#34 契約破棄
座位のまま恭しく一礼するヘルメスは、再び『神の見えざる右手』を空間に発現させる。淡い白光を纏い浮かぶ右腕は、全身から漏れ出るヘルメスの魔力をより強く放っている。
「とまあこんな感じってな」
「なるほどです! 人狼さんの力を強化して、錬金術師さんの存在も抹消してたんですね!」
「そーゆーことよ」
「人狼さんの『人化』……聞いていた話よりも汎用性も高いし万能だし、これはもしや私たちの魔術よりも凄いのでは……?」
「ん、いや。それほどでも」
シアラには危機感が無いとは思いながらも、自分が褒められて嬉しいことには変わりないようだ。
他人から褒められることも辺鄙な森であることもあってそうそうないのだ。普段褒めてはいるのだが、ヘルメスのではあまり嬉しくないらしい。
「うっし、そんじゃあ遅めのティータイムとしゃれこみまっかねぇ」
「お、珍しいな。主が率先して台所に立つなんて」
「俺の珈琲……じゃねぇや、黒茶を振舞いたくてなぁ」
「へえ、黒茶っていうお茶があるんですか!」
「そそ。茶葉ではない炒った豆を挽いて入れた、正に真っ黒な茶さ。だがしかしコクがあり、独特の酸味が好みし者の味覚をくすぐる……コイツのことを俺は魔法の飲み物だと思うね」
「うふふっ! 魔法使いみたいな人が魔法っていうなんて!」
「楽しみにしてなよ」
シアラを残し二人で台所の陰に入ると、ヘルメスはぎゅむっと、リルの耳を引っ張った。
「んあっ!?」
「ちょい耳貸しぃ」
「……痛いんだが」
物理的に耳を借りながらもヘルメスは口を寄せてひっそり喋る。敏感であまり得意でない耳を思いきり引っ張られ、リルはあからさまに機嫌を損ねていたが気には留めない。
「外から見られてるとか聴かれているとか、そんな気配を感じないか?」
「……いや、特には」
「そうかい。ならそれはそれでいい」
感度高めな耳に走る痺れを抑えながら質問に答える。
ミルにスプーン二杯の黒茶豆を入れ、ハンドルを回し始める。コリコリとした豆の摩砕音を聴いていると心が休まるようだ。
リルがちらとリビングを覗いてみると、シアラも台所から流れてくる音を楽しみ、豆茶への興味を高めている様子だ。
休まずハンドルを回して一分ほど。頃合いを見計らって粉をドリッパーに移す。
「期限は一週間と言ったが、そもそもどうやって俺らが依頼を遂行したか確認するんだ?」
「また急にどうした? 来るんだろ、一週間したらまたここに……」
「別に一週間の七日目ピッタリで攫ってくるとは言ってねーじゃん」
「あ、確かに」
「アイツは俺らの家を知っているから、言っちまえば待ってりゃいいってことでもあるがな」
不機嫌そうに「そんなのは御免だが」と言って挽いた豆にお湯を注ぐ。
「対するクソ鴉共の情報は現状皆無に等しい。御礼参りしたいとこだがそーもいかない」
「物騒な発想だが早々に掃討したい連中だからな」
「ラップみたいな解説どーも。……うん、いい感じだ」
ふわりと湯気に混じった香りを楽しみつつ、二人分の黒茶の抽出液をマグカップに注ぐ。
「ほいどーぞ」
「ありがと。って、シアラさんの分は?」
「それはまた今度。しばらく俺の珈琲……黒茶も飲めなくなるだろうし、まずは俺とお前とで味わおうな」
マグカップを軽く合わせてリルが一口。
「む……なんだか普段よりも苦いな」
「コクと酸味もいいもんだが、気を引き締めた方がいいと思ってな」
味と言葉に不思議そうに首を傾げたリルを撫で、ヘルメスも一口つける。
強めの苦みが口腔を支配しするが、厭に残るものではない。すっきりとした後味だ。
「気を引き締めるってのは、つまりどういうことだ?」
「……たぶんだが、既に俺らは網の中なんだ」
「端的に言ってくれ」
「監視されてるんだ」
その答えの意味と口に含んだ黒茶を飲み込む瞬間、リルの体が電撃に打たれたようにビクリと跳ねた。
「――っ! 急に気配が増えた! 隠す気も無い気配が五、十……いや、三十!」
リルの感知範囲に急激に何かが増えた。それも急激に。口の端からやや黒茶の滴液を伝っている。
「ハッ、監視どころか盗聴もバッチリってかい?」
いつ、どのようにして、誰が。そんなことは今では些事だ。
リルの探知範囲は主の評価ながら良くも悪くも人狼並でしかない。人間より優れていても、魔性の森で鍛えられていても、その手の技術に命を賭ける者と比べれば劣る。
闇に紛れ、影に棲み、陰を金にする人種――同じ日陰者でものほほんと暮らしているような者に負けては商売あがったりだろう。
「おいでなすったか。『屍喰いの鴉』が」
「ぐっ……!」
「よもやミストが気付かないとはな。こりゃ素直に称賛モノだ」
総じて野生の獣は感覚、勘、ともに人よりも優れている。番竜となって長いワケでないミストが、まだ野生の勘を忘れているとは思えない。その勘が成す感覚のセンサーに踏み入れてなお感知されないのだ。
