志野百合子と恨み蔦
「先輩、怖い話をしませんか?」
その一言がはじまりだった。
何の気なしに大学の後輩と生まれたままの姿でベッドの上でゴロゴロしていた、休日の夕方。
俺が何を藪から棒に。といった顔をすると、彼女は俺の腕の中で寝返りをうち、横向きに抱きついてきた。
ふにゅりふにゃりとした柔らかな感触とコリコリとした硬い圧が同時に胸板に押し付けられ、そのまま細い脚が太腿に絡み付いてくる。
途端に「おうふ……」と情けないうめき声が漏れてしまう。興奮したような彼女の息遣いが鎖骨をくすぐった。思わず俺は羞恥で顔をそらすのだが、すると今度は目線の先に置かれたゴミ箱を発見して、さらに身体が熱くなる。
今日は昂りが凄まじかった。彼女の肌がいつも以上に甘い味がしていたからだ。
すると、その反応がおかしかったのか、彼女はクククと身を震わせるようにして笑いを堪えつつ、そのまま俺の胸に唇を落とす。いささか情熱的過ぎる愛情表現は、俺の肌にいくつもの赤い花を咲かせた。
「先輩、怖い話をしましょう。私、大好きなんです」
こちらの頬に指を這わせながら、彼女は囁くようにそう繰り返す。期待に満ちた視線に負け、俺はノロノロと頷くしかなかった。
だが、よくよく考えなくとも、俺にはそんなに怖い話のストックはない。それでもいいのかと問いかければ、彼女は大丈夫ですと言わんばかりに鼻を鳴らし、頼もしくも親指を立てた。
「語り手は百合子が担いますので」
そう言うなり彼女――百合子は俺の耳元まで顔を近づけて。
「これは……とある村で実際に起きたお話です」
ゾッとするような低いトーンで語り始めた。
※
流行り病が蔓延していた。それは奇妙なもので、村人の手足から、植物の蔦が生えてくるものだった。
一体何なのだこれは? と、村の医師すら首を傾げる始末。
切っても切っても生えてくる上に、引っこ抜こうとすれば激痛に苛まれる。村人達がほとほと困り果てていると、そこに青年が通りがかった。
「それは、恨み蔦だ」
青年はそう語る。殺された者が、殺した相手の体内に入った時に発芽する。そういう魔的な植物。
これに驚いたのは村人達である。その理屈でいえばこれが生えている人間は殺人犯であり、かつ殺した相手を食べるという暴挙に出たことになる。だが、この村では殺人など起きていない。だから、青年の言葉を村人達は信じなかった。
すると青年は悲しげな顔をしてこう言った。
「何故言い切れる。村の外から来た人間が殺された可能性は? 誰にも気づかれない犯行があったとしたら?」
どのみちそれは治らない。諦めろ。青年はそう言い残して去っていったという。
数日後。その村は一夜にして無人集落に成り果てた。代わりに残されていたのは、蔦で出来た、人型に見える茂みばかり。死体が見つかることはありませんでした……。
※
百合子が語り終えるまでの最中、俺の身体は同じ方向を見せられたまま固定されていた。彼女が耳元で囁き続ける間、ずっとである。
声は心地よく、汗がひきつつあった肌がしっとりと吸い付き合うのは気持ちがいい。だが……。俺の意識は、何気なく発見してしまった……〝蔦〟に向けられていた。
彼女は、ガーデニングが趣味だという。流石に賃貸マンションでは本格的には出来ないので、プランターを大量に購入して花や野菜を育てる辺りで妥協しているらしい。結果、この部屋は常に花や草木の香りで満ち溢れている。
だからあの蔦も……。殆どの観葉植物を覆い隠し、ベランダどころか部屋の中にまで侵食しつつある緑色の群体も、その一つなのだろう。
いつかに夏場の暑さ対策としてテレビで特集されていた『グリーンカーテン』というやつに違いない。……そうに決まっている。
「……村で殺されたという人は、一体どこにいたんでしょうね?」
悪戯っぽく笑いながら、百合子がそっと身体を離す。ようやく拘束が解かれた俺は、全力で蔦が茂る一角から目を逸らした。風で葉が擦れる、カサカサという嫌な音だけが耳と心臓に悪かった。
「情報が少なすぎるな」
村人全員が蔦になったのは少しゾクッとしたが、よく振り返ってみると時代背景どころか、国や流通も謎。これで真実を暴けという方が無理というものだ。
至極真っ当な主張だと自分でも思う。だが、そんな俺に返ってきたのは百合子の嘲笑だった。
「あはは……嫌だなぁ先輩。情報はありますよ? 村人全員に蔦が生えた。殺された者が殺した者の体内に入らねばならない。これだけで想像や妄想を働かせるには充分過ぎるのに」
まるで出来の悪い学友を諭すかのような口調に、俺は思わず眉をひそめた。
「……でもそれだと、完璧な答えは出ないだろ」
「怖い話を定義したり議論するときに必要なのは、完璧な推理ではなく、不朽の想像力である。と、百合子の先輩その1は言ってました」
「その1ってお前……」
誰だ……?
