見ているもの
夜明け前。
同室のエクリチュールを起こさないようにそっとベッドから抜け出す。
髪をとかし、軽く顔を洗って薄暗い拠点を出ようとした。
「ウルフくんもう一度だ!!」
外からゼオの声が聞こえ、首を傾げる。
こんな時間に起きてるなんて珍しい。
そっと扉を開けると黄色い電気の翼が目に入る。
何度か見かけたその翼は大きさも形状もいつもと違った。
今の私の翼と同じくらいの大きさ。
荒々しく動くものの、一定の形状を保とうとしている雷の糸。
「ゼオ、この電気全部右から左に流すつもりで」
この辺りとか、と言いながらゼオの翼に触るかつてのエクリチュール。
彼の表情は私の翼を初めて出現させた時と同じだった。
声から感じられる自信。
期待に輝く瞳でまっすぐゼオの翼を見ている。
目を瞑っていない、背中に手を当てていない。
何度も何度も彼に指摘してきたこと。
それらをクリアしたのに、私が今のレンを望んだのに……っ。
ギュッと左手を胸の前で握る。
「リン」
投げ掛けられた声にハッとする。
「久しぶりねリク。
またエクリチュールの観察記録書いてたの?」
分厚い本を抱えたリクに言葉を投げ掛ける。
そっとおろした左手も、きっと上手く笑えていない今の私の情けない表情の意味も知られてる。
そっと手を捕まれ、本拠地の中に連れ戻される。
扉が閉じても僅かにゼオとレンのやり取りが聞こえてくる。
「見てみぬ振りしてくれてよかったのよ」
本を適当な場所に置き、じっと私を見るリクに強い口調で言った。
「気づいちまったから」
「そうよね、そういう奴よね、リクは。
私の事振った癖に」
「それは……」
口ごもるリクの胸に飛び込んだ。
リクは何も言わずにただ胸を貸してくれた。
あの時と同じ。
だんだんレンが私を見てくれなくなった。
私の翼にも興味が無さそうで、私を道具のように扱っていた。
レンはそんなつもりなかったのだろうけど、欠伸をしながら開放される翼を見ると、私の価値はその程度だと言われているようだった。
それでも捨てられたくなくて、小さな価値にすがり付いていた。
不要品にされるくらいなら、チリゴミ程度でも価値がほしかった。
いつか、もう一度、綺麗な翼だって言ってほしくて。
レンが憧れているエクリチュールに聞いたことがある。
『どうすればプレゼンターの力を高める事ができるの?』
私の知る限り一番大きく、美しい炎の翼を持つプレゼンターは苦笑した。
『プレゼンターの力ってのは、自己表現が苦手な俺たちに神様が授けてくれた物っす。
自分がやりたいこと、伝えたい事に向き合えば自然と力のキャパは上がるけど、力を発揮するにはやっぱクリエーターの協力が必要っすからねー……。』
『参考になるかわからないけど、俺はクリエーターとしてエクリチュールと向き合うことと、炎の研究はしてるよ。
炎にはどんな種類があるかとか、どう扱えるかとか。』
目に見えて落胆していた私にクリエーターが優しく教えてくれた。
私自身、水の事を知れば価値を高められる。
そうすればきっとレンがもう一度私を見てくれる。
心が折れそうになる度に言い聞かせていた。
大丈夫、レンはきっと振り返ってくれる。
水の事、水の中の生き物の事、寝るまも惜しんで勉強した。
義務教育が終了すると、勉強なんてできない気がしたから。
たまにすれ違う卒業生たちは今日を生きるために必死に働いていたから。
レンに色んな話をした。
雨の事、川の事、海の事。
でも、レンは興味を示さなかった。
私の言葉を右から左に聞き流して、ずっとラズベリー色の髪を持つ女の子を見ていた。
レンに興味を持ってもらうためには、彼女を利用するしかない。
彼女の気を引くのは簡単だった。
いつもの居場所を離れて一人になればいいだけ。
二十数人が授業を受けられるクラスで私はレンから離れた席に座った。
レンは仲の良い男の子たちと固まって座っていた。
エメラルドの瞳をした男の子が私を見た。
彼が何かレンに言おうとしたから、口パクで大丈夫、と伝えた。
すると彼は黙って教科書に視線を落とした。
レンは一度も私を見なかった。
『隣いいですか?』
ラズベリー色の髪の女の子がおずおずと声をかけてきた。
『いいわよ』
『やった‼あ、私カレン。よろしくね』
たまに見る太陽みたいなキラキラした笑顔をする子、というのがカレンに対する第一印象だった。
『私はリン。よろしく』
『えへへ、実は私リンちゃんの事知ってたの。
あのレンくんのエクリチュールでしょ?
