#50 反撃ノ間
「……生きてる」
目を開けて、なにも遮るものが無い大空を仰ぎ見て、ぽつりと呟いた女性――ヘルメス・トリスメギストスが起き上がる。
「グォォォンッッ――!!」
聞きなれた咆哮が耳に入る。
体を包む毛布、背中のごつごつした感触、それに頬を撫でる風切り音が心地いい。
上体を起こそうとするが、寝転がったまま動かないようす巻きに固定されてて思うように動けない。
――そうだ、今の鳴き声は……。
「ミスト、か」
「クァァッ――」
空を飛んでいると、自分を取り巻く状況で察した。
再度、優しい鳴き声が空に響く。自発的にめくられた鱗に縛り付けられていることが分かり、ヘルメス自身も安堵する。まさか飛行物体の舳先にでも括りつけられていないかと、昔見た映画のワンシーンみたいなことをされていないか少々心配になってしまっていたからだ。
そんな自分の声を聴いたかどうか。空を飛んでいるはずのミストの背中を、落ちないか心配になるような速度で駆け寄ってくる三人の影。ヘルメスはまさかと思い、目を丸くした。
「ヘルメスさん! 大丈夫ですか!?」
「よかった……心配したんですよ? 合流したらもう死にかけてたんですから」
「おぉーっ! 目ぇ覚ましたよーステラぁー!」
まずはシアラ・ウィル・マナリア――気絶する前に居たはずの少女。彼女はまあ分かる。なにせ記憶が残っている中では、彼女は傍に居たからだ。
ついでラフィーゼ・エリュシオン――きっと気絶する前に会っているはずのない少女。『聖天教』にまつわる色々はつい何日か前に片付けたはずなのにと、起き抜けの頭でぐるぐると考えていた。
そしてヴァニラ・メロウ――たしか出会ったのは……ああもう考えるのが嫌になってきた。
少なからず自分が異常な状況に置かれ、且つその異常な状況から救い出された――そればかりは分かってきた。自分を取り囲む三人の少女に――その内一人は魔女だが――顔をにへらと緩めそうになるも、記憶がふつふつと蘇るにつれて表情を強張らせていく。
「あー……その……おはよう」
「おはよう、ヘルメスちゃん。気分はどう?」
「……おはようステラ。目が覚めたら美少女三人が居るんだ、最高の気分さ」
「あら、強がりは良くないわ」
諸手を挙げてステラ……おそらく自分が敵わないであろう相手にホールドアップ。頭が痛いわ体が重いわ、呼吸すらも億劫だわ。最悪の体調ながらも、瀕死の状態からは解放されたようだ。
「今と少し前の状況、そして今後何をすべきかを説明してくれ」
「ええ、すぐにでも説明を。……と、言いたいところですがね」
ヘルメスは真面目に言ったはずだった。けれどもステラの表情は固いままだ。まさか自分に何かしら間違いがあっただろうかと、珍しく己を省みるも、思い当たる節がいまいち浮かばなかった。
なんて思っている内に、ステラからまるで諭されるような、叱られているような語調で告げられる。
「ヘルメスちゃん。貴女はまだお休みなさいな。体だけでなく精神の疲労も見えるわ。ほら、綺麗なお顔が台無しよ?」
「……いや、いやいやいや。俺のことなんざどーでもよくて……」
「そんなこと言ってると、私どころか皆で抑え込むことになるわねぇ」
「スミマセンデシタ」
逃げないように取り囲む者たちが思い思いの感情を込めて、起き上がろうとするヘルメスのことを見ていた。
シアラの泣き腫らして怒っているが、「助かってよかった」と心から喜んでいるだろう目。
ラフィーゼの何はともあれ無事でよかったが、あまり人に心配させるなという不満げな表情。
ヴァニラのよく状況は飲み込めてないが、ぶっ倒れたヘルメスの体調は気遣っているだろうあっけらかんとした笑顔。
三人……まあ一人はさておきだが。その目を見るだけで反抗する意気は失せたのだが。なにより恐ろしいのは、すぐ側で微笑みを絶やさず座っているステラだった。こうなった時のステラは何が何でも休ませてくるし、誰の反論をも許さない。彼女なりの甘やかしなのかは知らないが、少なくとも頭目の長たるレジーナですら敵わなかったくらいだ。身体能力なんぞでステラに適うはずもない。
「じゃあさ、ステラ」
「なんでしょう、ヘルメスちゃん」
「少しだけ……ほんの少しだけ、任せてもいいかい?」
「ほんの少しと言わずに、ゆっくりとお休みくださいな。貴女の仕事の代わりはいても、貴女という命の代わりはどこにもいないのですから」
だからヘルメスは観念したのか、それとも諦観したのか。全てを任せるとぶん投げ、改めてミストの背中で安心して脱力する。
「とはいえ、貴女だけが成せる仕事まで、ですよ」
「……当たり前だろ。ここまでされて最後まで他人任せにぶん投げるなんて願い下げだよ」
ため息一つ、体のあちこちの鈍痛に気を回すヘルメス。唇がぱっくりと切れていて、口の中は噛んだり噛み締めた反動でズタズタ。肋骨が何本か折れ、ヒビの入った骨と打撲傷は全身至る所にあった。
それでも掌と足の甲には厳重に包帯が巻かれており、傷口には薬草を煎じた薬が塗ってある。匂いも嗅いだことのない未知の物で、自身が製薬したものとは別物だった。
「私にもヘルメスちゃんの薬は効能の判別ができませんからねぇ。シアラちゃんと一緒に治癒の薬草を摘んできたんですよ」