サークル内の男達を思い浮かべる。いいや、その中で限定するには狭すぎるので特定は出来なそうだ。俺は……その何番目なのだろうか。
彼女は俺の恋人ではない。その事実を改めて思い出し、モヤモヤとした感情が胸に巻き起こる。すると百合子はそれを目敏く察知したのか、「やきもちですか?」と小悪魔のように微笑んだ。
「どうやって、殺された人は口に入ったのか。どうして死んだ人は村に殺されたと思ったのか。そもそも、そんな魔的な蔦がこの世に存在するのか。何パターンも想像できて楽しいですよね。怖い話の醍醐味です」
「……じゃあ、お前の想像はどんなのなんだよ」
聞かせてみろよという挑戦的な俺の声色に、百合子は不敵に笑いながら細い指を一本立てた。
「まず、死体を食べるという点がまず現実的ではありません。何かに染み込ませている。とかが妥当かも。たとえば……村で共用している井戸に、沈めちゃったとか」
スープの出汁ならぬ、死体のミネラルウォーターです。そう語る彼女の斜め上。枕元には、市販の天然水ボトルが転がっている。
事の合間に百合子が飲んでいたものだ。俺も一口貰ったのだが……。その時少しだけ、腹部に不快な澱みが広がった気もしたのを思い出す。……気の所為だ。今こんな話を聞いてしまったからに決まっている。
そんな負の思考に陥りつつある俺を知ってか知らずか。百合子は無邪気に話を続けていく。
「次に、何故被害者が殺されたと感じたか? 旅の青年が言う、閉鎖的な村だとしたら……。そうですね。忌み子など、どうでしょう?」
「忌み子?」
「望まれないまま生まれてきた子のことです。他にも生まれながらに気狂いだったり、異形だった子もこれに該当しますかね。総じて、生まれたこと自体を隠されている子が多いのだとか。日本にも昔いたそうですよ」
良家であればあるほどに忌み子が生まれればそれを恥じ、座敷牢に入れて一生出さない。なんてエピソードもあったらしい。そう百合子は補足した。
「生まれてきた子が世界を、村を恨み、蔦の化け物になる。とかどうでしょう? このまま行けば、自分は家から出られない。だからせめてもの報いに、井戸に飛び込んでやった……。まぁ、あくまでパターンの一つですが」
「……そこまでくれば想像の域を越えてるな。もはや妄想だ」
あまりにも自信たっぷりに彼女が語るので、つい皮肉を込めてそう言うが、彼女には通じなかった。それどころか「ああ、そういえば先輩その1も、妄想力とも言えるね。と漏らしてました」といった、引き出したくもない話に繋がってしまう。
先輩その1とやらと百合子はやはり親しいのだろうか? 彼女の交遊関係は、未だにサークル内ですら謎に包まれている。それほどまでに、どんな繋がり? となりそうな知人が多いのだ。
もしかしたらその人物も今の俺と百合子みたいに……。
「ところで、追加でもう一つ。あそこの蔦ですけど、実は外国産なんですよ。昔、父が旅行のお土産に持ち帰ってきたものでして。なんで蔦のなんかを? って当時は思いましたが……。アレ、ちょっとしたいわく付きなんです」
嫌な妄想が加速しかけた時、不意に百合子の言葉で現実に引き戻される。いかにも怪しい気配を感じ取り、これ以上は聞くのを拒否しようとするが、百合子の手足がまるで蔦のように絡み付いてきて、俺は逃げることが出来なかった。
「ある廃村に異様な程に群生していたそうで。そのせいか、風が吹くと恨み節のような声が聞こえてくる村だったそうです。まるで蔦が喋っているかのようで……父はそれが面白くて持ち帰ったのだとか」
「……まともな神経じゃない」
語られるエピソードの感想を震えながら述べる。すると、百合子は目を細めながら舌なめずりした。