私フリーだから、エクリチュール実戦の時いつも見学なの』
カレンの言葉に悪意は感じなかった。
だから、気づかされた。
私の翼は、私の価値は、いつの間にかレンの価値にすり変わっていた。
意図も簡単にプレゼンターの翼を出現させ、プレゼンターに自由自在に力を使わせてやっているレンの価値は高い。
誰も、私の価値なんて見いだしていなかった。
『そうね、レンはすごいわ』
嘘をついた。
純粋にレンに憧れるカレンに、私のエクリチュールに、そして私自身に。
それから私はレンに固執するのを止めた。
熱心にしていた水に関する勉強も止めた。
私の価値はもうないのだから。
お人形のようにレンが命ずるままに力を使っていた。
私の気持ちが変わっても翼の大きさは変わらなかった。
プレゼンターが力を開放されることを望まなくとも、レンは私の力を普段と変わらないクオリティで開放できた。
レンは本当にクリエーターとして優秀だった。
並みのクリエーターでは、プレゼンターが力の開放を望まない限り、翼を出現させられない。
あっという間に1カ月が経った。
面倒な実戦の授業を終え、今日の授業は終了。
エデンの影にすっぽり覆われた校舎には冷たい風が吹いていた。
季節は冬。
エデンでは雪という白い綿が降ってきたりするらしい。
地上暮らしの私たちにとっては特段寒く、寝るときすら服を何枚も重ねないといけない時季、という印象しかないのだけれど。
レンはカレンと楽しそうに話しながら先に寮に帰ってしまった。
二人の後を追うのは気が引けて、私はそっと校舎の中に入った。
1階の窓から実戦を行っていたグラウンドを見る。
ところどころにいびつな形をした水溜まりがある。
バシャバシャとその水溜まりを数人の同級生が踏んで寮へと帰っていく。
誰も振り返らない。
窓枠に添えていた手にポタリと水が落ちる。
一粒、二粒、ポタリ、ポタリと落ちていく。
踏みつけられた水溜まりは土と混じって濁っていく。
手に落ちる水すら濁っていってしまうのかもしれない。
『リン』
静かな廊下に声が響いた。
あぁ、どうして貴方なの。
『リクっ、助けて……っ』
エメラルドの瞳の男の子に顔を向けた。
声が情けないくらい震えていた。
もう誰にもすがり付かないって決めたのに。
いつか、きっと、不要になるって嫌ってほど思い知らされたのに。
フリーのクリエーターには、絶対に頼るべきではないとわかっているのにっ、
目の前が真っ暗になった。
温もりを感じ、背中を優しく撫でられた。
『もう一度、もう一度だけでいいからっ、レンに見てほしかったの……っ、
でも、…どうやってもレンは振り返ってくれなかったっ』
誰にも言えなかった言葉をリクに投げ掛けた。
『私は、私には価値がないの…っ!?』
ギュット彼の服を掴み、問いかける。
リクは背中を撫でるのを止め、私の名前を呼んだ。
『リンはリンだよ』
顔を上げるとリクがじっと私を見ていた。
じっとエメラルドの瞳を見ていると気恥ずかしくなって、咄嗟に視線を反らした。
『静かな水面のような翼の時のリンは落ち着いてて、流れの早い水流の翼の時のリンはちょっと調子が良い。
今日みたいな水の流れが乱雑な翼の時は、自分を追い詰めている時。
クリエーターが毎日同じ翼を出現させるなんて無理だよ。
翼はプレゼンターの気持ちその物だから。
自分の気持ちに価値は必要?』
『それは……、』
『もし、リンが翼を失っても、俺はリンが本当は不器用でそれを一生懸命隠そうとしてこっそり努力してる価値のある人だって知ってるよ』
かぁぁっ、と顔に熱が集まっていく。
肌寒い冬の風が恋しくなってくる。
待って、私、今どんな格好してるの?
第三者から見たら私たちの体制って……っ!!
リクの胸を両手で押し、彼の腕の中から逃げた。
真っ赤になっている私とは裏腹にリクは涼しい顔をしていた。
『そ、そういう事っ!!誰にでも言って良い言葉じゃないってわかってるっ!?』
『わかってるよ。今の言葉はリンへの印象だから。
これ以上ほっとくとエクリチュールの関係悪くなりそうだし、レンにもそれとなく言うから』
帰ろう。と私に背を向けて歩き出したリクの手を掴んだ。
リクの冷たい手が火照ってる私の手には気持ちよく感じた。
『私が、レンとエクリチュールを解消して、リクとエクリチュールになりたいって言ったらどうする?』
心臓がバクバクと鳴っている。
リクなら私を見ていてくれる。
私に心地いい居場所を与えてくれる。
風が吹き抜ける音だけが聞こえる。
恐る恐るリクの顔を見ると、眉をへの字に曲げて、情けなさそうに笑った。
『俺はエクリチュールになにもしてやれないよ』
『じゃあっ、エクリチュールじゃなくてもいいっ!!
私と付き合ってっ!!』
『ごめん、それもできないんだ』
帰ろう。とリクは手を掴んで歩き出した。
きっとリクには知られていたのだろう。
私が本当にエクリチュールでいたい相手も、私が本当に好きな相手も。
レンが私の翼を出現させる事ができなくなり、私とレンはエクリチュールを解消した。
解消するために私がレンの血を飲んだ後、レンは見たこともない顔をしていた。
わなわなと震えて、ギュット唇を噛み締めていた。
『ごめんっ!!』
あのレンが深々と頭を下げた。
私が溺れた日すら頭を下げなかったレンが。
ポタポタと地面が濡れていった。
『自分勝手な、クリエーターでごめんっ、
全然っ、気づいてやれなくて、ごめん……っ!!』
何故急にレンが謝るのかわからなかった。
私から解消してほしいと頼んだのに。
私と一緒に居ると、価値あるクリエーターだったレンの価値もなくなってしまうから。
私以外の誰かと組んで、私があげた価値あるクリエーターでいてほしかっただけなのに。
レンの価値が、私の価値だと思いたかっただけなのに。
貴方がくれた翼を捨てきれていないのは私。
「ねぇリク、私の価値はなに?」
同じ質問を投げ掛けると、少しだけリクの体が揺れた。
そっとリクから離れ、彼の顔を見ると、リクは肩を小さくすくめた。
「その質問投げ掛ける相手が間違ってるよ。
リンがほしいのは俺の言葉じゃないだろ」