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第八章 名無しの怪物

 沓名の例のアパートにつくと、早速彼女は前のように夢に侵入するための準備をいそいそと始めた。

 そんな姿を手持ち無沙汰に眺めていると、沓名は言った。


「そういえば、操夢の名前は考えた?」


 あ。すっかり忘れていた。というよりも、操夢の命名なんてあまりにも寄る辺がなさすぎて思いつかない。

 それを沓名に伝えると、何故か納得した顔で頷いた。


「ま、それもそうよね。私の時は明確で名づけやすい特徴があったから大丈夫だったけどあなたの操夢はね……」

「特徴?」

「そう。操夢にも人間と同じように個体差という物があるの。まあ、人間のそれより圧倒的に派手な違いがあって、容貌・鳴き声・能力などに大きく差があるというわけ。

 とりあえず、暫定的な名前としてアノニムと呼ぶことにするわ」


「アノニム?」


 聞き慣れない言葉だ。日本語でないことはわかるが。


「フランス語で『名無し』っていう意味なの。私が今まで退治してきた操夢にはとりあえずその単語を名前としておくことにしているの」

「ふーん……アノニムか」


 それは何処と無く気が抜けたような感触がする単語で、RPGに登場する魔法のような、現実離れした物に聞こえる。……まあ、フランス語なわけだから実際にフランスでは当然のように使われているんだろうけれど。


「よし、準備完了」


 見ると、彼女の学習机の上には例のように輪ゴム、ガムテープ、睡眠薬なのだろうカプセルが二粒。そして就寝時に使ったアロマキャンドル。


「今回は操夢、アノニムとの接触は絶対に避けたい。だから、事前にアロマキャンドルの匂いで衰弱させて出て来ないようにする。万が一現れたら即刻退却という流れで」

「わかった」


 首を縦に振った。


「よし。じゃあ始めるわよ」


 そこで沓名の口角が上がる。またこれだよ。

観念して両手を上げる。

 数秒後、またもや僕は芋虫に変わっていた。

 そしてアロマキャンドルに火がつけられる。


「今回はローズの香りよ」


 その甘ったるい香りは最初は嫌悪感を覚えたが、その内ある感情が芽生えてきた。


「これは……」

 

 郷愁。ノスタルジー。どうしてだろう。ひどく懐かしさを感じる。

 何だったろうか……。ああ、そうだ。これは……。

 僕の意識はここで極限まで薄くなった。薬が口に突っ込まれたのだ。

 懐かしい。とても懐かしい。そして、とても苦しい。


※※※


 音。微小な音が、僕の耳をくすぐる。

 小さすぎてそれが何か分からない。だが、少しずつ少しずつ、その音は大きくなってくる。

 五回目辺りで、それは人間の声であると認識できた。何らかの言葉だ。


『ドウシテ、アラガウノ?』


 それはひどくエコーがかかり聞き取りづらかったが、透明感のある、恐らく女性の声だと判別できた。ふと、気づく。

 ここは水の中だ。僕は大の字になって、ぷかぷかと為す術もなく漂っている。

 目線の先には大きな光の塊。あれは太陽だろうか。水越しにもそのぎらぎらした光は歪みながら僕の目を薄めさせる。


『ドウシテ、アラガウノ?』

『ドウシテ、アラガウノ?』

『ドウシテ、アラガウノ?』


 声はどんどん大きくなり、だんだん鼓膜が痛くなってくる。応えを返すまで繰り返すつもりなのだろうか。


「僕は、死にたくないから」

『アナタハシヌワケジャナイ。ワタシトトモニエイエンニイキルノ』


 突然、頭上で破裂音。そう、それは恐らく何か巨大なものが水面を打つ衝撃音だろう。

 眼前に巨大な灰色の塊が飛び込んできた。

 よく見るとそれは格子状の鉄檻であることが分かる。

 隙間から茶色くて鋭い……これは手? 人間の物とはかけ離れて巨大で凶悪さを感じさせるような手が檻の内側からこちらへ来ようともがき暴れているのだ。

 檻の中身はわからない。そこだけ暗黒の闇に包まれていて中が伺えない。


『貴様は……』


 低くて、正に獣のような唸り声が聞こえた。


『貴様は、いつか気付く。その存在が近く、全ての終局と発端のキーとなることを』


 終局と発端のキー……? わけがわからない。


『貴様らにとっての悲劇を受け入れる覚悟があるのならよかろう。精々抗え』


 意味がわからず戸惑っている内に、檻(恐らく中の怪物はアノニムなのだろう)の質感が薄れていく。いや、檻だけじゃない。僕に今見えている世界全体が霞み始めているのだ。

 神の如く君臨する光の塊もやがて輝きを失っていく。

 消えていく、全てが。僕の意識も。

 狭まっていく視界の中で、光は最後に僕に語りかけた。


『ガンバッテネ。イツカ、モドッテオイデ』


※※※


「おはよう」


 再び広がった視界一杯に、彼女――沓名の顔が映し出された。


「あ」

「大丈夫?」


 僕はどうやら気を失っていたのにも関わらず、直立不動だったらしい。背伸びしつつ、至近距離から僕の顔を見上げている。

 彼女の問に答えることができず、呆然としている僕を見て、眉をひそめた。


「もしかして……、いやもしかしなくてもきっと操夢、アノニムの干渉があったのね」


 僕が頷くと、暗い表情になってうつむいてしまった。そして小声で呟く。


「あのキャンドルを使ってでさえ完全には抑えきれないか。末恐ろしいわね。住良木博士の操夢適応進化説もあながち捨てきれるものでもないのかも。あるいは、単に朝登くんの操夢が強力だということなのか……」


