#41 黒鴉暗躍
森を駆ける。
ただ森を駆ける。
ひたすら森を駆ける。
凄まじい速度でこちらに追い付いたリルへ、ヨハンはかける言葉を迷っていたが、それは杞憂に過ぎなかったらしく――。
「……このまま合流しますよ」
「ああ。レジーナさんたちの位置は?」
命懸けの極限状態において正常な判断を下すのは非常に難しい。どこへ行くか、何をするかという些細なことすら迷い、悩み、大半はそのまま最悪な結末へと辿り着く。もう大半は勇気と勘違いした蛮勇を振るい、動けなかった者たちと同じ末路を辿る。
その上で、リルは冷静に今やるべきことを理解して正しい答えを返している。
それも従者が主を捨て置いて生き延びるという重い決断――生半な覚悟では決めかね、それでもリルの心に掛かる重圧、重責、重荷。
ヨハンには計り知れず、推し量ることすらもできない。
「隊長たちはラブレスの市長宅へ向かっています。なんでも鴉の足取りを掴むにはそこがいいとか」
「なら一本道だ。案内は任せてもいいんだろ」
「ええ、お任せください」
それら一切を跳ね除けたリルならば心配は甚だ杞憂だと再三思う。
灰色の眼光には仄かな焔が宿す人狼の従者を突き動かすのはたった一つの目的だけだ。
「どんな手段を使っても、地べたを這い汚泥を舐めてでも、必ず……」
一人静かに呟いた決意の発露がヨハンの耳に届いてしまう。底知れぬ恐怖が内腑を満たしていく。主の救出を成し遂げるために、今度は従者が犠牲になってしまいそうな気がしてしまいそうで。
――そんなこと、させてたまるか。
互いに良い耳を持つのだ。言ってやりたいが、せめて想いとして呟かせてもらおう。
――こんなセリフ、聴かれちゃたまったもんじゃないからね。
所変わり、アークヴァイン王国北東部、商業都市ラブレス。
日増しに日差しが嫌になるほど暑くなる中でも、街の活気は負けず劣らずの熱さを持っていた。市井の商いはさることながら、輸送輸出といった行商の行き来も盛んだ。
「【ミューレス共和国】は問題ない、か。……あの女性が、「キョーコ女史」が共和党首となった時期からではあるが、やはり生来からの気質なのだろうな。近代化思想が強い国家なだけはある」
「ええ。ですが【クァルジ皇国】への輸出販路はどうにも拡大しようがありません。唯一の輸出品も宝飾品や獣皮、アークヴァイン原産のもの最低限ですね」
「生粋の魔術国家故か……それにしても、フッ。この国はどうにも中途半端なものよ。魔術へ一際頼りながらも些末に技術に手を出す。分不相応を過ぎてはいまいかね?」
机上の麻袋を手で弄りながら、ラブレス市長ガドルノス・リュカティエルは、深く刻んだ眉間のしわから力を抜く。手元の資料へ目を通しながら説明するのは、リュカティエル家に仕える侍女、リーリエ・ミリエールだ。無愛想な三白眼は主人の前でも変わらずだが、流麗な所作や言葉に主人への敬意は現れている。
自宅の自室兼執務室で日々職務に忙殺される彼の立場は、『聖天教』の一件以来より強固になった。元から盤石だったものがより強固になったというべきか。ごく少数派だった聖天教派の支持者の多数が離れても当然な事案だったのもあり、その流れからガドルノスを支持するようになっていった。
支持者や支援者、そして自分にとっても嬉しく喜ばしいことではある。
しかしながら『聖天教』の聖女、ラフィーゼ・エリュシオン――彼女との仲はリュノア自身から聞かされている。自分の愛娘と同じ歳の少女が、地味に彼を苛ます一因にもなっていた。
板挟みの状況に合いながらも、未だ余裕を絶やさず不敵に笑むガドルノスは、手遊びしてた袋から布の上に黒い砂のようなものを出した。卵が腐った異臭を放つそれに、リーリエも思わず鼻をつまむ。
「それが……例の輸入品ですか。異様な……臭気を放ってますね……」
「『火薬』、というものらしい。これに火を点けると爆発が生じるそうだ」
「爆発ですか。そのような物質、いったいどこで……」
「どうやら火山で産出する鉱石の一種らしい。似た性質を持つ鉱石を複数調合することによって、爆発の威力や燃焼の間隔を調整できる――「キョーコ女史」はそう語っていたな」
なるほど、とリーリエは納得する。不快感をもよおす異臭は所謂硫黄の臭いだ。
「しかし、随分と値の張る代物でしたね。小袋一つで金貨三枚とは」
