呼び名
ヘルマンは連日忙しい日が続いている。護衛対象であるアンジェリカ王女はプルガトルへ行く前に方々への挨拶や式典の参加など多忙を極めていた。
それに加えて自身も近衛騎士としての教育を受けなくてはならない。休みはほとんど取れない状態だ。
それでもせめてと、なるべく早く帰宅しどんなに疲れていてもルーテシアとの会話を楽しむ。ヘルマンはいつも休みを合わせることができないことを謝っていたが、ルーテシアはこうして毎日顔を合わせて会話ができるだけで十分に幸せだった。
今日もリビングではそんな夫婦だけの時間が流れている。ソファで隣同士に座り、手を繋ぎながらルーテシアが話をするというのがいつもの時間の過ごし方だった。
「それでね、引き継ぎのために新人を取ることになったんですけど、これがまた大変なことで」
ルーテシアもヘルマンについてプルガトルへ行くことを職場に明かしたので、通常の業務の他に引き継ぎの準備などそれなりに忙しい日々を過ごしている。
「こんな変な時期なので募集してもなかなか来ないんですよ。来たとしても、身分が足りないと上が口を出してきたり……」
王立図書館の司書となるには王城の中で働くことになるので、ある程度の身分が必要だ。ルーテシアはそういったところよりも能力を重視して採用したいと考えているのだが、どうにもうまくいかないらしい。
「それに、一番面倒なのがオベロスタさんなんです」
ルーテシアは話に夢中で気がついていないが、ヘルマンのこめかみがピクリと動いた。
「能力はもちろんですけど、一緒に働くなら年下がいいだの、できたら可愛い女の子がいいだの、注文が多いんですよ! 本が好きな人でないと、っていうのは同意しますが、オベロスタさんとの相性まで考えていたら、採用に時間がかかりすぎて。だいたい、オベロスタさんは……」
「ルーテシア」
それまで静かに話を聞いていたヘルマンが話を遮る。ヘルマンは不思議に思うルーテシアの足と腰の辺りに手を回し、あっという間に自分の膝の上にルーテシアを乗せてしまった。
「!? ヘ、ヘルマン様?」
「ルーテシア」
厳しい表情のヘルマンはルーテシアを抱きかかえたまま声をかける。ルーテシアには、ヘルマンが何故か機嫌を悪くしていることがわかった。
「ど、どうかしましたか?」
「前々から思っていて、いつか言おうと思っていたことがあります」
「何でしょう?」
改まって言われると緊張してしまう。ルーテシアは戸惑いながら尋ねた。
「もう私のことを様付けで呼ぶのはやめなさい」
「!?」
直前の会話とまったく関係のないことを言われて、ルーテシアは目を見開く。
「突然どうしたのですか?」
「夫婦となってしばらく経つにも関わらず他人行儀な呼び方は気になります」
ルーテシアとしては、ヘルマンに気を遣って様付けしているわけではない。はじめからそう呼んでいたので、もう口に馴染んでいる。
「ですが、女性としては旦那さまに一定の敬意を……」
「必要ありません」
言い訳をしようとするも、最後まで聞かずにヘルマンはぴしゃりと跳ね除けた。
「それならば、様付けにするのは外でだけにすればいいでしょう。こういう二人だけの時は名前で呼んでください。私は気にしませんから」
ルーテシアは自分がヘルマンを呼び捨てにすることを想像して、むず痒さから身じろぎする。
「だ、だったらヘルマン様も私にもっと砕けた口調で喋ってください。ガリオ様にするように!」
以前断られていたが、ルーテシアはもう一度その話題を出す。今でもヘルマンの気さくな口調に憧れてもいたし、嫌だと言うのならば自分もヘルマンへの呼び方を変えずに済むのではないかと考えたからだ。
「親しさという観点で言うなら、それは見当違いですよ。ルーテシア」
ヘルマンは不機嫌なままでそう言う。
「私は元々こういう喋り方の人間です。ですが、後輩に丁寧に喋ったのでは威厳がなくなってしまうので仕方なくしていることです。なので、こうやって話している方が自然なんです」
「むぅ」
ルーテシアは唇を尖らせる。
「だったら私も……」
「ルーテシアは違うでしょう」
むくれるルーテシアにもヘルマンは容赦なく言う。
