第12話 葉月〜encounter 〜
猪型の獣魔はその鋭く細い目で私を睨みつけていた。鼻息は荒く、口からは涎が垂れている。口元からは立派な牙が二本生えており、それで突かれればタダでは済まないだろう。明らかに猪獣魔はこちらに敵意を向けている。この状況は……非常にマズイ。
「あの……コンニチハ」
何とかこの場を打開できないかと通じるはずのない挨拶をしてみると、ほんの数メートル先にいる猪獣魔は逆に毛を逆立てた。
「わわ、ごめんなさい!!」
そう言って私が結界を張ると同時に獣魔が体当たりしてきた。獣魔は結界にぶち当たる。攻撃が当たらなかったことにさらに怒ったようで、今度は牙を結界に打ち付けてきた。
「ちょ、私何もしないからやめて! 今急いでるの!」
当然そんな言葉が通じる訳もなく、獣魔はひたすら結界に攻撃を続ける。しかし結界はビクともしない。ただ牙と結界がぶつかり合う音が激しく鳴る。結界を壊そうと何度も何度も獣魔は攻撃してきた。ヒビひとつ入らないが。
最初この獣魔を見た時は怖かったが、全く攻撃が当たらないことが分かると恐怖が少し薄れてきた。だがこのまま防戦一方ではゴリンソウを採りに行くこともできない。どうしたものか。
「あ、そうか!」
私はあることを閃いた。すると、丁度同時に獣魔が助走のために数歩下がる。勢いをつけて体当たりし、結界を破るつもりなのだろう。
しかしこうして結界から距離を取ってくれたのは私にとって好都合だ。私はしめた、とばかりにそこを狙い、即座に結界の檻を獣魔の周りに張った。
「これで動けないでしょ!」
三メートル四方くらいの結界が獣魔の前後左右に張られる。壁が周囲に張られ、獣魔はその中でしか身動きが取れなくなった。事態に気付いた獣魔は怒って結界内で暴れまわる。唸り声を上げながら牙で、足で、体全体で攻撃するが結界が壊れる様子は無い。
「こういう使い方もあるのね、結界って。しばらくしたら解いてあげる。バイバイ」
私はそう言って防御用に張っていた自分の周りの結界だけ解き、獣魔を閉じ込めたまま先に進む。無事にゴリンソウを持って帰ったくらいのタイミングで結界の檻は解いてあげよう。
何とか自分で危機を脱した達成感を味わいながら少し歩くと、腰掛けられそうな大きめの石があった。
「……喉乾いたな」
私は石に腰を下ろし、水筒から水を飲む。汗で流れ出た水分が補給され、体が生き返った様な気持ちよさを感じた。
だが休憩している暇は無いので、水を飲み終わったらすぐに立ち上がる。すると、左前方から獣の鳴き声と羽音が聞こえた。そちらを見ると、何か白いものにたくさんの鳥がたかっている様だった。
「……何だろう?」
私はゆっくり近づいて行ってみる。すると、白い小さな竜が複数のヤマガラスに襲われていた。苦しそうに小さな悲鳴を上げる竜。それが分かった途端、私は駆け足になった。
「こら! やめなさい!!」
私はヤマガラスを蹴散らした。勢いよく走って行くと、こちらに気づいたカラス達が皆逃げていったのだ。
私はヤマガラスが戻って来ないのを確認した後、目線を竜に下ろした。傷だらけの竜が警戒の目でこちらを見る。翡翠色の目、狐の様な耳、小さな角と小さな翼が生えている。体長は五十センチくらいだろうか。全身至る所を啄まれて負傷しており痛々しい。足も翼も怪我を負って身動きができない様だ。
そしてこの竜──幼い頃の卯月に少し似ている。
「大丈夫? 今治してあげるね」
私はしゃがんで竜に手をかざす。竜はビクッとして体を引いた。しかし、私の掌から出る光によって怪我が治っていくことに気づき、その瞳から警戒の色がだんだんと消えていく。次第に穏やかな目になり、私の方に近寄ってきた。治療が完了する。
「うん、これで良し! また襲われないように気をつけてね」
そう言って私は立ち上がり、竜に手を振る。竜はキュ、と鳴きながら首を傾げた。
どうやら心を許してくれたらしいのでもう少し構っていたいが、生憎今は時間が無い。私は先に進むことにする。竜はさっさと立ち去る私の姿をずっと見ていた。
「もうちょっとお話したかったけど……今は急いでるから仕方ないわ。またそのうち会えるかな」
名残惜しい気持ちを抑えて私は再び洞窟を目指して歩いていく。
しばらく歩いていると、途中で目印が途絶えた。
「あれ? 道間違えちゃったかな?」
周りを見回すが、通ってきた道の目印以外に赤いテープは見当たらない。次の目印が何らかの理由で無くなってしまったのだろうか。
だがここで諦めて引き返すことはできない。ここで手ぶらで戻ったらオルトは助からないのだ。そう思いながら更に少し足を進めると、進行方向に土砂崩れの跡があった。
「嘘……でしょ!?」
