第84話 揺れる心
重い空気が漂う。座り直したソファが少し軋む音以外で、この場で発せられる音といえば時計の秒針くらいだ。先ほど淹れてもらった紅茶はすっかり冷めてしまった。長々と話し過ぎてしまったかな。
「──とまぁ、こんなところだ」
俺は話の終わりを告げる。すると、皆俯いていた顔を上げた。エリザベートとグランヴィル以外は悲しそうな、気まずそうな顔をしている。おそらく何と声をかければいいのか分からず戸惑っているのだろう。
「なるほど、オルトくんなかなか波乱万丈な子供時代を過ごしてきたのねぇ」
皆と違い、臆することなく声を発したのはエリザベートだった。
「我ながら、ここまで起伏の激しい少年期を送るやつはそうそういないと思うね」
笑顔で、重くなってしまった場の雰囲気を紛らわしてみる。すると、セファンが口を開いた。
「……オルト」
「ん? 何だい?」
「何つーか……俺も結構酷い目に遭ったって思ってたけど、オルトの方が断然酷い目に遭ってきたんだな」
「うーん、そこは比べるところじゃないと思うけどな。セファンだって辛い思いを……」
「いやいや! えーっと何かごめんな。その……今まで嘘つかれてたのは正直すげえ気に食わねーけど、理由があったんだもんな。だから話聞けてよかったぜ、ありがと」
「セファン……黙っててごめんな。それに琴音も、黙っててごめん」
「……はい。オルトは私達を危険に晒さないために嘘をついていたのですよね? でしたら……仕方ないです。きっと私もそうするでしょうから」
「ありがとう、琴音」
「……おい」
「ん?」
珍しく、グランヴィルが話しかけてきた。いつも無表情の彼だが、明らかに険しい顔をしている。
「今の話に、嘘はないな?」
「あぁ、全て俺が見てきた事実だ」
すると、グランヴィルは顎に手を当て何かを考え出した。グランヴィルが嫌悪感を抱いていた、アリオストの神子について何か思うところがあるのだろうか。
「どうしたんだ?」
「いや……何でもない」
「あれあれー、グランそんな風には見えないけどー?」
「おい! お前は……」
「ぐすっ」
何か言いたげで結局何も言わないグランヴィルとそれに突っ込むエリザベートの会話の中に、唐突に泣き声が入ってきた。皆が泣き声の発生源を見る。
「八雲?」
「ううっ……ぐすっ」
八雲が俯き泣いている。
「ど、どうして八雲が泣いてるんだよ?」
「うぅ、だってぇ……」
「おいオルト! 八雲泣かせてんじゃねえ!」
「オルト……女の子を泣かせちゃいけませんよ」
「え!? 俺のせい!?」
「あーあ、オルトくん八雲姫を泣かせちゃったー」
「ちょっと待っ……や、八雲ごめんな!?」
何故か八雲以外の全員に冷たい目を送られる。葉月とサンダーの視線すら痛い。一体なんで八雲が泣いてて、どうしてそれが俺のせいなんだ?
「じゃ、後は任せたよーオルトくん? 邪魔者は退散しましょ!」
「え、エリちゃん!? ちょ、」
「全く……しっかりしろよオルト!? いやしっかりしない方が俺的には嬉しいけど!」
「は!? どういう意味だ!?」
「オルト……いえ何でもありません」
「意味深だな!?」
「……さっきの事だが、後で話す」
「お、おう」
「それでは、ごゆっくり」
「リッキーまで……」
「キュ!」
「ワン!」
俺と八雲を残して、全員が立ちそれぞれ部屋へと向かう。葉月はサンダーとともにセファンについていった。エリックの家は一人暮らしの割にはかなり大きい。郊外だから広い家を安上がりに持てるのか、それとも金持ちだからなのか。ともあれ、リビングにいるのは俺と泣いている八雲だけの二人になった。
「八雲……その、どうして泣いているんだ?」
「うぅっ……オルトの馬鹿」
「え……」
「オルトの……代わりに泣いてるんだもん」
「え、え?」
「オルト、うぐっ。今まで凄く酷い目に遭ったんだね……辛かったでしょ?」
「あぁ、まあね。確かに凄く辛かったよ。でも今はもうちゃんと心の整理とかついて……」
「オルト、無理してる」
「……え?」
八雲が顔を上げてこちらを見た。大粒の涙が綺麗な瞳に溜まっている。
「リアトリスさんが死んでから誰にも過去の話してないんでしょ? ずっと名前も過去も偽り続けてきたんでしょ?」
