第36話 ゲオルグと亀
「……お? 随分大人しいな」
ゲオルグが香木亀の巨体を見つめながらそう言ったので、カティアが首を傾げる。
「そうなのですか? 香木亀は比較的大人しいものが多いと聞きますから、普通だと思ったのですけど……まぁ、だからこそ乱獲されて数が減ったとも言いますが」
「あぁ、基本的な香木亀の性質はそうなんだが、こいつは別だぞ。最初、俺が来たとき、こいつはひたすら魔術を放ってきたからな。この体で暴れ回ったりはしないから、この辺りで地震が起きたりするわけじゃねぇが……それでも大人しくさせるのが大変だった。まぁ、最近はそれでも大分慣れたのか、ましにはなってきたが……」
「魔術……といいますと、どの程度の?」
「最初は上級魔術程度をそこら中から連発してきやがった。最近は手加減でもしてくれてるつもりなのか、中級魔術程度だが……。いつもならどうにかさっさと背中の香木を切り取って逃げ帰ろうと、こっからが勝負なんだが、今日は全然そんな気配がねぇ。こいつは楽でいい」
「上級魔術連発って……その辺の竜を倒すよりも大変そうですね……。でも的が大きいことを考えれば、本気で倒そうとするなら、楽、でしょうか」
「甲羅に籠もっちまうからそう簡単でもねぇだろうが……やろうと思えば俺でもなんとか出来る可能性はありそうだから、亜竜よりはマシだろうな。そもそも、こいつはちょっかいかけなきゃ人を襲うことはねぇから、そうするつもりはねぇけど。香木だって取れなくなって困る」
「そうなのですか? あれだけ大きな香木を背負っているのですから……倒してしまって全部取ってしまった方が良さそうですけど。少なくとも一人の細工師が使い切れるほどではなさそうですし……」
「香木亀の香木は、魔甲伽羅と呼ばれるもんなんだが、あの背中の木が香木亀の魔力やら分泌物やらを吸い上げて、樹脂にし、そしてそれを香木亀の魔力で熟成させた上で出来あがるもんなんだ。香木として使えるまでにかかる期間は、数百年とも数千年とも言われていてな……それを、俺一人のために倒しちまって、全部刈り取ってしまったら資源の無駄遣いだろうが」
実際、こんな巨大な香木亀なら数千年生きていてもおかしくない。
そしてそんな香木亀の背中に生えている香木の大きさと言ったら、絶対にゲオルグ一人では使い切ることなど出来ない。
いずれ、他の細工師が香木亀の香木を欲したときに、いや、細工師でなくとも、香料を欲しいと思った者がいたときに、香木亀が絶滅していました、では酷い話だろう。
事実、そのように絶滅してしまって今ではもう手に入らない素材の持ち主というのは沢山いる。
そういうもののひとつに、香木亀を入れるつもりはなかった。
まぁ、それでもどうしても必要ならそうせざるを得ない場合もあるだろうが、この香木亀については、多少の苦労はあるにしても、殺さずにその背中の香木を取ることが出来るのだ。
無理に倒してしまう必要は、ない。
そんな考えを述べたゲオルグに、カティアは優しく笑って、
「……そうですか。ゲオルグらしいですね」
と言ったのだった。
それから、
「ではゲオルグ。これからあの背中に昇るということでいいでしょうか?」
「あぁ。カティアはもしものときのために下で見張っててくれ。まぁ、こいつが暴れ出したら距離を取ってくれていいぞ。俺もさっさと降りて逃げる」
「助ける必要はないと?」
少し不機嫌そうに言ったカティアにゲオルグは苦笑して、
「別にカティアを信じてないとか実力がないとか言ってるわけじゃない。こいつを傷つけて殺してしまうのが嫌なんだよ」
「……そうでしたか。ではゲオルグ。慎重にお願いします」
「もちろんだぜ。じゃ、行ってくる」
そう言ってゲオルグは、香木亀の側面から、できるだけ気配を消して上り始めた。
急げば飛び乗ることも出来るのだが、この亀はこの巨体の割に繊細で、大きな振動を感じるとすぐに湖に戻ってしまうことをゲオルグは知っていた。
以前、急いでいるときにそれをした結果、一緒に湖の底に沈みかけたことが何度かあるのだ。
それ以来、最適な上り方を研究して、結果、側面から甲羅のとっかかり……巨大なフジツボのような貝を足場やとっかかりとしつつ、静かに昇っていくのが一番だと分かった。
こういう木登りとか崖上りは、かつて自らの師匠に何度となくやらされたため、熊のような巨体を持っているくせに、それこそ熊が木登りをするようにすいすいと昇っていけるゲオルグ。
すぐに背中の頂上まで辿り着き、香木部分までやってくることが出来た。
樹木の一部が樹枝に包まれて黒ずんでいて、その部分がゲオルグの目的である香木である。
魔甲伽羅と呼ばれ、売れば数グラムで白金貨何枚にもなるような高価な素材だ。
しかし、決して何十センチも切り取ることはなく、腰から引きだした切れ味の良い短剣で、数センチ分切り取るだけでゲオルグは満足する。
あくまで、今回使用する分と、依頼で納品する分だけをとったのだ。
あまり沢山取ってしまうと、やはり今後の資源という意味でも問題だし、ここに巨大な香木亀がいることに気づかれてしまうかもしれない。
そうさせないために、あえての少量確保だった。
他の二つの依頼はともかく、香木亀の香木採取の依頼の期限はかなり長めにとってあったから、あくまでもギリギリに納めて、確保するのが大変でしたよ、という体でいくつもりでもある。
そうすれば、依頼主も、まさかアインズニールの近所でとれるとは思わずに、どこかの商会などをうまくつかって、交易で手に入れただろう、と考えるはずだ。
他に方法などないのであるから、そう考えるしかない。
そして、香木を確保したゲオルグは、来たときと同様、静かにゆっくりと甲羅を降りていき、そしてカティアの元へと戻った。
驚いたことに、カティアはそこで香木亀の頭を撫でていて、
「……何してるんだ?」
ゲオルグがそう尋ねると、
「なんだか頭を軽く擦り付けてくるもので……なんだか可愛いですね」
そう言った。
ゲオルグは香木亀のカティアの身長よりも巨大な顔を見ながら、
「……まさかお前、女好きだったのか……?」
と尋ねると、香木亀は目をゆっくりと瞑り、それから後ずさって、湖の中へと消えていったのだった。
答えは保留か?
……次に来るときは誰か女と一緒に来ることにするか。
そう思ったゲオルグであった。




