第121話 金色の狐
渓谷内に続く一本道の先、前方に何かがいる。草木が多いため視界が悪く、その気配の犯人の姿は見えない。しかし、確かに何かがこちらを見ている。
「……オルト」
「あぁ」
琴音も気配に気づいたらしく、周りを警戒する。
「どうしたの二人共?」
「何かいんのか?」
「……前に何かいるよ。気をつけて」
俺の言葉に全員が息を呑む。歩くのを止め、前をジッと見た。
「もしかして、噂のウルビーストかしら……?」
「だとしたら、渓谷に入っていきなり出会っちゃうなんて引きがいいわねー」
「良くねぇ! 運悪すぎだろ俺達!?」
「セファン、あまり大声を出さないでください」
「……でも殺気は感じねえよな、ユーリ?」
「そうだね。葉月とサンダーもそんなに警戒してないし……何だろうね」
正体不明の危険な獣魔にしては、どうも敵意が感じられない。何か動物の類だろうか。
すると、進行方向に三十メートルほど進んだ先の茂みがカサカサと音を立てながら動く。草葉の揺れ方からして、そこまで大きな生き物がいる訳ではなさそうだ。俺は静かに、そして息を殺しながら一歩ずつ近づいていく。念のため剣を抜いた。皆は後ろで見守っている。
ゆっくり近づいていき、あと十歩ほどで謎の生物まで辿り着きそうだったその時。茂みから勢いよく何かが飛び出した。
「わ!?」
茂みから出た影は素早く俺の前を通り抜けて地を蹴り、すぐそばに流れる渓流へ軽々と跳躍する。そして飛び石の上に着地し、こちらを向いた。
「あれは……!」
謎の気配の主、姿を現したそれは赤い双眸で俺を見つめる。金色の美しい体毛、長く細い四肢、頬に赤い唐草模様。そして何より特徴的なのが、長くしなやかに揺れる九本の尾だ。
「え、狐!?」
「何だあれ! 尻尾がいっぱい生えてるぞ!?」
「わはー、これまた綺麗な獣魔が出てきたわねー」
八雲、セファン、エリザベートが石上の狐を見てそれぞれ反応する。葉月とサンダーは尻尾を振っていた。
狐は威嚇するわけでも逃げようとするわけでもなく、ただ静かに尾を揺らしながら佇んでいる。
「また変わった獣魔だな。オレあんなの見たことねえぞ?」
「取り敢えず、あの様子からするとこちらに攻撃する気はないようですね」
ロベルトと琴音は警戒を解く。俺も剣をしまった。
「……君は」
目の前に現れた美しい狐、それに俺は見覚えがあった。確かシェムリからランバートへ向かう途中、山の中で助けた子狐──その親だ。ほんの少し遠目で見ただけだったが、しかし特徴的なその姿はハッキリと覚えている。だが何故こんな場所に。あの山からここまではかなりの距離があるというのに。いや、同じ種類の別の個体だろうか。
『──お久しぶりですね、焔瞳』
「え!?」
一瞬、何か起きたのか分からず思考が停止する。今、透き通った声が焔瞳と言った様に聞こえたが……狐が喋った?
「どうしたのオルト?」
八雲達が駆け足でこちらに来る。驚いている俺の顔を見て八雲は首を傾げた。
「なんかあいつジーッとオルトのこと見てるけど……何なんだ?」
「特に何もしてくる様子もないですけど、オルトはあの狐を知っているのですか?」
「あ、えっと……」
すると、狐は一度お辞儀をした後すぐにジャンプし、渓流奥の茂みへと消えた。草木が擦れる音がどんどん遠ざかっていく。
「ありゃ、行っちゃったわねー」
「オレ達に怯えて逃げちまったか?」
「ロッキーの目つき怖いもんねえ」
「うるせぇ。オレだって好きで目つき悪くしてる訳じゃねえよ」
「んーでも綺麗な狐だったわねー。毛皮取ったらかなーりいいお値段になりそう」
「え、エリちゃん何てことを! 残酷だわ……」
「あら、八雲姫。これは職業病ってやつだから仕方ないのー。別に本気で捕まえようなんて思ってないわよんっ」
エリザベートが人差し指を立てながら八雲にウインクする。八雲はそれならいいんだけど、と言いながら胸を撫で下ろしていた。そして俺の方を見る。
「オルトどうしたの? 変な顔して」
「あの狐がどーかしたのか? 珍しく間抜け顔になってるぜ?」
「え、マジ?」
「何言ってんだ、ユーリはちょいちょい間抜けだぞ」