 僕にはただ、彼女が何かのモードに入ってしまうのを見守るしかなかった。

 かのアノニムは、僕に何を伝えようとしたのか。どうしても、ただ僕を消し去るための精神攻撃にはどうしてか思うことができなかった。その裏に、何か、ある、と。

 とはいえ、ここは多分僕の夢の中だ。彼女から顔を反らし、今の僕の周りの世界を眺めた。

 まずその場の第一印象、というか見えた物は「線」だった。

 周りには何もない。薄い水色の空と、灰色の地面のみだ。遥か遠くには地平線が臨める。

 そして、その風景を等間隔に区切るように薄緑色で線が縦横に引かれているのである。下を向いて自分の足を比較してみたところ、大体二メートル四方程度であろうか。

 それにしても、今までの夢の世界とは打って変わって無機質な情景だ。水を打ったような静寂が気にならないほどに。


「ここはあなたの夢ではないわ。私の操夢が創りだした夢なのよ」


 呆気に取られているのに気づかれたのだろうか。沓名が後ろからそう説明してくれた。しかし……。


「え? でも確かにさっきアノニムが現れたんだけど……」


 そう言うと沓名はもっともらしく頷く。


「腑に落ちないのも当然ね。……キュイ、おいで」


 キュイ。少し考えて思い出す。ああ、そうだ。前後の文脈は忘れたが確か夢迷病の説明の時にふと沓名が漏らした単語だ。「おいで」ということは……。

 ヒュルルルルルル。

 静寂を切り裂き、どこからともなくそんな甲高い音が聞こえてきた。それは美しい、異国の笛の旋律のようにも聞こえる。

 思わず音源を探して辺りを見回すが、出処がわからない。まるでこの世界全体が振動し、その音を奏でているかのような感じだ。


「ここよ」


 呼ばれて振り向くと沓名の肩に『それ』は止まっていた。

 何とも形容しがたい……いや、現実離れしすぎているとした方が正しいか。

 輪郭だけを見ると『それ』は小さな翼が生えた鳥のように見える。大きさは燕程度であろうか。

 鳥としては別に一般的に僕達がイメージしているそれと対して変わらないだろう。

 しかしその、鳥の形をした『それ』を現実離れしていると感じた理由はひとつ。

『それ』の輪郭が無数にぶれているのだ。決して故意にそうしているようには見えない。

 まるでこの世界から消されようとしているかのよう。風景から切り取られた縁が薄れては現れてを繰り返す。ずっと眼を見ていると軽い目眩を覚えた。


「この子が私の操夢。『キュイ』と名づけたわ。鳴き声から取ったの」

「キュイ……」


 ヒュルルルルルル。

 その音は確かに彼女の操夢――キュイのくちばしから発されている。『キュイ』と聞こえるかは別として。


「対して重要なことじゃないから詳しくはまた今度ということで。簡単に言うと、私とあなたの脳が繋がって一つの夢を形成しているって状況なの。そうすればある程度夢世界は私の操夢によって安定を保つということができるわけ」

「そんなことが」


 一連の事件の中で、次から次へと新情報が出てきてだんだん自分の反応が適当になってきている。まあ仕方ないよな。


「とにかく訓練を始めましょ。付け焼き刃程度だろうけど、やらないよりはマシだから」


 かくして、僕の人生最初で最後であろう修行が始まった。

 しかしそれはよくバトル系の漫画で見るような修行とは遥かに異なるものだった。ここでは詳細は省くが、僕の想像を超える非常に異質なものだったことだけは述べておく。


※※※


 すっかり暗くなった通学路を心持ち早足で進む。

 秋の夜の寒さは、どことなく冬のそれよりも物寂しさを強く感じさせる。街路樹の残り少ない葉が視界の片隅で一枚飛んでいった。

 それにしても、仮にも修行と名のつく行為をさっきまでやってきたはずなのに、肉体・精神共に全く疲れていない。当然だ。あくまで僕らは眠っていただけなのだから。

 最後の沓名の言葉を思い出す。


『思った以上に呑み込みが早いわ。もし助かればすぐに組織にスカウトしたいものね』

『これならアノニムとも戦える』


 しかし沓名は首を振る。


『そう甘いものじゃない。操夢っていうのは。一朝一夕でどうにかなるわけではない。

今日は家に帰っていいわ。またアノニムが現れたらさっき教えた番号に今すぐ掛けて。ハーブがあれば大丈夫だとは思うけど、さっきの例もあるし』

 

 冷静に返され何の言葉も出ない。

 それはともかく、彼女の許可が出て、僕は久しぶりの我が家への道を行く途中というわけだ。

 勝手に家を空けてしまっていたけれど別に問題はないだろう。父は僕に嫌というほど無関心だ。妹は修学旅行で何も知らない。ああ、今日帰ってきているはずか。

 家の前に辿り着き、僕は玄関を見つめた。

 そう。沓名はただ何もなく僕を家に帰らせたわけではない。

〈闇〉の解明。そして、その解決。僕がアノニムの手から逃れるためにできる唯一のことだ。

 期限は三日間。それまでに必ず見つけてやる。

 でなければ全てが無駄となってしまうのだ。

 僕は大きく深呼吸をし、チャイムを押した。

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