「……そうだね」
「オルト……大変だったね。ずっと一人で戦ってきたんだよね」
「……」
「本当はずっと、話したかったんじゃないの? 誰かに助けて欲しかったんじゃないの? でも、誰も巻き込みたくなくて自分で抱えてたんだよね? それで、今こうして皆にようやく話せて……嬉しい気持ちと、苦しかったの思い出して悲しい気持ちとゴチャゴチャになってるって感じ。そんな顔してるよ」
「八雲、俺は……」
「私はリアトリスさんほど付き合い長くないけど……でも、オルトのことずっと見てたから分かるわ」
「俺は……そんな……」
八雲は立ち上がり、そして俺の隣に座った。彼女の目はまだ涙ぐんでいるが、もう泣いてはいない。それに対して俺の声は震えている。八雲は優しい声で語りかけてきた。
「だからもう、泣いてもいいよ」
「……!」
「もう、一人で戦わなくてもいいよ」
「……う」
「よく頑張ったね」
「う……ううっ!」
俺は、蹲ってしまった。八雲が優しく背中を撫でる。
八雲の言う通りだ。リアトリスと死別してからずっと、俺は一人で戦ってきた。誰にも正体を明かさず、偽りのオルト・アルクインという人間を演じてきた。キャラバンのメンバーとも一定の距離を置いて接していた。最初はとても辛かった。それでも、俺はリアトリスの最後の言葉を胸にちゃんと生き残ると決めて、過去の悲しみから立ち直った。
そう、そのはずだったのに、こうして皆に過去を暴露するうちに、振り切ったはずの悲しみと苦しみが蘇ってきてしまった。完全にもう克服したと思っていたのに。自分を偽る苦しみからの開放感と、過去を知ってもらえたことからの高揚感と、家族や想い人を失った辛く悲しい思いがドロドロに混ざり合ってもう訳が分からない。
「オルト、もう大丈夫。私達がいるから」
「……! ありがとう」
「だから、無理しないで。全部吐き出しちゃえばいいから」
「ありがとう……!」
「大丈夫。オルトが私達を守ってくれるのと同じ様に、私達もオルトを守るから」
「……!」
それから少しの間、俺が落ち着くまで八雲は背中を撫でてくれていた。
「……ありがとう、八雲。もう落ち着いた」
「うん、なら良かったわ」
俺は起き上がり、そして八雲を見る。八雲は笑顔で見返してきた。
「何か……ごめんな」
「何が?」
「いや何か……今までちゃんと話さなかったこともだけど、まさかここまで取り乱すとは思わなかった。情けないな」
「オルト、リアトリスさんの話が始まる辺りからだんだん様子がおかしくなってたわよ? かなり切なそうっていうか辛そうっていうか。たぶん、家族を失った時の傷はリアトリスさんが癒してくれたけど、リアトリスさんを失った傷はそのままだったのね。だから傷が疼きだして悲しくなっちゃったのよ」
「そっか……あー、完全に時間と共に心の整理ついたと思ってたんだけどなぁ」
「傷が凄く深かったんじゃない? で、それ見てたら私までとっても悲しくなっちゃったわ。オルトがそれでも我慢してヘラヘラするからさらに辛くなって泣いちゃったの」
「……本当にそれで泣いてたの?」
「……まぁ、他に理由もあるけど。というか、そっちの理由が結構大きいかもしれないわね」
「他の理由って?」
「言わないわ」
「えぇ? 教えてよ」
「絶対言わないもん」
「えぇ、ここまで言って内緒なのかよ……」
頑なに理由を言わない八雲。そして何故か恥ずかしげに目をそらす。他の理由とやらが凄く気になるのだが、教えてくれそうにない。
「……ねぇ、オルト」
「うん?」
今度は八雲が少し赤くなりながらこちらを見上げた。
「オルトは……その……」
「何?」
「その……えっと……リアトリスさんが好きだったのよね?」
「……そうだね」
「……そう、じゃあ……」
八雲が深呼吸する。一体何が言いたいのだろうか。
「……今でも、好きなの?」
「え……?」
「今でも、オルトはリアトリスさんが好き?」
「俺は……」
その時、胸の中がざわめいた。頭の中がフリーズした。自分が今まで即答できたはずの答えが、何故か出てこなかった。
俺はリアトリスのことが好きで、愛していて、それは彼女を失ってからも変わらなかったはずなのに。それなのに、今俺はそうだと答えることを躊躇している。
