第71話 エルトゥールを襲う悪夢
ベッドから飛び起き、部屋を見渡す。ドアが燃えている。俺は煙で咳き込んだ。
音を立てながら炎の勢いは強くなっていき、本棚と机にも燃え移る。暗かった部屋が赤い色で照らされた。火の粉を散らし、煤を舞い上げながらなお広がっていく炎に俺は恐怖を覚える。
「一体何なんだ!? どうなってるんだよ!?」
何故部屋に火がついている? 今何時だ? 火事なのか? 皆は大丈夫なのか?
「父さん! 母さん!」
両親を呼んでみるものの、何の反応も無い。炎がただ広がり続けるだけだ。
「何が起こってるんだよ!!」
取り敢えず、この部屋から出よう。そして皆を探そう。家族が心配だ。
そう思い、俺は氷の氣術で火のついたドアを一瞬にして凍らせた。そしてドアレバーの部分とドアの縁だけ氷を溶かし、それを開ける。
「うわっ!?」
ドアを開けた先、廊下は火の海になっていた。壁にかかった絵画は丸焼けになっており、壁にも天井にも火がついて燃え盛っている。
「そんな……父さん、母さん、兄さん、マリィ!!」
家族は無事なのか。皆どうしているのだ。全身から血の気が引く。
「そんな……嫌だよ……」
俺は水の膜を周囲に張り、廊下を走り出す。兄さんの個室は俺の隣の部屋だ。俺はまず、兄さんの部屋のドアを開ける。ドアにはまだ火が燃え移っておらず、普通に開けることができた。
「兄さん!」
部屋に入り、兄さんを呼ぶ。しかし、ベッドには誰も寝ていない。部屋の中にはまだ火が回っていなかったが、そこには誰もいなかった。
「あれ、兄さん……?」
こんな夜中にどこへ行ったのだろうか。もしかして、父さん達と一緒にいるのだろうか。
「くそっ!」
仕方なく部屋を出て、上の階を目指す。父さんと母さんの寝室はひとつ上の階だ。マリィはそこで一緒に寝ている。
燃え落ちた壁や天井の部材を避けつつ、炎をかわしながら進んで行く。水の膜があるため体に火が燃え移ることはないが、それでも凄く熱い。炎の勢いが強いからだろう。
屋敷中全てが今燃えているのだろうか。なぜ、どこから出火した? しかもこんな夜中に。
「はぁはぁ……熱い」
煙と熱気で息がし辛い。汗を大量に流しながら俺は階段を上っていく。階段を上りきり、両親の寝室へと走った。
この階にも火が回っており、あたりは火の色一色だ。廊下を曲がり、視界前方の中に寝室が入る。
「!?」
すると、寝室のドアが開いているのが見えた。そして、寝室から廊下奥へと大きな血の跡が付いている。
嫌な予感が……する。俺は寝室前に辿り着き、そして恐々と部屋の中を見た。
「え……」
そこには、誰もいなかった。本棚や机が燃えている。マリィお気に入りのクマのぬいぐるみも炎に包まれ焼かれていた。
ベッドの上には父さんも母さんも、そしてマリィも寝ていない。周りを見回すが、そこに人の気配は無かった。
だがしかし、ベッドの上には大量の血の跡が付いていた。
「何だよ、これ」
ベッドシーツが真っ赤に染まっている。これだけ出血していたら、死んでもおかしくない量だ。
下を見ると、血痕はベッドから部屋の外へ向かい、そして廊下へ出て行っている。三人のうち誰かが、大量の血を流しながら歩いて部屋を出て行ったのだろうか。
俺は唇を噛み、握った拳に力を入れて恐る恐るその血痕を追う。部屋を出て火に包まれた障害物に気をつけながら廊下を歩く。床に残る跡は血を衣服か何かで引きずった様になっていた。