「ロベルトに言われたくないよ」
皆の視線を受けながら俺は考える。さっき、確かにあの狐が喋った様に見えた。しかも焔瞳と。
「なぁ、あの狐喋ってなかった?」
「「「「「……は?」」」」」
俺の質問に皆がポカンとする。
「……何言ってんだオルト?」
「ユーリ、熱でもあるのか?」
セファンとロベルトが怪訝な表情で言う。ということは、皆にはあの声は聞こえていなかったのか。
「えっと……喋ってなんていなかったと思うけど?」
「オルト、どういうことです?」
「んー? オルトくんには何か聞こえたのかなー?」
俺以外の耳にあの言葉は届いていない様だ。まさか空耳だったのだろうか。
「いや、喋った様に見えたんだけど……俺の気のせいかな」
『──いえ、確かに私はあなたに話しかけましたよ』
「──!!?」
「え、どうしたのオルト!?」
今、確かに先ほどと同じ声が聞こえた。俺は周りをキョロキョロと見るが、声の主の姿は見えない。その代わり、不思議そうにこちらを見る八雲が視界に入った。
「あ、ええっと……今、声が聞こえなかった? 俺達以外の」
「?」
皆首を傾げる。やはり俺以外には今の声は聞こえていないらしい。一体どういうカラクリなのだろうか。
「いや、何でもない。変なこと言ってごめん。先に進もうか」
「え、何それ気になるわ」
「ユーリ、そうやって何も言わないのお前の悪い癖だぞ」
「う……ごめん。実は今、声が聞こえたんだよ。さっきの狐の」
「え、狐なんてもういないわよ?」
「えぇ!? 俺には何も聞こえなかったぜ!?」
「そうなんだけど、何故か聞こえたんだよ。しかも俺の言葉にちゃんと受け答えしてた」
「ほほーう、喋る謎の美しい狐ねぇ。しかもある程度離れてても会話できるだなんて……なかなか凄い獣魔ねー」
「で、その狐に何て言われたんだ?」
「……焔瞳」
聞き慣れない単語のせいか、俺以外が皆固まる。
「ぶ、ぶれ……? それ何なの?」
「焔瞳。ユニトリクではエルトゥール一族のことをそう呼んでいるんだよ。まぁ国の皆がそう呼んでる訳じゃないし、エルトゥールの中でも特に王とその直系の家族を指して言うことが多いんだけどね」
「へぇ、一族の二つ名みたいな感じか?」
「まぁそんなとこだよ」
「いやん二つ名とかカッコいいわねーオルトくん」
「そうかな?」
「ですが、何故あの狐はオルトの正体と焔瞳という単語を知っていたのでしょうか」
「……そいやユーリ。狐の姿を見てすぐ驚いた様子だったけどよ、あの狐知ってんのか?」
「あぁ、モルゴの国の中で会ったことあるんだよ」
「モルゴってまた遠いな!? 何でそんな奴がここに!?」
「それは俺も聞きたい」
「っていうかモルゴであんな狐と会ったっけ? 私全然覚えてないんだけど……」
「シェムリを出たあと山で八雲とセファンが熱を出しただろ? あの時薬草を取るために山の中を歩いてたら、狐に出会ったんだよ」
「あ、そいやーそんなことあったな……」
「へぇ、じゃあオルトしか会ってないのね」
「そういうこと」
狐への反応に関して皆が納得したところで、俺達は取り敢えず歩き出す。狐のことは気になるが、今は実験場に辿り着くのが優先だ。日没までたっぷり時間がある訳ではないので、狐の声については後で考えることにして渓谷奥へと進んでいく。
狭い道を進み、段差を越え、時に茂みを掛け分けながら歩いて行く。何度か獣魔に遭遇したが、さして強力な相手ではなかったため簡単に撃退した。そうして歩いて行くと、暫くして大きな水音が聞こえてきた。大量の水が走り、そして崖から落ちて轟音をあげる。滝だ。俺達は滝の音が聞こえる方へとどんどん進んでいく。すると、斜面を降りた先に滝があるのが見えた。足元に気を付けて斜面を下り、滝の方へと歩く。
「うおー、やっと着いたぜ! あの滝の裏に実験場があるんだよな?」
「エリちゃんの掴んだ情報だとそうねー。んー涼しい! 何かお肌に良さげなミストが出てるわねー」
「ん? これ何だ?」
するとロベルトが下を向いて顔をしかめた。彼の足元を見ると、そこには朽ちた鉄製のパイプの様なものが地面から突き出ている。パイプはひしゃげて途中で千切れており、何の用途に使われていたのか分からない。