「別にただの廃村ですよ? 最初に語った怖い話と関係があるとは言っていません。まぁ、無関係だと言い切りもしれませんが」
悪戯っぽい表情になる百合子。つかみ所のない彼女の態度が、怪談への引き込みを加速する。俺はもはやどこまでが真実でどこまでが虚構なのかさえ曖昧になってきていた。
どうして彼女は急にあんな話をし始めたのだろうか? その理由がさっぱりわからない。すると彼女は少しだけキョトンとしてから、にちゃりと淫靡に口角を歪めた。
「最初に言ったじゃないですか。怖い話が大好きなんですって。こういう一面は、親しい人にしか見せないんですよ?」
だから、見てほしい。そう思ったまでです。
感情の読めない声で彼女は締めくくる。
俺は嘘だとすがりつきたかった。彼女が親しくしている人間なんて、掃いて捨てるほどいる。その中の特別な一人に俺ごときがなれるとは思えない。
だが、それを口にした瞬間に彼女はいよいよ俺に愛想を尽かせてしまうのではないか。それが怖くて、俺は何も言えなかった。
「先輩、これはただの怪談。深く考えなくていいんです。嵌まり込みすぎたり、覗きすぎれば……戻ってこれなくなっちゃうかもしれませんよ?」
ごめんなさい、ちょっと私もはしゃぎすぎました。
百合子はそう呟きながら、ますます俺に身体をくっつけてくる。あり得ないくらいに柔らかくて。クラクラするほどいい匂いがした。
そこで不意に、甘えるような声色で「百合子は先輩から見たらどう映りますか?」という質問が投げかけられる。
怪談をおねだりしてきた時と同じ目が、俺を捉えていた。
今は少しだけ怖いと言えば、不満げに唇を尖らせたので、俺は必死に言葉を探した。
まず美人というよりは、可愛らしさが目立つ。
濡れ羽色のゆるめにウェーブがかかったロングヘア。目元と鎖骨の下にある黒子。本人曰く、あまりスタイルに自信はないらしいが、俺から言わせれば彼女にケチをつけるなど、とんでもないことだった。女神とアイドルと百合子。どれを選ぶか迫られても迷うことはないだろう。小悪魔みたいな一面もあるが、それも君なら長所に変えるのだろう。
ここまで述べて、今度はあまりにもベタ褒めしすぎていることに気恥ずかしくなった。だが、彼女は嬉しそうに「もう一声」なんて言ってくる。
あっさり乗せられた俺はまたしばらく考えて。ふと、さっき発見したことを思い出した。
君は……。何だか今日は甘い味がする。
それを伝えた時。俺は百合子の目が爛々と輝いたのを見た。
不吉さにハッと息を飲んだ時にはもう遅い。彼女の顔が再び怪談を紡ぐときと同じになり、そのまま、彼女の手が俺の唇に添えられた。
「甘葛を塗ってみたんです。先輩が楽しんでくれたらいいなって」
どこに塗ったかは、内緒です。
そう嗤う彼女を見て、俺は首を傾げた。なんだそれは。香水か? と口にすれば、「調べてみてくださいな」と彼女は俺を翻弄する。
だから俺は何も考えずに床に落ちていたスマホを取り上げて……。
数秒後、自分の体温が急速に引いていくのを感じた。
甘葛とは……蔦を切り刻んで作る、甘味料だという。
「どう、して……?」
いや、待て。お伽噺だ。ただの怪談だ。そう言っていた。けどそういえば、彼女は語り出す前にこうも言っていなかったか。
『これは……とある村で実際に起きたお話です』
震えながら俺はベッドから降りようとする。が、それは途中で背中に抱きついてきた彼女に阻止された。
「先輩の唇が百合子に触れていないとこなんて……探す方が大変かもしれませんね」
彼女の声が耳を蹂躙する。浅い呼吸を繰り返す俺に、逃げてどうするんですかぁ? と彼女は呟いた。
「大丈夫。いざって時は、百合子のグリーンカーテンになりましょう? 大切にします。だから、ほら……」
本当に生えてくるのか……百合子に見守らせて?