この事実はヘルメスにとっても想定外だった。奴らの気配を絶つ技術は人間の範疇を超している。気配遮断どころか森との同化しているようだ。
狼狽している様子を見られているのか、全員の反応が落ち着いた瞬間に玄関のノッカーが鳴る。
「聴こえるかい、ヘルメス・トリスメギストス。依頼したクロウだ。久しぶりだな」
扉越しの男の声は『屍喰いの鴉』師団長――クロウ=サルバトーレ・ダリウスのものと相違ない。
「おう、三日ぶりか? クソを煮詰めて濃縮した上濾過したような声はなぁ」
「クハハッ、散々なまでに嫌われてしまったようで」
「そうだな。今すぐにミストを起こさないだけ有難いと思ってくれや」
「そこの馬鹿でかい小屋で寝ている竜か。肉片にする前にアンタに確認を取ってよかったよ」
「確認取る前に入って肉片になってくれりゃあ、俺としてはすげぇ楽だったんだがな」
ミストを見ても少しも焦りがないのは圧倒的優位であるからか。自分たちを囲って叩ける状況だからか。事実としてヘルメスもこの状況を打破するには幾らか危険を冒す必要があった。だが客を危険に晒すのも家主としては避けたい。
強襲スタイルだったクロウ達『屍喰いの鴉』は包囲の時点で動きを止めた。クロウ含む敵も扉をぶち破ってこない。それでも奴らにとって、この距離は既に射程範囲なのだろう。無駄に攻め入ることはしないこともうかがえる。
それでも選択を間違えればいつ家ごと攻め込まれるか。
「うっし……リル、シアラちゃん。そっちだ」
「了解した! シアラさん、こっちへ!」
「わ、分かりました!」
ヘルメスが指差した方にあるのは錬金工房の入口だが、リルには意図が伝わったようだ。状況を飲み込めていないどころかそもそも自分の存在が深く関係しているとは露知らず、リルに手を引かれ二人は家の奥へと消えていく。
「でだ、テメーは何しに来やがった? こちとらこれからティータイムなんだ。招かれざる客人に出す茶も菓子もねーぜ?」
「そんな邪慳に扱わなくてもいいだろう。こちらもティータイムに混じる権利はあるハズだ」
「野郎が混じる権利は無いんだよ。百合に挟まる男は万死に値するんだ。さっさと帰って寝てな」
「うん……? ふむ……まあいい、こちらとしても手ぶらで帰るわけにはいかないのでね」
クロウがやや会話の続きを言いよどむ。ヘルメスの言葉を認識した脳が、聞きなれない単語に識別不明と応答したのだろうがすぐに調子を戻す。会話を途切れさせずにペースを乱そうとする。話題は勿論、ヘルメスの客人だ。
「まずはアンタが連れている『神霊王女』を確認させてもらえまいか? でなきゃあ報酬の交渉云々ではないだろう」
「だから何処に居るってよ。ウチには俺の可愛い従者ちゃんしかいねーんでな」
「よくぞそれほど強大な魔力を持った神霊種を奪ってこれたものだな。双方の魔力に正直ブルっちまってるほどだ。アンタがどう感じているかは知らんが、俺らには化け物がそこにいることが良ーくわかっちまうんだよ」
「ならそのままチビッてどっか消えてろ」
「おいおい、そりゃあ無いだろう? 契約破棄は許されないぜ。俺たちの業界なら尚更だ」
「勝手に人を同族にすんな」
日陰者ではあるが闇稼業とは呼ばれるのは癪だった。これ以上の口撃の応酬もじれったい。かといって向こうが焦れて突撃してくるのも避けたい。
こちらも目的と行動は済んだ。
まず監視手段は魔力の感知によるものだと仮定した。人間と神霊の魔力の違いで大凡推察していると考えられる。そもそも家の住人が二人と一匹だと割れているのに、三人目の魔力があれば誰かしらが居るのは確定的だ。
盗聴もおそらくだが聴覚に特化した者が居るのだろう。人間でも訓練すれば遠くの音を自在に拾えることができるとされる。そう推測する方が腑に落ちる。盗聴器よりはあり得る話だ。
「よし、二人とも。動いたな?」
「ああ! どうせ考えていることは分かっているからさっさとしてくれ!」
「オーケーオーケー……準備は完了だ」
扉を離れ落とし戸へと向かう。余裕綽々に追い詰めている気分を味わっているであろうクロウを無視し、落とし戸へと手を付ける。
「聴こえている前提で話そう」
床に手を当て二人にウインクをする主に、最悪全員死ぬ末路がリルの脳裏を過った。
自分たちが立っている落とし戸はヘルメスの魔力が吸収されない限り開かない。その代わりヘルメスの魔力を吸収すればするほど扉や錬金工房を囲む壁が強固になる仕組みだ。
一度中に入ってしまえばクロウたちが侵入できる可能性は零だろう。
「ワリィけど契約破棄させてもらうわ――〈遍く虚構〉」
だが、魔力吸収が間に合わなければ?
従者の懸念を他所に、右手から放たれる黒雷が家へと染み込むと、家中の柱にヒビが走る。
壁一枚隔てた人の姿は見えないが、はてさてどう思っているのやら。
ざまあみさらせと心中で毒づき、瓦解する我が家に三人は飲み込まれていく。
最後までお読みいただきありがとうございました。
ああ、いつの間にやら二月が終わる……('Д')




