第120話 渓谷へ
サンダーの背に乗って一時間と少しくらい経っただろうか。サンダーが頑張って駆け抜けてくれたお陰で、俺達はアイゼン渓谷入口すぐの崖まで辿り着いた。今のところ追手には見つかっていないし、まだ日没までは時間がある。
「はぁ……手が痺れたしお尻が痛いわ」
「エリちゃんも同感ー!」
「おいおい、せっかく俺とサンダーが頑張ったのにそりゃねーだろ!?」
「ワウ!」
走るサンダーにずっとしがみつき続けていたため、八雲達はだいぶ疲れた様だ。八雲とエリザベートが痺れた手をブラブラとさせるのを見て、セファンと元のサイズに戻ったサンダーが不満そうに鼻を鳴らす。
「この橋を渡った先、進んだ奥の滝の裏に実験場があるのですよね?」
「そうらしいわよー」
「ここからは俺達も進んだことが無いから、渓谷の中がどうなってるのか知らないな」
「あら、やんちゃオルトくんでもこっから先は行ったことないんだー?」
「さすがに日帰りで行けない距離だからね。リアにもキツく止められてたし、屋敷の人間にも心配させちゃうし、それにウルビーストの噂もあったから」
「ま、よっぽどのことが無い限りここに近づく人間はいねえよ」
目の前の崖には五十メートルほどの長い吊り橋が架かっており、それは渓谷の奥に続く対岸まで繋がっている。ロープと木の板で作られた橋は腐朽が進んでおり、風で揺れるたびにギシギシと音を立てていた。幅員は狭く、大人一人しか通れなさそうだ。奥に行くにはこれを渡るしかないのだが、この人数が乗って荷重に耐えきれるか不安なところだ。一人ずつ渡るのが無難だろう。
「これ、壊れたりしないわよね……?」
「俺、この橋渡りたくねぇ……」
「エリちゃんは箒に乗ってビュビューンと行けちゃうから問題なしよー」
「ずるい!」
「ずりぃ!」
「ねぇ琴音、白丸に乗って越えるっていうのはどうかしら?」
「そうですね、その方が早いかもしれません」
琴音は白丸を召喚しようと掌をかざす。……しかし、いつもの様に召喚せずに顔をしかめた。
「どうしたの?」
「いえ……白丸がここに来るのを嫌がっています」
「えぇ!? そんなことあんのか!?」
「……もしかしたらこの渓谷に何か嫌な思い出でもあるのかもしれませんね。無理矢理召喚することもできますが、私はあまりそういうことはしたくありません」
「そうだな。無理矢理引きずり出すのは可哀想だし」
「じゃあ、やっぱり自力でここを渡るしかないのね……」
八雲とセファンがうなだれた。
「私が叩きながら渡ってみましょうか? 私なら落ちても復帰できますので」
「叩いたら壊れそうだから、復帰できるなら叩かずに進んでくれると助かる。でも大丈夫なのか? もし橋の中央辺りで落ちたら、どっち側に復帰するにしろ結構距離があるぞ?」
「問題ありません。最悪、風太丸を呼べばいいですし」
「なかなか頼もしいねーちゃんだな」
「では行ってまいります」
琴音はこちらに頷いた後、吊り橋を渡り始める。一歩進むたびに板とロープが軋んだ。八雲とセファンはハラハラした様子で琴音を見守っている。
橋下に広がる切り立った崖はかなりの深さがあり、かなり下方に小さな川が流れているのが見えた。もしここから落下すれば、否応無しに地面に叩きつけられて粉々になるだろう。しかし琴音は怖気付くこともなくスイスイと進んで行く。見た目はボロボロの橋だが、今のところ大丈夫そうだ。
そして半分ほど進んだ時。
「──!」
琴音が足を板に乗せた瞬間、その板の一部が朽ちて落ちた。琴音はすぐさま足を離してバランスを取り直す。八雲が小さく悲鳴をあげた。
「ちょ、ビビった……この橋マジで大丈夫なのかよ……俺無理な気がしてきた」
