第72話 決死の逃走
俺はひたすら我武者羅に走った。燃えるトピアリーやローズアーチを避けながら庭を抜け、門を目指す。仮面の男が追いかけてきているのかは分からない。振り向く余裕が無かった。門を目指す間、何人もの衛兵達が殺され横たわっているのを発見する。知っている顔ばかりだ。さらに涙が溢れ出てくる。これを全てあの仮面の男がやったのか。それとも共犯者が他にいるのか。どちらにしろ、とてもとても悲しい。心が抉られる。しかし今の俺には逃げることしかできない。
門に辿り着くと、門は開いており門番も殺されていた。俺はこの門番達の目を掻い潜ってよく屋敷を抜け出していた。その時の光景が思い出され嗚咽がこみ上げる。しかし俺は足を止めず、門をくぐって屋敷裏の丘へと走った。
炎に包まれる屋敷を離れ、しばらく走り続ける。そして芝生が広がる丘へと辿り着いた。
「はぁ、はぁ……おえぇ」
地面に手をつき吐く。いくら追い風を付けていたとはいえ、かなりの距離を全速力で走った。その反動と、大好きな家族や屋敷の人達が殺された精神的ショックで吐き気が止まらない。目からは涙が、鼻からは鼻水が、口からは胃の内容物が芝生の上にだらだらと垂れた。
「ううっ、うっ」
泣きながら腕で口を拭う。屋敷の方を見ると、さらに炎は激しくなり建物がどんどん崩れてきていた。仮面の男は追ってきていない様だ。
「父さん……母さん……」
一瞬にして全てを失ってしまった。俺は……これからどうすればいいんだ。たった一人で生き残ってしまった。父さんも母さんも兄さんもマリィももういない。
「うぅ……嫌だよぉ。何なんだよぅ」
再び吐き気がこみ上げてきた。俺は吐こうとするが、しかしもう胃の中には何も残っていない。
「返してよ……皆を……」
暗い暗い絶望が俺を襲う。大切な人達が目の前で死んでいった。何とも言えない気持ち悪い感覚が全身を駆け巡る。俺は芝生にうずくまった。
「ーーユウ様!?」
すると、聞き覚えのある女の人の声が聞こえた。俺の名前を呼んでいる。
「……?」
顔をゆっくりと上げ、声が聞こえた方向を見た。すると、ジゼルが駆け寄ってくるのが見えた。
「ジゼル……?」
「ユウ様!! ご無事ですか!?」
生きている。自分の親しい人間が動いている。それだけで、ほんの小さなものではあるが、心の中に何か温かい光が灯った気がした。走ってきたジゼルは俺を抱きしめる。ジゼルの服は焼け焦げ、顔や腕には煤や火傷跡がついていた。
「ユウ様……生きていて本当に良かった……!」
「ジゼル、どうして……」
なぜこんなところに、と言おうとしたところでジゼルが今日は屋敷に泊まっていたことを思い出した。ジゼルも火事に気づいてここまで逃げてきたのか。ジゼルは仮面の男に狙われなかったのだろうか。
「ジゼルは……大丈夫なの?」
ジゼルが抱きしめていた腕を離す。彼女もだいぶボロボロの様に見えた。
「はい、私は大丈夫です。ユウ様はお一人ですか? ライファルト王やイリスティナは……」
「……う」
両親の名前を聞いた途端、また大粒の涙が出てきた。只々涙が流れるばかりで、俺は言葉を発することができない。
「……そん、な……」
俺の様子を見て察するジゼル。愕然とし、へたり込んだ。そして涙を流す。
「どうして……こんなことに……」
顔を手で覆い、涙声でジゼルは喋る。
「……ジゼルも、何が起こったのか分かんないの?」
「……はい。私はお屋敷に泊まらせて頂いてまして、夜中目が覚めたら火が上がっていて……何とかユウ様達がお休みになっている棟の方に行こうとしたのですが、火の威力が強くてどうしても行けませんでした。それどころかどんどん火が私の方にも広がってきてしまって。ライファルト王達も逃げていることを信じながら命辛々ここまで走ってきてしまいました」
「……変な仮面の人は見てない?」
「仮面の人……? 何でしょうか?」
ジゼルはあいつに会ってはいないのか。あいつは一体何者なんだろう。
「「ーー!?」」
その時、禍々しい気配を感じた。俺とジゼルは屋敷の方向に目をやる。すると、屋敷の方からこちらに向かって誰かが歩いて来ていた。
「あいつだ!! 逃げろ!!」
先ほどの仮面の男だ。ここまで俺を追って来たのか。ジゼルも状況を察してすぐさま立ち上がり、俺と一緒に走り出す。男は余裕の様子で歩いてくる。
「ユウ様、あれは一体!?」
「あいつが、父さんを殺したんだ!!」
「なっ!?」
ジゼルが驚いて目を見開く。
「あのライファルト王が殺された……!? そんなバカな」