柔らかい指が俺の背中をなぞる。その瞬間、耐え難い痒みに襲われた。背中に、冷たくも何か柔らかい茂みのようなものが触れている。人肌ではない。これは……。
身をよじる。ベッドの上が、蔦にまみれていた。それは俺と百合子の間で絡まり合い、それが現出した直後、辺りは青臭い匂いに包まれて――。
「あ……ひ」
百合子が顔を輝かせながらそれらを摘まんでいるのが見える。その光景を最後に……俺は気を失った。
※
目を覚ました俺の身体は人間に戻っていた。目の前が見えなくて少しだけパニックになっていると、ポンポンとあやすように後頭部を叩かれる。どうやら、百合子の胸に顔を埋める形で眠っていたらしい。
「おはようございます。先輩。……ああ、さっきの蔦は偽物で、肌に塗っていたのはボディバターです。ご安心を」
ペロリと舌を出しながら、百合子が種明かしする。どうにも俺は彼女の悪戯に巻き込まれたようだ。心臓に悪いぞと悪態をつけば、彼女はごまかすように手を合わせる。それだけで、俺は一気に力が抜けるようだった。
まぁ、なんともなかったのならいいだろう。心底震え上がりはしたが、ちょっとした夏の風物詩とも言えなくはない……。
「まぁ、甘葛もちゃんとありますけどね。あれは本来身体に塗るものではないので」
百合子の余計な一言で、ホッとしかけた気持ちがまた奈落へ突き落とされる。
恐る恐る顔を上げるとアンティークランプの淡い光が、彼女の顔を妖しく照していた。
「大丈夫。先輩には使いませんから」
演出だよな。俺が祈るように尋ねれば、彼女は含みのある答えしか返してくれなかった。結局百合子はそれ以上何も語らず。帰るタイミングを完全に逃した俺は、「今夜はもう泊まっていってくださいよ」という彼女の提案を受け入れた。彼女といるのも怖いが、それ以上に一人になるのが怖かったのだ。
外は既にとっぷりと日が暮れている。どうやら風も強いらしい。何となく窓際を向くのが嫌で、壁の方を向こうとしたが、それを百合子は許してくれなかった。
彼女の頭が丁度顎の下にきて。必然的に俺は再び、窓からベランダを見せられる羽目になる。
蔦が形成したグリーンカーテンが風にさらされていた。そして……。俺はそこで初めて、その下にある謎の茂みに気がついた。それは丁度成人男性一人が身体を横たえたかのような大きさで……。
「…………っ!」
ひゅんと、心臓が縮み上がりそうになる。すると胸元で笑いを堪えるような息遣いがした。百合子が……上目遣いでこちらを見つめていた。
「ビクビクする先輩、とっても素敵でしたよ。だから…………」
ただ一言。眠気の混じった小さな声で俺にそう伝えたきり、彼女は目を閉じて。こっちの気も知らずに穏やかな寝息を立てはじめた。
それを見た俺は、震えながら唇を噛み締める。騒動の黒幕はこうして静かになったのに……吹き荒れる風のせいで、部屋はちっとも静かにならなかった。
蔦が……声を上げているのだ。
それはなるほど、確かに怨嗟の声に聞こえてくる。悲鳴にも呻きにも聞こえるそれが、蔦が擦れる音と一緒にざわめきを生む。
その姿は……まさに恨みをもった蔦の化け物そのものだった。だが……俺はそんなものよりも恐ろしい存在を今抱えていて。それがただ、恐ろしかった。
眠る直前に百合子が口にした言葉が耳から離れない。
『また、やりましょうね』
あの時見せた彼女の目は、欲しかった玩具を手に入れて喜んでいる子どものそれ。
俺の平凡な情緒は、この小悪魔のような怪談家によって、既に切り刻まれていたのだ。