「効果てきめんってほどでは無いでしょうが、治りは早くなると思いますので! 一度眠りについてから、また貼り直しますね!」
「……ありがとう。ホント、ありがてぇや」
ありがとうの言葉を噛み締めるヘルメス。
「外傷の治療は時間がかかります。食事にしましょうね。内面から魔力を補給することも大事ですよ」
「はーいっヘルメスちゃん! あーんっ!」
んぐぁっ、と口を開いているヘルメスに、ヴァニラがぽいぽいとパンやら果物やらを放り込んでくる。そこまで良質とは言えないが、空っけつの胃にはなんでも嬉しいものだ。ぼりぼりと、はしたなくも音を立てて次々食らい、飲み込んでいく。
シアラから餌付けされるように差し出されたビスケットを咥えるヘルメス。今この時にも魔力は抜けていくのだ。補充できる時にしておかなければ、またすぐに倒れて使い物にならなくなる。
「そういや、リルはどうしたよ? つーかシアラちゃんと……まあヨハン達が居るのは分るんだが、ラフィーちゃんと騎士長サンはいつ合流したんよ?」
「かいつまんで話せば、私たちの教会が襲われたんです。黒ずくめの、鴉みたいな集団に」
「今や教会は完全に破壊されましたでしょうな。発破された挙句、火まで放たれていましたからな」
「……そっか」
口の水分を吸って詰まりそうになるも水で流し込みながら、二人が此処に至った理由を聞いていく。沈んだ表情のラフィーゼに、ズキリと心が痛む。身体の痛みよりも酷い。
「んで、リルは?」
「……彼女は、人狼の里へと向かいました」
「……はぁ?」
気を取り直してこの場にいない従者のことを聞いた途端、帰ってきた答えは意外も意外……というよりも想像だにしていなかった答えだった。
「それともう一つ報告が」
真剣そのもののヨハンの目には、嘘の色は無い。
「リュカティエル家の令嬢……リュノアと仰っていましたが、彼女が『屍喰いの鴉』の手の者に攫われたと……」
この場の全員が――未だミストの背中の端で背を丸めているニルドと、ヴァニラを除くが――その報告に目を見開く。
「この情報はリュカティエル家にコンタクトを取りに行った小隊長から盗聴しました。確かなものです」
「今、この場にいないレジーナは、リュノアを救いに行ったわけではないのか?」
「いえ、おそらくは三人で捜索しているはずです。小隊長も市長がいるから救助を優先するはずですから」
「そう、だろうな。あの市長サンだ、一も二も無く即依頼だろうよ」
「故に僕とリルさんはそれぞれ別行動を。ラフィーゼさんとリキエルさんも、おそらく狙われるだろうと思い救援に行きました。……崩壊寸前の教会で、二人を拾いながら、ルベドの森まで……力及ばず、信者の方々は殆ど……」
痛ましいくらいの無力感で、きっと一人残らず殺されてしまったであろう信者たちを悼むラフィーゼにリキエル。己のふがいなさに歯ぎしりして強く拳を握りしめるヨハン。
それを目の当たりにした途端、ヘルメスの双眸に暗い焔が灯る。
「……オーケイ、前言撤回だ。如何にステラの命令だろうと寝てるわけには――」
ガバっと体を起こしたヘルメスの後頭部を、魔術の効果も何もない手刀がそっと打ち据えた。
「そういうと思いましたので、強制的に眠ってもらいますよ」
反論どころか悲鳴の一つすら上げさせる間もなく、ヘルメスの意識は再び消える。
「あらー……痛そー」
「だ……大丈夫……ですかね? なにか後遺症とか残りそうな倒れ方しましたけど……」
「ええ。彼女も見た目と裏腹に丈夫ですから。そうでなければずっと前に魔力切れで死んでますよ」
目にも止まらぬどころか知覚することさえ困難な、あまりにも見事な一撃。
「錬金術師の従者の子よりも戦いたくない相手だな」と、見ていたリキエルさえも目を瞬かせ身を震わせたほどだった。
「彼女の代わりはいませんよ。この戦いを終結に導く鍵……足り得るのは彼女のみです。その時までに無駄に力を使うことも、万全の態勢で挑めないこともあってはなりません」
白目を剥いて仰向けに倒れたヘルメスの髪を愛おし気に撫でるステラ。改めてシアラとラフィーゼ、ヴァニラと向き合う。
「それまでは我らが、ヘルメス・トリスメギストスの腕となりましょう」
「おーっ! なろーっ!」
「はいっ! 頑張りますっ!」
「ふふっ。まさか、『聖天教』の聖女と騎士長が魔女に与することになるとは。神聖母様もお嘆きでしょうね」
ヘルメスの寝顔を――気絶しているのだが――眺めて、四人は拳を合わせた。そしてミストは咆え立てる。今もどこかで見ているやもしれない鴉共に、今度こそ我が主を護るという意気を込めて。
「……とんでもないことになったものだな。ヨハン殿」
「これからですよ。もっととんでもないことになるのは」
ミストの首筋にて御者のように座っていたリキエルの隣にヨハンは座る。
「最強にして唯一無二の錬金術師が紛れもなく本気になればどうなるか……少なくとも僕には計り知れませんので」
「であろうな。鴉たちがどう出るやら……」
さめざめとした面持ちで二人は空を見る。
反撃開始まで、あと六時間三十二分後――。
最後までお読みいただきありがとうございました。
三年越しでようやく正式に50話となりました。
これからもよろしくお願いします。