走りながら少し俯き考えるジゼル。
「ユウ様、屋敷を燃やしたのもあいつなのですか?」
「それは分かんない。俺も起きたら火事になってて。母さんもマリィも誰かに殺されてた。俺だけ何とか父さんに逃がしてもらったんだ」
「……」
俺達は身を隠すため、丘に面した森の方へと入っていく。今宵は雲が多く、月の光があまり差していないためとても暗い。氣術で辺りを照らすと居場所がバレてしまうため、暗さに慣れてきた夜目を頼りに森の中を駆け抜ける。
森の中を進む途中、隠れられそうな大樹の窪みを見つけ俺達はそこに入った。
「……まだ追ってきてるかな」
「だと思います。丘まで追ってくるくらいなので」
人二人が何とか入るくらいの大きさの窪みの中で身を寄せ会う俺達。すると、木が大きな音を立てながら倒れる音が聞こえた。一本や二本じゃない。何本もの木がおそらく倒れている。
「何だ?」
「おぉーーい! 隠れても無駄やぞ!!」
「「!!」」
仮面の男の叫び声が聞こえ、俺達は肩をビクつかせた。そして、また木が薙ぎ倒される音が聞こえる。氣術か何かで木を手当たり次第倒しているのだろう。
「ジゼル、どうしよう……」
「あのライファルト王ですら叶わない相手なら、私達には勝ち目はありません。このまま隠れて見つからないことを祈るか、逃げるしかありませんね」
俺達は息を殺しながら隠れて待つ。木を倒す音がどんどんこちらへ近づいてくる。もしこの大樹も倒されてしまえば、俺達は見つかってしまうだろう。
「ジゼル、逃げた方が……」
「ユウ様」
この窪みから出て逃走することを提案しようとした時、ジゼルが俺の手を握り、そして俺をしっかりと見つめた。
「ジゼル?」
「ユウ様、よく聞いてください。これはエルトゥール一族に受け継がれる宝剣です。昨日の夜、ライファルト王からお預かりしました」
そう言って、ジゼルは鞘ごと布にくるまれた剣を差し出した。
「え……?」
「ライファルト王はもしかしたらこうなることを予期していたのかもしれません。もしものことがあったら、これを息子に託して欲しいと言われました。この宝剣はエルトゥールの血を色濃く受け継いだ者が使えば、途轍もない力を発揮します」
「途轍もない力?」
「宝剣を扱うのに相応しい人物が使用すれば分かるはずです」
「でもジゼル、何で今……」
「ユウ様は逃げてください」
「え?」
「この宝剣を持って、逃げて生き抜いてください」
「ちょっと待って、ジゼルは!?」
「私は、追っ手を足止めしてからユウ様を追いかけます」
「な、何言ってんのジゼル! それじゃあジゼルが……」
「私は大丈夫です。私の金縛りではほんの数秒も持たないかもしれませんが、それでもちゃんと逃げ切りますので」
「でも……」
かなり近くで倒木音が聞こえた。もう仮面の男がすぐそばまで迫っている。
「ユウ様、必ず生き残ってください。それにエルトゥールの血を絶やしてはいけません。この宝剣も絶対に手放してはいけませんよ。あと、彼はあなたを追い続けるはずです。ですから、捕まらないようこれからは偽名を使ってください」
ジゼルは俺に無理やり宝剣を渡す。
「嫌だジゼル! 一緒に……」
「ユウ様、行ってください!」
「わっ!?」
ジゼルは宝剣を抱えた俺を突き飛ばした。そして、風の氣術で優しく吹き飛ばす。
「ユウ様、御武運を」
ジゼルが笑うのが見えた。俺の体は風に乗って木々の隙間を縫いながら低空飛行で飛ばされる。そしてジゼルの姿が見えなくなる位置まで移動し背中から地面に落ちた。
「……そんな、ジゼルまで!」
また俺一人だけ逃げてしまった。また大切な人が身を投げ打って俺を助けた。
「どうして、こうなるんだよ!!」
一緒に逃げて欲しかった。せっかく生き残った親しい人と再会できたのに、また手放してしまった。
「ーー生きろ」
「生き残ってください」
父さんとジゼルの言葉が反芻される。
「くっそおぉ!!」
俺は走り出した。仮面の男から逃げるために。生き抜くために。一目散に森の中を駆ける。どこに向かっているのか分からない。辺りは暗いし、どの方向に走っているのかも分からない。ただ、仮面の男からできるだけ離れることだけを考えて走り続けた。
すると、ジゼルが残った方向から木が倒れる音がした。
「ジゼル……!!」
ジゼルは無事だろうか……。ここまで来た以上、俺は奇跡的に彼女が逃げられていることを祈るしかなかった。俺は唇を噛み、何度も木の根や段差に躓きながら走る。
「はぁ、はぁ」
しばらく走り、俺はスピードを緩めて後ろを向いた。仮面の男の姿は無い。逃げ切れたのだろうか。雨が降り出してきた。俺は足を止め、近くの木にもたれかかる。