「父さん……母さん……マリィ……」
胸騒ぎが最高潮に達する。鼓動が速くなり、息は荒い。震える足を一歩ずつ踏み出して行く。
最悪の事態が頭をよぎる。お願いだから、それだけはやめてくれ。お願いだから、皆死なないでくれ。
涙目になりながら、冷や汗をかきながら、そして切にそう願いながら血痕をたどり、そして廊下の角を曲がった。
すると、そこには──
「母さん! マリィ!」
血を流して倒れている母さんとマリィがいた。手前に母さんがうつ伏せに倒れ、背中からは血が大量に出ている。
マリィは母さんの前方に仰向けに倒れており、胸には剣が突き刺さっていた。俺は二人に駆け寄る。
「どうしたの!? 何があったの!? 大丈夫!?」
母さんの体を揺さぶる。しかし反応は無い。マリィの方を見ると、彼女は口から血を流し半目を開けたままで頬には涙跡が付いていた。マリィも動く気配は無い。
「嘘だろ……母さん! マリィ!!」
震える声で俺は叫ぶ。涙がボロボロと流れる。
二人はもう動くことはない。それはこの様子を見れば明らかだ。しかし俺はそれを受け入れられなかった。
「嫌だ、嫌だよ……うわああああああぁ!!!」
二人を抱き寄せ、俺は泣き叫ぶ。何故だ。どうしてこんなことになった。一体誰がこんなことをしたのだ。
お願いだ。死なないで。目を開けてくれ。大好きな母さん、大好きなマリィ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!
「お願い、だから……」
俺の声は燃え盛る炎の音にかき消される。血まみれの二人をギュッと抱きしめている俺の体にはたくさんの血が付いた。俺はしばらくそのままジッとしていた。
すると、轟音と共にすぐ近くの部屋の大きなドアが吹き飛んだ。謁見の間だ。ドアは廊下の壁にぶつかりひび割れて倒れる。
「……何だ?」
俺は謁見の間の方を見つめる。誰かが出てくる気配は無い。そして、炎の音の合間から誰かが叫ぶ声が聞こえた。
「父さん?」
父さんの声に聞こえた。俺は抱きしめていた母さんとマリィをゆっくり離して寝かせ、そして立ち上がり謁見の間へと向かう。動悸が起こり上手く呼吸ができない。前に進む足も震えている。
しかし、一縷の望みをかけて俺はその広間へと進まずにはいられなかった。お願いだから、生きていて──。
「父さん……」
俺は、ドアが外れた広間の中を覗き込んだ。すると、謁見の間の中にはまだ火が回っていなかった。部屋には間接照明の薄明かりがついており、広間内を柔らかい光で照らしている。壁に施された装飾や玉座も綺麗なままで、火の海となっている廊下とは全くその様子が異なった。
そして、謁見の間入口から玉座へと続く絨毯を辿る先に──
「な、に……?」
左腕にグッタリとした兄さんを抱え、右腕が肩から無くなっている父さんが険しい顔をしながらこちらを向いて立っていた。その目の前には黒いローブを羽織った人が佇んでいる。こちらからでは後ろ姿しか見えない。
一体そこで何が起こっているのだ。
「……観念せいや」
ローブの人が低い声で喋る。父さんは歯をくいしばりながら、兄さんを抱える腕に力を入れた。右肩からは血がたくさん流れている。
父さんがジリジリと後ずさると、ローブの男は右腕を振り上げた。その手には鋭利な三本の長い鉤爪が付いた武器を装着している。
その次の行動が予想できて俺は血の気が引いた。ダメだ! 父さんを殺さないで!!