「……オルト?」
何も言わずに固まってしまった俺を八雲が訝しげに見てきた。
「……八雲何言ってんだ?」
「──オルトの馬鹿っ」
適当に誤魔化してしまった。八雲が怒って立ち上がり、リビングを出て行こうとする。
「あ、ご、ごめん八雲」
「……まぁ、いいわよ。私こそ変なこと言ってごめんなさい。じゃ、私は外をお散歩でもしてこようかしら」
八雲は少し不服そうではあったが、しかしすぐに笑顔に切り替わった。
「気をつけてね。あと、ありがとう」
「うん。オルトも、話してくれてありがとう」
そう言い残し、八雲は部屋を出て行った。
「……何で、俺何も言えなかったんだ?」
リアトリスは俺にとって想い人であり、恩人であり、仕える主人だ。八歳の時に彼女に助けられてからはずっと彼女のことを想って生きていたはずなのに……俺は何を迷ったのだろう。八雲の顔を見ると、何も言えなくなってしまった。
俺は自分の心が分からないまま、しばらくソファの上で固まっていた。
◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎
病み上がりの体をなんとか動かし、エリックの家近くにある池へと歩く。エリザベート曰く、彼をこの辺りで見かけたらしい。八雲と別れて少し呆けた後、俺はこうして彼を探しに来た。少し歩くとすぐに小さな池が見えてくる。そのほとりに人影があった。
「グラン」
「……何だ」
呼びかけられ、ほとりに立っていたグランヴィルが振り向いた。無表情だ。
「何だって……さっきの話の続き、聞きにきた」
「ふん、その体でわざわざここまで来なくていいものを」
「でも……皆にはあんまり聞かれたくないんじゃないのか?」
「……」
「グラン、リアトリスのことで何か言いたいんだろ?」
「……正確には、その神子に仕えていた騎士について、だ」
「え……?」
穏やかに風が吹いた。草花がそよめく。グランヴィルは真剣な目つきでこちらを見る。
「アリーチェ・ノヴェロ。……アリーは、俺の恋人だった」
「!!」
「アリーが死んだ時、俺は国外遠征に向かっていた。王城でクーデターが起きたのを知ったのは、帰ってきてからだった。もう三十日以上経っていた。全てが終わって片付けられてしまった後で、当然アリーも既に埋葬されていた。帰ってきてから聞かされたのは神子が大罪を犯したこと、その神子を擁する国王も同罪であったこと、二人ともクーデターの中で殺されたこと。そして、国の転覆を図った愚かな神子に騙され、献身的に仕えた騎士達はその真実に気づかず命を落としたことだった」
「そんな……」
「俺は最初信じられなかった。アリーが憧れ、信頼していた神子がそんなことをするなどと。だから必死に情報を集めようとしたんだが……結果何も分からなかった。騎士団の中でも市井でも同様の話しか流れていなかった。そして騎士団内で色々と嗅ぎ回ろうとする俺は疎んじられてヴォルグランツを追い出された。俺は絶望し騎士を辞め、そして……アリーを巻き込み貶めたらしい神子を恨んだ。アリオストの神子を恨み続けて今日まで生きてきた」
「……」
「……だが、お前の話を聞いて分からなくなった。俺がどれだけ探し求めても辿り着けなかった真相を、お前が提示した。お前の話がどこまで本当なのかは分からないがな」
「嘘は言ってないよ」
「もしそれが本当の話なら、俺は今まで何をしていたんだろうな。罪の無い神子を恨んで、騎士でありながら『異変』とやらに巻き込まれている国を見捨てて放浪して」
「グラン……」
「……アリオストの神子を侮辱してすまなかった」
「……あぁ。俺もすまない。俺が至らなかったばっかりに、リアもアリーチェも救えなかった」
「それは何もできなかった俺も同じだ」
「グラン、一緒に戦わないか? アリオストを襲った異変を止めるために」
「……考えておこう。取り敢えず、今は一人にさせてくれ」
「分かった。じゃあ……俺は戻ってるよ」
グランヴィルは池の方を向き、遠い目をした。彼も心の整理をしている途中なのだろう。俺は振り返り、エリックの家へと歩みだす。
「……アリー」
遠ざかるグランヴィルの背中から、そう寂しく呟く声が聞こえた。




