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「おかえりなさいませ、旦那さま」


 ヘルマンが屋敷に戻って食堂へ向かうと、笑顔のルーテシアが出迎える。ヘルマンは難しい顔のまま、軽く会釈だけをした。


 しかし、ルーテシアの笑顔が苦いものに変わっていくのを見て、瞳に力が入る。


「……帰りが遅かったでしょうか」

「え? いいえ?」


 何のことかわからずにルーテシアは不思議そうな顔をした。ルーテシアは、自分で自分がどんな顔をしたのか、まったくわかっていない。


「……そうですか。それでは、食事にしましょう」


 しばらく見つめ合った後、ヘルマンがそう促す。だが、またルーテシアの表情がバツの悪そうなものに変わった。それを、ヘルマンは見逃さない。


「何かあるなら……」

「す、すみません、ヘルマン様!」


 様子のおかしなルーテシアにヘルマンが尋ねる前に、思い切り頭を下げて謝った。


「あ、あの。こんなはずではなかったのです! 王宮料理集の中でも一番簡単そうなものを選んだのですよ!? ですが、どうも火加減を間違えてしまったようで……」


 ルーテシアは焦っていて経緯をうまく説明することができない。その言葉の断片から、どうも料理の話をしているらしいと察したヘルマンは、目線をテーブルに移す。その中心には、大きな皿に表面が焦げて黒くなっている何かが置いてあるのが見えた。


 この屋敷では日中、数人の通いの侍女と料理人が来て掃除や食事の支度をしてくれる。プロがこんなに黒焦げのものを作るとも思えなかったので、この真ん中の料理はルーテシアが作ったと予測できた。ルーテシアの表情の意味はこの料理にあったのだ。


「そうでしたか」


 ヘルマンはいつもと同じような平坦な口調でつぶやいた。ルーテシアは恐る恐る様子を伺うが、表情もいつもと変わらなかった。


「食べましょう」


 改めてそう言って、二人は食卓に向かい合って座る。中央に置かれた焦げ目がつきすぎた料理はグラタンだった。


「あの、これは食べなくて、大丈夫ですからね。グラタンの他はいつもの方が作ってくださったものです。そちらを食べましょう」


 ルーテシアはそう言ったが、ヘルマンが真っ先に手をつけたのはグラタンだ。


「! ヘルマン様!」


 グラタンは全体が焦げているわけではなく、焦げていない部分もあった。その部分を自分の皿に取り分けて、ヘルマンは口に運ぶ。


 味は、確かに焦げた味がした。中に入ったマッシュポテトも、なめらかなものではなく、時折しゃりっとした食感がある。それでも、ヘルマンはただ無表情で口に運び続けた。


(もしかしたら、美味しくできたのかしら……)


 あまりに表情が変わらないので、ルーテシアはそう思って自らも取って食べてみたが、やはりお世辞にも美味しいと言えるものではない。中に隠し味として入れたハーブも、嫌な苦味を後味に残す悪いスパイスとなっていて、思わず顔をしかめてしまう程だ。


「あの……これ、美味しい、ですか?」


 淡々とグラタンを口に運ぶヘルマンを見て、ルーテシアはそう尋ねずにいられなかった。もしかしたらおかしいのは自分の味覚なのではないかと思うほど、ヘルマンの表情が変わらなかったからだ。


「いえ。美味しくは、ないですね」


 ヘルマンは迷うことなくそう言う。あまりにあっさりと本音が聞けて、ルーテシアは拍子抜けした。


「ですよね……」

「焦げているだけではなく、ベシャメルソースにも固まりがあり、味も薄いです」

「ふふふ、そんなはっきりと」


 こういう時は気を遣ってそんなにはっきりとダメな点を言うものではないだろう。それなのにはっきり指摘をするヘルマンが何だかおかしくて、ルーテシアは思わず吹き出してしまった。


「ごめんなさい。謝らなくてはならないところでしたね」

「いえ、私こそまずはお礼を言うべきです」

「ふふふ、じゃあお互い様ということで」


 面白さと嬉しさでルーテシアは笑いが止まらない。ヘルマンは笑ってはいないが、恐らく怒ってもいないのだろうと、ルーテシアはなんとなく推測できた。


「それではちゃんとした食事を始めましょう」


 ルーテシアが言って、料理人が作ってくれた料理にそこで初めて手をつける。


「やっぱりプロが作ったものが美味しいですね。私がプロを真似しても、到底及ばないことがわかりました。今回、私は図書館にある王宮料理集という本を元にして作ったのです。ですが、ダメですね。基本が作れる前提で書かれているんですもの。『マッシュポテトを作る』で片付けられているんですよ? そのマッシュポテトをどうやって作ったらいいか……とりあえず芋を煮てみたらできるかな、と思ったんですけれどね」