「やめて!!」
俺は叫んだ。すると、父さんが驚いた目でこちらを見た。刹那、父さんが青ざめた様に見えた。
そしてローブの男が振り返る瞬間、
「逃げろユウ!!」
父さんが物凄い形相で叫ぶ。それと同時にローブの男がこちらを向く。
腰にはサーベルの様な剣が二本携えられていた。男は仮面を顔に付けており表情はよく分からないが、目を細め不気味に笑った様に見えた。それを見て俺は背筋が凍る。
そして、思考回路が動き出す前に体が本能的に逃げ出した。全速力で謁見の間から離れる。
──ダメだ、逃げちゃダメだ!! 父さんを助けないと! しかしそう思っているのに足は下りる階段を目指している。
「父さん……!!」
酷い怪我だった。血がたくさん出てたし、右腕が無かった。兄さんもグッタリしていてちゃんと生きているのかも分からない。しかし、兄さんの体から血が滴っている様に見えた。
「やっぱり……ダメだ!!」
怯える体に鞭を打ち、勇気を振り絞って立ち止まった。そして踵を返して父さん達のいる方へと走り出す。
すると、数歩走ったところで仮面の男が謁見の間から出てきた。仮面の男は俺を睨みつける。
「あ……」
俺は急ブレーキをかけ足を止めた。そして、後ずさる。
直後、仮面の男は鉤爪を構えながらこちらへ走り出した。
「うわあぁ!!」
俺は恐怖を感じて直ちに踵を回らせ逃げる。しかし次の瞬間、周りが真っ暗になった。
「!?」
何も見えない。先ほどまで周囲を覆い尽くしていた炎はどこへいったのか。熱さも、音も感じない。ただ漆黒の暗闇が辺り一面に広がる。
「──これって」
以前、俺はこの感覚を味わったことがある。そう、夜中に図書館へ行った時だ。キェルの特殊な氣術で闇に飲まれた時もこうなった。
しかし、今そこにいたのはキェルではなく、謎の仮面の男だ。背格好や声からしてキェルではない。同じ特殊氣術をそう何人も使えることはないはずなのだが……。
「ヤバい」
そんなことより、この状況は最悪だ。父さんを助けるどころか逃げることすら出来ない。どうしよう。
ヤバいヤバいヤバいヤバいヤバいヤバい! 殺される!
そう思った瞬間、
「ユウ!!」
父さんの叫ぶ声が聞こえ、闇が晴れた。そして父さんの左腕に体を抱えられ、足が宙に浮く。
父さんの腰には剣が新たに刺さっていた。悲痛な表情をしながら走る父さん。
「父さん!?」
後ろを向くと、仮面の男が追ってきていた。すぐそばまで迫っている。男は鉤爪を構えた。
いけない、当たる──
「はあぁ!!」
そう思った瞬間、父さんは目の前の窓を氣術で割った。そして、割れた窓に向かって勢いよく俺を投げる。
「なっ!?」
俺は窓から放り出される。その時、全てがスローモーションに感じた。
俺は空中をゆっくりと漂う。仮面の男は目に怒りを滲ませながら父さんに向かって鉤爪を突き出す。
しかし父さんは男の方を振り返らず、俺の方を見ながら笑った。そして、
「──生きろ」
笑顔で、そう言った。
次の瞬間、父さんの胸から三本の鉤爪が突き出る。
「ぐふっ!!」
父さんの表情が歪む。仮面の男は突き刺した鉤爪を勢いよく抜いた。すると父さんの体からは大量の血が噴き出す。
「あ、あ……」
俺の体はどんどん地面に引き寄せられていく。父さんの姿がどんどん小さくなっていく。父さんの目からは光が消え、口から血を吐き、そして倒れ込んで窓からは見えなくなった。
「父さん、父さん!!!」
──父さんが、死んだ。俺を守って、死んだ。
「うああああああああーーーー!!!!!」
嫌だ!! もう嫌だ!! みんなみんな死んじゃうなんて!! 何で!! 何でこんなことに! どうして俺達がこんな目に!! 嫌だ! 何で俺の家族が皆死ななきゃいけないんだ!!
「くっそおおぉーー!!」
俺は体周りに暴風を発生させた。ぐんぐん速度を上げて落下していた俺の体が、風に煽られて落下スピードを落とし無事に着地する。
放り出された窓の方を見上げると、ローブの男がこちらを見ていた。
「っ!!」
俺は追い風を発生させ、全速力でその場を離れる。燃え盛る屋敷を背にして庭を駆け抜け、できるだけ遠くを目指す。涙が止まらない。胸が締め付けられる。
「──生きろ」
父さんのその言葉を胸に、俺はひたすら走った。