「あいつ……絶対に許さない」
大切な者たちを奪われた悲しみが、憎悪に変わる。絶対に、いつか必ず奴を殺してやる! そう思った。するとその時、
「!?」
突然夜目が効かなくなった。先ほどまでは薄雲のかかった月明かりで見えていた木々や茂みが全く見えない。自分が通って来た道も真っ暗だ。
「なんで……」
どうしていきなり見えなくなった? ーーしかし、俺はすぐに違和感を感じた。肌を撫でる風の感触も、静かに音を奏でる虫の音も感じ取ることができない。
「あいつの氣術か!」
そう、またあの暗闇を生みだす術に引っかかったのだ。そしてそれは、仮面の男がすぐそばまで迫って来ていることを意味する。どうしよう。俺はこれを破る手段を知らない。ニ回この術にはかかったが、どちらのケースも父さんが助けてくれた。
「あぁ……もう……」
心底自分の無力さが嫌になる。そして、仮面の男への怒りと憎しみがどんどん増幅していく。今はもう、殺されるかもしれないという恐怖や家族を失った壮絶な悲しみよりも、全てを奪ったあの男に対する憤怒と憎悪が大きくなって俺の中を支配していた。
「何なんだよぉーー!!!」
俺は力の限り叫ぶ。全身に力が入り、氣力が体中を巡り、血が煮えたぎる様な感覚を味わった。すると、俺の体から大量の氣力が周囲に放出される。直後、俺を包み込んでいた暗闇が消え、森の景色が戻った。しかし闇に呑まれる前とは様子が違う。周りの木々が燃えていた。そして、前方に仮面の男が立っている。
「ほぅ、自分で破るとは……しかもこの炎、力が覚醒したんか?」
首を傾げながら近づいてくる仮面の男。力が覚醒? 何の話だ。この炎を……俺が出したというのか?
「いやぁ、大したもんや。でも死ね」
「!!」
仮面の男は鉤爪を俺に向けた。それと同時に俺は踵を返し全速力で逃げる。なぜ暗闇を破れたのか、なぜ木々が燃えているのかよく分からないが、取り敢えず奴から逃げなければ。
「逃さへん!」
走って追ってくる仮面の男。俺が追い風を付けながら逃げているにもかかわらず、距離をジワジワと詰めてくる。曲りくねり、障害物を利用して視界から外れ、奴を撒こうとしたがなかなか諦めてくれない。雨がだんだん強くなってきた。
「くっそ……おわぁ!!」
急に木々が開けた場所に出た、と思ったら目の前は崖だった。急ブレーキをかけてなんとか崖の直前で静止する。崖下を見ると、断崖絶壁の谷底に川が流れているのが見えた。俺は冷や汗を垂らし、唾を飲む。
「これで詰みや」
振り向くと、そこに仮面の男が立っていた。マズイ。もう逃げられない。後ろは断崖絶壁、前には謎の殺戮者。絶体絶命だ。
「お前……何者だ!! どうして俺達を……」
「それは言われへん」
俺の質問をバッサリ切り捨ててにじり寄ってくる仮面の男。どうする。このままでは殺される。
……俺は横目で崖の方を見た。迷っている暇はない。
「ーーうおぉ!!」
俺は男に背を向け、崖へと飛び出した。
「何っ!?」
慌ててこちらへ駆け出す仮面の男。
このまま崖から落ちたら死ぬかもしれない。この高さだ。例え落ちた先が川であっても、無事では済まないだろう。しかし、このまま男に立ち向かえば確実に殺される。だから、俺は少しでも生存確率の高い方にかけることにした。
「ちっ!!」
仮面の男が鉤爪を振った。
「ああぁっ!!」
その鉤爪は飛び出した俺の背中を斬りつける。距離があったため、爪は浅く入り俺の体が4つに切り裂かれることは避けられたが、それでも大きく背中を切られて激痛が走った。背中のため自分では見えないが、血が噴き出しているのを感じる。
そして、俺の体はみるみる谷底へと落ちていった。背中を大きく傷つけられ、体に力が入らない。内臓に浮遊感を感じて気持ち悪く、体に叩きつけられる雨粒が冷たい。水面がどんどん近づいてくる。朦朧としながら川に落ちる直前、崖の上で仮面の男がこちらを見ている姿が見えた気がした。
そして、俺は意識を手放した。
「う……」
ーー目が開いた。そこには見たことのない景色があった。白い質素な天井。屋敷とは違う。ほのかに香るハーブの匂い。
ここはどこだ? 俺は生きているのか? 死んでいるのか?
「あ、目が覚めましたか?」
女の人の透き通った声が聞こえた。俺はそちらに視線を動かした。そこには、紫色の髪を持つ美しい女の子がいた。
「初めまして。私はリアトリスと言います。ご気分はいかがですか?」
これが、俺とリアの出会いだった。