斜面の上の方で大きく抉れた土。それが流れ落ちて目の前の道を飲み込み、周囲の木々を道連れにして崖下の方へと落ちていたのだった。洞窟への道と目印は土砂に攫われてしまっていたのだ。
どうしよう。ゴリンソウが手に入らなければオルトが死んでしまう。しかし、これでは洞窟に辿り着けない。
「そんな……嫌よ! 私、諦めないから」
このまま無理矢理にでも進行方向へ進めば、きっと正しい道に出られるはずだ。たぶんすぐ次の目印も見つかるはず。私はそう考えて土砂崩れの現場を乗り越えようと踏み込む。
すると──数歩進んだところで足が滑った。
「きゃああぁあぁーー!!」
土砂の上を転げ落ちる。二、三十メートル以上転がっただろうか。何度も回転しながら途中小さな枝や石の突起物にぶつかりつつ落ちて行く。体は泥まみれになり、地面に打ち付けられた。
少しの余韻の後目を回しながらも何とか起き上がるが、体のあちこちに擦り傷ができていた。全身あちこちを打っていて痛い。しかし、幸いにも骨折などはしていなかった。悪運が強いとでも言うべきか。
「うぅ……痛いよぉ……」
涙を堪える。上を見上げると、元来た道からかなり離れてしまっていた。結構転がったな。登るにしても、土砂崩れの現場だ。先ほどのように足を取られて進めないだろう。
「あぁもう最悪……。どうしたらいいの……!」
私は途方にくれる。このままではゴリンソウを取って帰ることができない。それどころか帰り道も怪しい。何と情けないことか。
するとオルトの顔が頭に浮かんだ。……やっぱり私じゃ守れないのだろうか。
「ごめんね……」
目頭が熱くなる。無力感と罪悪感で胸がいっぱいになった。手で顔を覆い、涙を流しながら脳内で謝罪をし続ける。
するとその時、何かが背中に触れた。
「……?」
私は振り向く。そこには先ほどの白竜がいた。クリクリの丸く大きな瞳でこちらを見つめてくる。
「え? あなた……もしかして追いかけて来たの?」
「キュウゥー!」
白竜が尻尾を振りながら嬉しそうに返事をする。その仕草に、少し心が癒された。そして白竜は傷と泥でグチャグチャになった私の手を舐める。すると──手の傷が癒えた。
「……え!? 治癒能力使えるの!?」
白竜が首を傾げる。違うということだろうか。しかし今使ったその能力は間違いなく私と同じ、治癒の力だ。白竜自身が自分の能力のことをよく分かってないということだろうか。
「えっと……よく分からないけどありがとう。あなたはこの林に住んでいるの?」
コクコクと首を縦に振る白竜。どうやら言葉がちゃんと理解できているらしい。賢いな。ということは、今は能力のことではなく他に聞くべきことがある。言葉が通じるのなら──まだ希望はあるのだ。
「じゃあ、ゴリンソウっていう花が咲いている洞窟の場所分からないかしら? 仲間が今毒で倒れていて、血清を作るのに必要なの」
「キューー……キュ!」
白竜は少し考えた後、ついて来て! という感じで体を翻した。尻尾を立てながら、得意げに歩いて行く。
「本当に分かったのかな……? でも言葉は理解できてるっぽいし、私には道が分からないし……」
私は取り敢えず白竜について行ってみることにした。歩きながら治癒能力を使用して怪我を治していく。白竜はまだ子供だから飛べないのだろうか、四つん這いで歩いている。細長い尾を振りながら歩く姿が可愛い。
その姿に心を少し癒されながら平坦な道を歩いていくと、洞窟が見えてきた。恐らく、目的地の洞窟だ。
「あ、あった!!」
私は洞窟の方へと走る。すると白竜もついて来た。入口で立ち止まって中を見ると、ゴリンソウがたくさん咲いている。良かった、正解だ。
「凄い! 本当にあった!! 君、ありがとう!」
「キューー!」
白竜は得意げに尾を勢いよく振る。私は白竜に感謝しながら急いでゴリンソウを採って袋に入れた。念のため必要数より少し多めに採っておく。
そして採り終わった後、立ち上がって洞窟の外を見た。鬱蒼とした林だ。目印も無い。……私は白竜の方を見る。
「えっと……君にもう一回道案内を頼んでもいいかな?」
帰り道が分からなかった。なんせ目印だけを頼りに歩いてきたのだから。
白竜が案内を快諾してくれたため、私は無事に老爺の家に戻ることができた。白竜はこの場所の地理を完全に把握しているらしく、往路よりも平坦で簡単な道を教えてくれた。本当に賢い子だ。
「ただ今戻りました!!」
「おぉ、無事……じゃなさそうな格好だな。大丈夫か?」
「私は大丈夫なので、早くオルトを!」
帰るなりすぐにゴリンソウを老爺に渡す。良くやった、と老爺は言って診察室へ入っていった。それを見送ると体の力が抜けて、私はその場にへたり込んでしまう。
「あぁ……間に合ったかな。オルト、大丈夫かな……」