 喋るのはルーテシアだけだ。ヘルマンは前と同じように黙々と食事をする。それでも、ルーテシアはとても楽しそうなままだ。


「やっぱり同僚に言われた通りでしたね。今度は町の本屋か図書館に行って、基本の料理の本から読んでみることにします。ですが、料理って初めてしましたが、面白いものですね。途中から食べるものを作っているというよりは、実験をしているような気持ちになってきて……」


 そうしてルーテシアは食事が終わるまでずっと料理を種に話し続けた。ヘルマンがナプキンで口を拭うのを見て、ようやく口を閉じる。


「ごちそうさまでした」


 二人でそう言い合って立ち上がった。ずっと一人で話し続けていたというのに、ルーテシアの心の中は温かく満たされている。


 ヘルマンの新しい一面がまた知れた。世の女性の間では意見が別れそうだが、ルーテシアは気を遣って嘘を言われるよりははっきりと美味しくないと言ってくれた方が嬉しかった。


 それに、冗談も言い合えた。笑いこそしなかったが、少しだけ距離が縮まったように思える。


(こんなに楽しい気持ちは久しぶりだわ)


 実家を出て結婚生活が始まったこの2ヶ月間、ほとんど家では一人きりで過ごしてきた。思っていた以上に寂しい思いをしていたのだと、ルーテシアは初めて自覚する。


(今夜は幸せな気持ちで眠れそうね……)


 そう思いながら歩いていたのだが、突然ヘルマンがある部屋の前で立ち止まった。ヘルマンの寝室はルーテシアの寝室と同じく二階だ。ここはまだ寝室ではない。


「…………」


 ヘルマンは難しい顔をしたまま、しばらくルーテシアと見つめ合う。ルーテシアは自分が何かしてしまったかと、思いを巡らせた。しかし、思い当たる節がありすぎて、どれがダメだったかわからない。


 ルーテシアが謝るべきかと悩んでいると、先に口を開いたのはヘルマンだった。


「……紅茶でも飲みますか?」

「え? あ、はい」


 勢いで頷いてから、ルーテシアは、


(そうだわ! 私が奥様なのだから、私に用意してほしかったのね!)


 と、理解する。


「気がつかなくて申し訳ありません。それでは紅茶を淹れて、ヘルマン様の寝室に……」

「いえ、紅茶は私が淹れます」

「え? ヘルマン様が?」


 自分の理解と別のことを言われて、ルーテシアは目を丸くする。ルーテシアの実家では、お茶はメイドか、母か姉が用意するものだった。父や兄が厨房に立ったのを、ルーテシアは一度も見ていない。


「……グラタンを作っていただきましたから」


(あの美味しくなかったグラタン?)


 ルーテシアは首をかしげるが、その間にヘルマンは扉を開いた。


「こちらにいてください」


 そうルーテシアに言うと、ヘルマンはすたすたと歩いて厨房の方へ消えていく。この部屋はリビングだ。ルーテシアは今まで食堂と自分の寝室にしか出入りしていなかったので、この部屋には初めて入る。


 おそるおそる部屋に入ると、今はカーテンが閉まっているが、大きな窓がある。花柄のソファが向かい合って置いてあり、その真中にはローテーブル。冬に使うであろう暖炉や観葉植物、本棚もある、落ち着いた空間だった。


 本棚の中身が気になるが、元々はヘルマンの屋敷であったという意識が強いので、許可なしに見ることはできないと判断し、ひとまずソファの端に座った。しんと静まった部屋をキョロキョロと見回して、一通り渡すと、そこでようやくルーテシアは先程のヘルマンの言葉を思い返す。


 「……グラタンを作っていただきましたから」という言葉だ。


(グラタンのお礼に紅茶を淹れてくださる、ということ……?)


 もし、そうだったとするならば、なんて幸せなことだろう。ルーテシアは胸が熱くなるのを感じながら、一人笑みをこぼした。


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