「これはトリスメギストス殿へと渡すためだ。彼女ならばよい使い道を思いつくと思ってな」
「……またその人ですか」
主人の発言に、リーリエは無遠慮にあからさまに、不快な表情を浮かべた。
きっかけは愛娘リュノアの治療。『聖天教』の件にしても、悩みの種の大本を見事断ち切る働きをしてのけた。愛娘を求める彼女の対応はさておき、ガドルノスの信頼もひとしおだった。
そんなガドルノスに、リーリエは不信を抱く……はずもなく。むしろリーリエには誇らしく、そしてこの人の元で育ったリュノアがとても幸福なことだと思えた。
恥も外聞も捨てて命を救うため文字通り全てを投げ打つ覚悟を、誰しもが選ぶことが果たしてできるか。
けれど、魔術魔法の力を借りねば救う手立てが無かったあの時、無力感に打ちひしがれたのも同様だった。眉唾物の錬金術師の元へ命を懸けて行き、一生を対価に賭けるなければならない絶望感も同じくだ。リーリエには自分の、自分たちの無力さこそがなによりも腹立たしかった。
もやもやした気持ちをおくびにも出さず、そんなことを考えていた束の間。会話が途切れ静かになった執務室に、ざわざわと、階下で誰かが騒ぎ立てている声が入ってきた。
「む? 騒々しいな」
「……ええ。少し様子を見に行ってまいります」
扉に手をかけ確認に向かう直前、素早くノックされた扉が開いた。
「旦那様、失礼します!」
「落ち着きなさい、なにがあったの?」
「い、いえ。その……魔女の方々がお目見えになられたので、こちらへ確認へと向かおうとしたのですが……」
「……魔女?」
「箒で飛んで上がっていったので……」
そこまで口にした侍女がふと不安げな表情から目を丸くする。視線の先を追う前に、ガドルノスの背後――あるのは窓ガラスだ――から、こんこんと、ノックするような音が響いた。
「むぉっ!?」
「……錬金術師も魔女も、玄関から入るということを知らないのかしら?」
振り返り、そして驚く。箒の上に立ち、空を舞うスケートボードのように乗りこなしているはレジーナ・フラメクス。ピースサインをしながら口は「知ってるわよ」とパクパク動いている。硝子越しでも声が聴こえたのであろう。
ため息一つ。ガドルノスの目前で侍女として不適格な態度を取るも、窓を開けると箒から飛び降りて中に入る。
「やっ。誘拐事件ぶりね、市長さん」
「……ふぅ、驚かせないでくだされ、フラメクス殿。ようこそいらっしゃいました」
椅子から立って恭しく頭を下げる。ヘルメス同様レジーナも彼の恩人で、犯人の身柄を確保してきたのは彼女だ。今は亡き、だが。
「ありがと。この場に居ないレズ金術師は相変わらず女の子のお尻を追っかけてるくらい元気よ」
「それは良かったですね。……して、要件は?」
ただでさえ鋭い目付きのリーリエがさらに白ける。
「呪殺騒動、聖天教の教祖様の乱痴気騒ぎ、並びに教会の崩壊。事件はまあまあ絶えないわねぇ。それに皇国や共和国とも最近仲がよさそうじゃない?」
「ええ。おかげさまで。つい先日も良いものを頂きましてな。して、今日はどのようなご用件で?」
「事件のその後を聞きに、ね」
僅かにガドルノスは眉をひそめた。
「なーんかこの辺りで殺しがあったって話、そこら中で聞こえるのよね。なんでも中央区の監獄棟で憲兵が出入りしてたって言ってたし……ねぇ。正直なところ、なんかあったんじゃないの?」
好戦的な銀の両目を薄っすら細める。
「ハハハ、その後も何も、全ては新聞に掲載されている通り――委細滞りなく終わりましたよ」
一拍の間を置いて苦笑交じりにガドルノスがそう言うと――。
「虚ですね~」
「新聞記事自体が全くの虚偽」
気付かない内に入り込んでいたのか、少女二人がレジーナの後ろからぴょこりと顔を出す。
赤い瞳と青い瞳、暖色と寒色の対極のカラーが驚愕したガドルノスとリーリエを覗いてた。この場でレジーナに最も近かったであろう二人でも、この少女たちの気配すら感じなかった。扉の前で状況を飲み込みきれてない侍女は当然だ。
この小さな少女たちは――ガドルノスは卑下に聞こえかねない言葉を唾と一緒に飲み下す。
「っ……っと……フラメクス殿。そのお二方……は?」
「あら、アタシの連れなら何とはなしに分かってんじゃないの?」
「……魔女、ですか」