セファンが冷や汗を流しながらげんなりとしている。隣でサンダーが心配そうにセファンの頬を舐めていた。
琴音は大丈夫、と手振りでこちらにサインを送った後また歩き出す。とその時、強風が吹いた。吊り橋が軋む音を立てながら大きく揺れる。琴音は涼しい顔をして手すりのロープに掴まっているが、見ている側はかなりヒヤヒヤだ。
「わー、なかなかスリリングなアトラクションねぇー楽しそう!」
「じゃああんたも普通に渡ったらどうだ」
「ふふふ、ロッキー。そんなの遠慮しとくわよー」
「何なんだよ!」
風が少し収まったタイミングで琴音が再び歩き出す。あと三分の一ほどで対岸に着く。
──するとその時。
「いたぞ!! ユウフォルトスだ!!」
「ロベルト、見つけたぞ!!」
後方の街道から叫び声が聞こえた。振り向くと、遠くから騎士が五人ほど駆けて来ている。
「追手だ! 皆、橋を渡るぞ!」
「嘘でしょ!?」
「マジかよ!!」
「あらー見つかっちゃったわねー」
「呑気だなあんたは!」
俺達は吊り橋へと走り出す。もう一人ずつ渡っている時間は無いため、一気に全員で進むしかない。俺、八雲、セファン、ロベルトの順に並んで橋を急いで渡っていく。葉月とサンダーはそれぞれ八雲とセファンが抱え、エリザベートは箒を出して優雅に上空を飛ぶ。前方の琴音も前に向かって走った。
早足で橋を歩き二分の一ほど進んだ時、後ろから悲鳴が聞こえる。
「はわぁ、オルト待ってぇ! こ、怖いわ!!」
「あーーもう無理無理無理だあぁ!!」
振り向くと、八雲とセファンが泣きそうな顔で手すりのロープにしがみついていた。全員同時に乗ったことで吊り橋はかなり揺れており、しかも眼下には切り立った底の深い谷が広がっている。相当の恐怖を感じているのだろう。俺もそこそこ怖い。ちなみにロベルトも言葉こそ発していないが、顔は青ざめていた。
だが、ここで止まっていては騎士達に捕まってしまう。何とか対岸まで行かなければ。
「ロベルト、セファン持てる!?」
「お、おーよ!!」
俺は完全に腰が抜けて縮こまっている八雲を抱え上げ、ロベルトに言う。ロベルトは俺の発言の意味をすぐ理解したのか、動けなくなっているセファンを担いだ。そして、俺達は走り出す。
走ることで豪快に吊り橋は揺れ、バランスがかなり取りづらい。しかも八雲を抱えているため手すりロープを掴めないが、何とか体勢を保って進み続ける。老朽化した吊り橋の軋む音が大音量で奏でられた。所々でロープが切れる音がする。マズイ、早く渡らなければ落ちる。
すると後方で、騎士達が橋に乗る音がした。
「うおぉ、あいつら渡って来やがった!!」
「ちょ、ロベルトあの人達止められないのか!? 同僚だろ!?」
「いやいやオレもうお前の脱獄手伝った裏切り者認定されてるからな!? 無理だろ!!」
騎士達もさすがにこの揺れる吊り橋は怖いらしく、追って来るスピードはさほど出ていない。このまま走ればすぐ追いつかれることは無いだろう。
しかし、問題なのはこの吊り橋の耐荷重量だ。俺達が走るのと騎士達がプラスで乗ったことにより、明らかに吊り橋が異音をあげている。軋む音は激しくなり、ロープが切れる音がし、大きく揺れるたびにその振れ幅が増している。
「ちょ、きゃあぁ! 落ちる落ちる落ちるー!!」
「うおおぉー! ヤベエヤベエヤベエよー!!」
抱えられたままの八雲とセファンが悲鳴をあげる。俺達はそれに構わずひたすら走る。前方、琴音が対岸に辿り着いた。
──その直後。
「うわあぁ!?」
