いで件の現場へと走り、声をかける。
「そこの方々!」
突然割り込んで来た声に、ぼろぼろな少女含め、その場の全員がクラリスを振り返った。
「“ I'm Clarice Dissenberg ”」
続いてクラリスが発した言葉に、少女が目を見開く。
「“ I can help you ”」
「“ え……英語だぁぁぁー…… ”」
それからクラリスに続けて少女が泣きながら発したのは、クラリスの知らない異世界の言葉であった。