人の身に宿る量の数十倍はあろう魔力が二人は知覚できた。それこそが卑下を飲んだ理由と魔女という結論の証明だった。リーリエがもはや忌々し気に呟くと、にんまりと微笑んだ赤い目の少女は口を開く。
「お姉さんのノクト・フォリッジと~?」
「……キャスト・フォリッジ」
対照的な少女たちは名前でも察せるが双子なのだろう。
お揃いの翡翠色のショートカット以外に区別をつけるなら、姉と名乗ったノクトはやや垂れ目で暖かな赤色の瞳をしていて、キャストがつり目の冷たい青色の瞳であることくらいだ。
白地のメイド服を動きやすい軽装に改良した魔女服も、一見すると子供にも見える体格も同じだ。
そして何よりも、特徴的な長く尖った耳――それこそが神霊種であることを象徴していた。
「嘘をついた人は無意識に体のコントロールができなくなるものですよ~」
「嘘をついてまるで動揺しない人は生粋の嘘つき、あるいは嘘をつきなれた悲しい人」
嘘――先ほどからそう口にしている彼女たちの目は笑っていない。
「心臓が怯えたように大きく高鳴ったし、呼吸音に不自然なブレが生じてるんですものね~。疑う余地しかないくらいだし~?」
「そもそも私が覗けない心の景色と、聴けない心の声は、皆無」
それでもなおにっこりと、不思議なくらいに変わらない笑顔のノクトのほんわかした声。そして感情の乏しいキャストの無機質な声がガドルノスを問い詰める。
「周りの音をちょこ~っと聴くだけのお姉さんの魔術が〈盗聴〉で~。キャストちゃんの心を読む魔術が〈聴診〉……って言うんですよ~」
「お姉ちゃん、勝手にばらさないで」
ノクトがキャストの体へ腕を絡めると、うざったそうに顔をしかめる。
音を聴く魔術、心を読む魔術。
ガドルノスが目を細める。前者はまだしも後者の魔術が致命的だった。とはいえ前者も大概致命的だったが……。
「魔女を舐めちゃ痛い目見るってね。ねぇ、アレ、あったんじゃないの?」
「……ええ、そうです」
苦々しく懐から取り出したのは、鴉の羽をあしらった黒曜石のブローチだった。ぼそぼそに羽はくずれ、黒曜石は古く輝きはくすんでいるが、造りはごくしっかりしている。年代物の名品、といった感じか。
受け取ったレジーナが説明を促すように一瞥すると、重い口を開く。
「フラメクス殿が仰ったよう、監獄棟にこれが置かれておりました。やはり完全な情報規制は不可能と思っておりましたが、まさかこれほどまでに市民への漏洩が早いとは……」
――そらぁそうよね。
とは言わないでおこうと、余計なことを言おうとする口を諫める。
「あんな大層大規模大仰な殺人事件があれば、置いてあってもおかしくないもの。『鴉』らしい手口ね」
「『鴉』……と。貴女は今、犯人が分かったような口ぶりをなさいましたね。何故貴女は分かったのですか? そもそも符号を置かれるような事件を公式に公表してはいません。いったいどこで?」
レジーナの核心を突く言葉に気付いたリーリエの指摘は鋭い。
ラブレス中央区の監獄での囚人変死事件――ブローチの意図を抜きにしてもガドルノスはこの事件を大規模に公にはしなかった。事件が起こったことは憲兵が出入りしている時点で少数は気付く。巧妙に隠そうとすれば別だが、今回は隠す暇も無い。
今回の事件はあくまで囚人が外部の者に殺された、そういう事件として処理された。……まあ、それも手酷い痛手を受ける事件であることに違いないのだが。
「ま、ちょっとした伝手でね。アタシたちの情報網も、侮らないでねって」
回答をレジーナは曖昧に濁した。
「し、失礼します!」
その時、息せき切って誰かが駆け込んでくる。風体からしてガドルノス家の侍女だった。
「……なんだ、騒々しいぞ! 客人が居るのだ、静粛にせんか!」
「構わないわ。むしろそんなことより重要なことがあるのでしょう?」
市長家の侍女の振舞いを鑑みれば、品を欠く行いの理由があるのだろう。レジーナは特に気にも留めていなかったが、次の発言に彼女も思わず目を見開く。
「りゅ、リュノアお嬢様が、誘拐されました!」
今度はガドルノスが目を見開き、ひどくひどく青ざめた。
最後までご拝読いただきありがとうございました。
本当にお久しぶりです。
本当に申し訳ございません。
今日より更新再開いたしますのでよろしくお願いいたします。