街道側に繋がれていたロープが完全に切れた。片側の支えを失った吊り橋は、勢いよく弧を描きながら対岸の崖壁へと振り子運動していく。俺とロベルトは何とか片方の手で吊り橋に掴まりながら、橋と共にターザンの様に崖壁に迫っていく。このまま叩きつけられれば大ダメージだ。俺達は崖方向に足を向け、橋が対岸に打ち付けられる瞬間にその壁を斜めに蹴って衝撃を分散させた。何度か振り子運動して勢いを殺していき、静止する。俺達は橋に掴まって宙吊りの状態となった。八雲とセファンは恐怖で目をギュッとつむっている。下の方に目を向けると、追って来た騎士達が谷底へと落下していた。
「大丈夫ですか!?」
上方から琴音の声が聞こえる。上を向くと、崖の上から琴音がひょっこりと頭を出していた。
「あぁ、大丈夫……だけど登れない」
「何とかしてくれ。結構腕キツイからあんま持たねえぞ」
俺もロベルトも片手で八雲、セファンを抱え、片手で壊れた吊り橋に掴まっている状態だ。そう長くは持たない。
「すぐ引き上げますので……」
琴音が橋を引き上げようとした瞬間、嫌な音が聞こえた。
「っ!!」
俺達の重さに耐え切れず、渓谷側のロープも千切れたのだ。吊り橋とともに、重力に従って俺達の体は谷底へと吸い込まれていく。
「きゃああーー!!」
「ぎゃーー!!!」
八雲とセファンの悲鳴が崖に反響する。次の瞬間、琴音の叫ぶ声が聞こえた。
「っやむを得ません! 白丸!!」
竜の鳴き声が響き、その声の主がこちら目掛けて猛スピードで降りて来る。白丸は落下する俺達の下に回り込み、背中でキャッチした。翼を広げてその場で浮遊し、目線をこちらに向けて全員が無事であることを確認する。助かった。
そして白丸は上昇し、崖の上へと降り立った。待っていた琴音が白丸の頭を撫でる。
「はぁ……た、助かったの?」
「マジで死ぬかと思ったぜ……」
俺とロベルトに抱えられながら口を開く八雲とセファン。ロベルトも息を切らしている。
「白丸、ありがとう。助かったよ」
俺は八雲を抱えながら白丸の背中から降りた。ロベルトもセファンを担いで降りる。
「白丸、無理矢理呼び出してすみませんでした」
琴音が申し訳なさそうに白丸に言う。白丸は目をつぶって俯いた。そして翼を畳み、か細い声を出しながら縮こまる。白丸は震え出した。
「──大丈夫ですか白丸!?」
「クルルル……」
明らかに白丸の様子がおかしい。何かに怯えている様だ。
「すみません、今戻しますね!」
琴音はすぐさま白丸を離脱させた。煙とともに白丸の姿が消える。
「どうしたのかしら……」
「分かりません。白丸は何も話そうとしませんでした。もしかしたら天敵がいるのか、それか何か余程のトラウマがあるのでしょう」
「天敵って……もしかしてウルビーストかしら」
「その可能性もありますね」
「取り敢えず助かった。ありがとなねーちゃん」
「あははー、皆大変だったわねー」
「おいエリちゃん!! 余裕ぶっこいて飛んでねーで、助けてくれよ!!」
「ファンファンごめんねー。まぁでも皆無事だし良かったじゃない!」
「あのなぁ……」
エリザベートが優雅に降り立つ横で、セファンはガックリと肩を落とした。
「まぁ取り敢えず、無事に渓谷には着いた。日暮れまで時間がない。奥に行こう」
「そうね」
俺達は気を取り直して渓谷の奥へと歩き出す。川の流れる音に生い茂る木々、起伏に富んだ道が続いている。アイゼン渓谷の怪しい雰囲気が、俺達を歓迎していた。
「なんか……肌寒いわね」
「すぐそばに渓流があるからね」
「一応道っぽいのはあるけど……本当にこの方向であってんのか、エリちゃん?」
「エリちゃんは道の情報までは知らないわよー」
「他に人が入る様な道は無かったので、ここでいいとは思いますけど……」
そんな話をしながら進んでいく。
──するとその時、何かの気配を前方に感じた。