「何だろう。一本だけ不自然に刺さってるね」
「何かの杭でしょうか」
そこそこの太さのあるパイプだ。よっぽどの力が加わらない限りこうもひしゃげたりはしないと思うのだが。それに人が入らないこの渓谷の中で、唐突に人工物が現れたのにも不自然さを感じた。
「なぁ、それよりも早く滝の裏行こうぜ!」
「……そうだね」
はしゃぐセファンに促されて滝の方へと近づく。パイプのことは少し気にかかるが、今はそれに構っている時間的余裕は無い。
「でも裏ってどうやって入るのかしら?」
目の前にある滝は幅広のタイプで、落差は十メートルほどだ。手前には滝壺があり、滝に近づくにはそれを渡らなければならない。
「あの滝の奥に、実験場に繋がる穴があるみたいなのよ。滝をくぐらないといけないわねー」
「マジかよ。ずぶ濡れになるじゃねーか」
「あら、ファンファンも水も滴る良い男になるかもよ?」
「じゃあやってみようかな……ってなるか! それにあの勢いの水当たったら痛そうだし冷たそうだし」
「まぁ普通に滝行になりますからね」
「トレーニングがてら滝に打たれてみるのもアリだけど、ちょっと時間が無いのと今の時間に濡れたら乾かなくて風邪ひきそうだからね。という訳でエリちゃんちょっと頼める?」
「はいはーい! エリちゃんにお任せをー!」
エリザベートはご機嫌に手を挙げる。そして滝壺へと進み、水面を指差した。次の瞬間彼女の周りに冷気が立ち込め、それは瞬時に滝方向へと広がる。冷気はたちまち触れたものを凍てつかせ、滝壺表面、そして滝自体も凍った。
「うおぁ! エリちゃんすっげー!」
「へへーん、これくらい軽いわよ」
「あ、あれが入口かしら」
八雲が滝を指差す。滝の水は凍り、時間が止まった様に小さな水滴まで固まって静かに幻想的な雰囲気を醸し出していた。水が静止したため凍った滝の裏側が目視できる。滝の裏側真ん中あたりに、人二人くらいなら入れる大きさの穴があった。
「よし、行くぞ!」
「うん!」
俺達は凍った滝壺の上を歩き、滝へと近づいて行く。氷の上を滑らない様に気を付けながら歩き、滝の裏、実験場の入口まで辿り着いた。
「入ろう」
俺は入口へと足を踏み入れる──その時。
『待って!』
「!」
狐の声が再び脳内に響く。俺は足を止め、声が聞こえてきた上方を見上げた。滝口脇にある岩の上に先ほどの狐が立っている。
「あ! またあの狐よ!」
「うおっビックリしたぁ!」
「あらー、また会ったわねー」
俺の視線を追って、八雲達も狐に気付く。狐は少し目を細めた後、俺の目の前に飛び降りた。
『その穴には防護壁が張られています。合言葉を言わないと、触れた瞬間に消し炭になりますよ』
「防護壁!? 合言葉?」
『深遠なる影の使者、相関する数多の光』
「え……」
『言ってください。そうすればその障壁は無くなりますので』
「どうして君はそんな……」
「おいユーリ、独り言ばっか言ってどうしたんだ?」
「あ、ええっと」
振り向くと、皆が不思議そうな表情でこちらを見ていた。
「あ、もしかして狐さんが何か言ってるの?」
「うん。この子曰く、この穴には防護壁が張られてて合言葉を言わないと通れないらしい。そのまま進もうとすると消し炭になるって」
「あらー、それまた物騒ねぇ」
「合言葉、ですか」
「今教えてもらったからちょっと待って」
俺は入口の穴に向き合う。そして狐の言葉を頭の中で反芻した。
「……深遠なる影の使者、相関する数多の光」
次の瞬間、穴に張られていた防護壁が光り、そして消える。防護壁自体はもともと見えていなかったため、見た目ではただ少し光っただけで変化はないが、これで穴に入れる様になったらしい。
「これで、大丈夫なのか?」
『はい』
狐は満足そうに頷く。俺は振り向き、八雲達に大丈夫だとサインした。
「よーし! じゃあ早速入ろうぜ!」
「狐さん、教えてくれてありがとう」
八雲がお辞儀をすると、狐はこうべを垂れた。
「それじゃあ、入ろう」
俺は、実験場への入口に足を入れる──。