#51 一匹人狼
ルベドの森深層。そこには様々な魔獣が潜んでいる。生きるために本能的に、打算的に、己らの力の性質を理解し、各々最適な方法で状況判断する魔獣たち。
そんな魔獣たちですら異常を疑う光景――漆黒の旋風に天を貫く火柱、森を薙ぐ竜巻が観測された後のこと。少なからず存在する知性を持つ生物たちは、一様にその意図を測っていた。
「……あれは、錬金術?」
大魔女同士の派手な喧嘩よりも恐ろしい光景を見て、少女は独り呟いた。
「やっぱり、生きてた」
おびただしい魔獣の死骸の山を築いた人狼は嗤った。
「あの主が死ぬはずがないんだ」
虚ろな表情で、二振りのククリナイフを強く握りしめた。重厚な刃はどちらも血に濡れ、なおくすまない神銀の輝きを薄暗い森の中で跳ね返す。骸にはいずれも深い傷跡が刻まれていて、とりわけ目を引くのは天性の戦闘センス。
空舞う鳥の魔獣には羽を正確に射抜く投げナイフが幾本も突き刺さり、地駆ける猪の魔獣には真っ向ぶった切ったであろう荒々しい切り口。いずれも適切且つ果断に対処していながらも、対処した彼女がまた異端とも言えるだろう才覚を持っていることの証左だった。
なにせ素の獣とは一線を画する運動能力の持ち主たちだ。飛ぶ速度、駆ける速度どちらをとっても通常の三倍はあるとみてよい。だのに、そのどれもが一切の搦め手を使われず破られているのだ。
機敏に舞う鳥獣に百発百中の精度で投げナイフを放ち。
力強く突っ込む巨猪に力で打ち勝ち、たたっ切って。
立ち居振る舞いは正に獰猛な狼。どこか雄々しくも見える少女の姿を、遠巻きより監視する無数の影があった。
それはいずれも柔らかい毛に覆われた耳、威嚇するように振った尻尾、そしてあらゆる命を噛み千切る犬歯を剥きだして睨んでいる。
ルベドの森深層に潜む人に化け、人を喰らう、人の天敵。
彼らこそが亜人族人狼種。
人を超える身体能力を誇り、人に成り代わる『存在希釈』の能力を持つ、人の姿をした獣。
その彼らですら、彼女には手が出せなかった。
ふと、虚空に向けて語り掛けた少女は、影が差した空笑いを浮かべる。
「人に化けて人を殺す人の天敵が、天敵にもなれず捨てられた失敗作相手に、こそこそなんてするなよ」
底冷えするような、底知れぬ恐怖が背中を駆けた。
潜んでいる、ではない。彼らは隠れていたのだ。体を覆い、息を潜め、魔力を隠して。にもかかわらず、圧倒的な感知能力はその全てを看破する。児戯だと、些事だと言わんばかりに、いとも容易く。
あまりにもあっけなく、それでいて唐突な宣言。
人狼たちは数多の量が藪に隠れて様子を見ている。
さすがにそれはただのカマかけだろうと高を括っていたが、次の一言でさらに背筋がぞっとする。
「あんまり無様を晒していると、つい殺したくなるだろ」
陰鬱な陰を帯びた、灰色の眼差しこそ、彼らの恐怖を駆り立てたのだろう。
群れの内の一人が恐怖に駆られて攻勢に出てしまおう、などと思った矢先だった。
「殺されるのはご勘弁願いたいものだね」
藪の中から一人の男が、狼の耳と牙、尻尾を隠すことなく現れた。
野性味あふれる乱雑に整えられた灰色の髪をかきあげ、服に付いた小枝や葉っぱを払い落とす。理知的な輝きを宿した灰色の目にお似合いのリムレスの眼鏡をかけている。
「いやはや、同じ種とは思えぬ戦力……もはや暴力だね。止まることなき破壊の力、律することもできない無駄な力だ」
観念したようでいて、芝居がかった台詞で彼女を非難する人狼の男。どこか自分の主の一面っぽく見えて腹立たしくも思えたが、少女はおくびも怯まない。
「この森で生きるのにつけた力を、どうそしられようと知らんことだ。力が無ければ我を通すことはおろか、大切なものすら守れないからな」
決断的に言い放ったその一言こそ、今の彼女の本心だった。
どのような心中か、人狼の男は眉をひそめてこう返す。
「……理解し難いね。度し難いね。はぐれとはいえ同族同士、ここまで力の差が付くのも、ましてや背反するのもね」
「背反しあったからこそ、私が今貴様らを圧倒している道理だろうよ」
泰然自若とした少女は、血と泥で汚れたキャスケットを脱ぎ捨てる。
改めて露わになった狼耳と、呼吸の度にちらりと見える剥き出しの鋭牙こそ、紛れも無い同族の証明。
己たちの同族が、森に不当な屍を築いた犯人なのだから。
愛しき主が、ヘルメス・トリスメギストスが作り上げた愛刀を。ウルミベルト『グレイプニール』を引き抜いた。頬に付いた血を拭い、メイド服の人狼少女は静かに言い放つ。
「我が名はフェンリル――天秤の錬金術師、ヘルメス・トリスメギストスが従者、人狼のフェンリルだ。貴様ら狼どもの長を出せ」
最後までお読みいただきありがとうございました。
一匹狼になってしまったリルは果たして何をしでかす気なのやら。