少しその場で休憩したあと、ローブや服の泥を払うために外に出た。すると、家の前で別れたはずの白竜がまだそこにいた。
「あれ? どうしたの? 心配してくれてるのかな?」
「キュウゥ」
私が話しかけると、嬉しそうに寄ってきた。すごく懐いてくれたみたいだ。嬉しい。
「おい、もう大丈夫だぞ……って何だそいつは」
オルトの無事を伝えにきた老爺が白竜を見て驚いた表情になる。
「さっき私を助けてくれた恩人です。中に入れても大丈夫ですか?」
「お、恩人? まぁ入るのは構わんが、一体何があったんだ……」
私は老爺──トクさんと言うらしい──に道中の出来事を話した。トクさんは危険な目に合わせてすまなかった、と申し訳なさそうに謝ってきたが、むしろ助けられた私達としては感謝してもしきれないくらいだった。
お風呂を貸してもらって体も服もキレイにしたあと、私は寝ているオルトの隣に座る。オルトは穏やかな顔をして寝ていた。改めて、綺麗な顔をしているなーなんて思う。その様子を見ていると、自分まで眠くなってきた。
「────むにゃ」
「あ、ごめん起こしちゃったかな」
上から声が聞こえる。どうやら私は寝てしまっていた様だ。顔を上げると、上体を少し起こしたオルトの顔が近くにあった。どうやら寝ていたオルトの上に突っ伏して寝てしまったらしい。私は顔が熱くなるのを感じる。
「あわわ! ごめんなさい! 私ったらうっかり……」
「あはは、俺は大丈夫だよ。八雲、ありがとう。トクさんから大体の話は聞いたよ、凄く頑張ってくれたんだったね」
「あ、ううん。……オルトが無事で本当に良かった。体調はどう?」
「だいぶ良くなったかな」
「お、起きたな。夕飯できたぞ。兄さんこっちに来れるか?」
トクさんが入ってきた。夕飯ということは、寝ている間に日が暮れてしまったのか。
オルトはゆっくりとベッドから降りる。立つと少しフラついていたが、二歩目からはしっかりと歩き出した。
「行こうか」
「うん!」
居間に行くと、三人分の食事が用意されていた。トクさん料理もできるんだなぁと感心する。そういえば朝ごはん以外何も食べていなかった。思い出すと急にお腹が空いてきて、私は一心不乱に食べ始める。オルトには消化に優しそうなものが用意されていた。
「そいやその竜、イミタシオンという珍しい種類の竜の子供みたいだぞ。他のものの姿や能力をある程度真似できるらしい」
トクさんはそう言って図鑑を見せてくれた。立派な翼と針の様な角をつけた白く細長い竜が載っている。今の白竜よりもずっと顔も体も長いが、成長したらこうなるのだろうか。私は隣で食パンを食べている白竜の頭を撫でる。
「あ、だからか……」
能力を真似できる、ということはさっきの治癒能力は私の真似をしたのか。
「どうした?」
「いえ、何でもないわ」
トクさんの前で治癒能力の話をする訳にはいかない。後でオルトに話そう。
「ところで、俺達モルゴを目指しているのですが、ここからだとどう進めばいいですか?」
「それならここから北に進めば国境だ。半日もあれば着く」
「トクさんはどうして一人でこんな所に暮らしているんですか? 私には暮らし易い場所には思えないけど……」
するとトクさんは微笑んだ。そして天井を見上げ、どこか遠いところを見ている様な目をする。
「昔は都会で医者をしていたんだがな。歳をとってくると自然の中で暮らしたくなってきて、金持ちの別荘だったここを買い取ったんだ。たまに行商人が来るからそれで生活物資は買っている」
トクさんは何か思いにふけりながら話す。きっと彼にも色々なことがあって、何かの思いがあって、ここを選んだのだろう。それを聞いて人間暮らそうと思えばどこでも暮らせるんだな、なんて思った。
食事を終えてから私は白竜と少し遊んで、(その間にオルトは異変についてトクさんに何か聞いている様だった)トクさんのベッドを貸してもらって寝た。疲れていたせいか、すぐに寝付くことができた。
翌日の朝、私達はトクさんの家を出発する。オルトは謝礼を渡したらしい。
「本当にありがとうございました!」
「気をつけてな」
言い方は全体的にぶっきらぼうだし愛想も無いが、トクさんは凄く良い人だった。私は歩きながら大きく手を振る。
すると、私達の後ろに白竜もついてきた。オルトが頭を掻きながらこちらを見る。
「八雲、その竜……連れてくのか?」
「何か怪我を治してあげてからずっとついて来るのよ。可愛いし賢いし、昨日道案内もしてくれたし、連れて行ってもいいかしら?」
オルトは少しの間白竜を見ながら考える。白竜がつぶらな瞳でオルトを見つめた。
「……まぁ俺は構わないけど」
「やったぁ! じゃあ名前付けようかな!」
白竜の可愛さにオルトが負けたところで、私は横を歩く白竜を抱き上げた。
「うーん……葉月! あなたの名前は葉月ね!」