「私とは違ってルーテシアは家族に砕けた口調で話していますよね。どちらかといえばそちらの方が自然なのではないですか?」
「それは……」
確かに親や兄達にも丁寧な言葉遣いで喋るヘルマンとは違い、ルーテシアは兄や姉に砕けた口調で喋る。そういうところをヘルマンに気が付かれていたのかと思うと少し恥ずかしい気持ちになった。
「だから、私の口調のことを言うなら、まずルーテシアから変えてほしいところですね」
「それは無理です!」
突然ヘルマンに砕けた口調で喋るなんて、敷居が高すぎる。ルーテシアは大きく首を振って拒否した。
「なら、呼び方くらい変えてくれてもいいのではないですか?」
「うっ……」
上手くヘルマンに誘導されてしまったルーテシアは言葉に詰まる。口調を変えるよりは、呼び方を変える方がまだましなことは確かだった。
「それに、同僚にはできて私にはできないというのは、悲しいものですね」
「同僚?」
「ええ。さん付けで呼んでいる人がいるでしょう」
「オベロスタさんですか?」
その名前を口にすると、ヘルマンの眉間に皺が寄る。それで、どうやら正解を言ったようだとわかった。
オベロスタとルーテシアの家の階級は同じなのでさん付けで呼んでいるのだが、それを言ったらヘルマンの機嫌がさらに悪くなる予感がして、ルーテシアは言わない選択をした。
ルーテシアはそっとヘルマンの髪の毛に触れて、ぎこちないながらも撫でる。ヘルマンが僅かながらでも嫉妬しているのだとしたら、たまらなく愛おしく思い、そうしたくてたまらなくなったのだ。
「子供っぽいと呆れましたか?」
ヘルマンもルーテシアが理解したとわかり、ルーテシアの手を甘んじて受け入れながらそう尋ねる。いつもよりも心もとない声色は、ルーテシアの心を撫でてときめかせた。
「自分がこんなに独占欲の強い人間だとは」
ヘルマンはため息混じりにそう言う。ルーテシアはヘルマンの頭にぎゅっと抱きついた。
「私も一緒です。いくら大丈夫と言ってくれても、町で見たアンジェリカ王女が頭から離れないんです。私とは違う魅力を持った方でしたから」
「ルーテシアに勝る女性はこの世に存在しませんよ」
ヘルマンはルーテシアの背中をよしよしと撫でる。ルーテシアはヘルマンの腕の中で、この上ない幸福感で満たされていた。
「ヘル、マン……」
ルーテシアが意を決して呼んだ名前に、ヘルマンの目が僅かに見開かれる。
「……さん」
しかし、すぐに付け足された言葉に、ヘルマンは思わず笑ってしまった。
「ははは」
漏れ出た笑いを聞いて、ルーテシアはヘルマンと顔を合わせる。気の抜けた笑顔を見て、ルーテシアの顔の熱が一気に上った。
「今はこれで……いいですか?」
「しょうがないですね」
笑顔のまま、ヘルマンはルーテシアの頭を撫でる。
「ですが、いずれ『さん』もなくしてくださいね。あと、口調も」
「もう、ヘルマン様ばっかり……」
「ルーテシア」
つい様付けで呼んでしまったルーテシアをヘルマンが咎めた。ルーテシアがしまった! という顔をしたのを見て、ヘルマンは再び笑う。
「もう様付は許しませんよ?」
「許さないと言うと……?」
「そうですね。私もルーテシアのことを『ルーテシアさん』と呼ぶことにしますよ」
「そんな! 私、ヘルマンさ……んに、ルーテシアって呼ばれるの、好きなのに!」
「ふっ」
ヘルマンは“笑わない騎士”と呼ばれているのが嘘のようによく笑うようになった。ルーテシアはヘルマンが笑う度にその笑顔に魅了される。
「それが嫌なら気をつけることですね」
「もう……ヘルマンさんのいじわる」
どぎまぎとする心を隠すように唇を尖らせてそう言うと、その唇にヘルマンが吸い付いた。
「!」
「まったく、可愛い人だ。ついいじめたくなってしまう」
「!?」
ルーテシアが顔を真っ赤にするのを見て、ヘルマンは目を細める。
「可愛い」
ヘルマンが繰り返す言葉を聞いて、ルーテシアの心臓は爆発寸前になった。ルーテシアはヘルマンの頭に再び抱きついて、自分の顔を隠す。
「うーっ」
そうしてルーテシアは心臓のドキドキが収まるまで、しばらく抱きついたままでいたのだった。




