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第五章 撤退

 慌てて身を起こすと、夢に入るまで僕が座っていたキャスター付きの椅子に沓名は腰掛けていた。

 無事帰ってこれたんだ……。安堵感に僕は思わず頬を緩ませた。

 そんな僕を見て、沓名は例の冷笑ではなく優しく微笑んでくれた。


「ありがとう。私が助けられる番になるなんて」

「よかった……。もう俺無我夢中で。よくわからなくなってた」

「夢の中ではそれが一番いいこともあるのよ。覚えてないのね。あの時のこと」

 

 沓名はゆっくり語ってくれた。

 あの時、僕は間一髪でレーザー発射に間に合い沓名を助け出すことができたようだ。

 沓名はそれで敗北を悟り、自分の操夢の力で僕を連れて夢を脱出したらしい。


「私はあなたの操夢に完全に負けた。情けない。力を見極められなかった私のミスだわ」


 スカートの裾を強く掴む。

 僕はその悲しげな彼女を見て決意した。


「次は俺が一人で戦う。結局、これは俺だけの問題なんだ。さっきまでは任せっきりにしちまってたけど」

 

 どうせこのままオタオタしていても、そのまま操夢に食われてしまうだけだ。なら、当たって砕けろ、だ。

 しかし沓名は首を横に振る。


「それはダメ。百パーセント負ける戦いをまたするなんて愚かすぎる」

「なんで百パーセント負けるんだよ。夢では想像が大事なんだろ? 奴に勝つ想像をすれば……」


 僕は思わず不平を言ってしまう。


「夢は操夢のホームグラウンドなの。想像は、操夢に干渉できない。自らを少しだけ強くすることができるくらい」


 彼女のその(もっと)もなのであろう言葉を聞いて僕は詰まってしまう。

 沓名の声はいつも冷静で、昨日今日で踏み入れた幻想染みた世界の説明にも不思議な説得力を発揮させる。


「心配しないで。こうなったら長期戦に移行するしかない。勝つ手はまだ残ってる。それを説明する前に……悪いけどそこ」

「え? あ!」


 僕は慌てて飛び退いた。

 そう、今まで僕が寝ていた場所は、彼女が「命の次に大事なもの」とまで言っていたベッドだったのである。


「ごめん。えーと……」

「気にしないで。私がそこに寝かせたのだから。まあ、朝登くんも疲れたでしょう。説明は明日にして、今日はもう休みましょう。悪いけど、ちょっと外に出ててくれる」

 

 僕は言われるままにギシギシなる床を歩いて外に出た。

 正面の錆びきってしまった柵から、面している道路側を見る。

 空は闇色に染まっている。

 もうこんな時間なのか、と僕は意外に思った。

 彼女との対話、操夢との決戦(沓名が)、このアパートでの出来事は、すさまじい程の密度で、あっという間に過ぎ去っていったように感じた。

 疲れた。身体ではなく心が。

 沓名の話によると、これから長期戦になるらしい。耐え切れるのだろうか。情けないが、自信がない。


「朝登君、もういいよ」

 

 部屋に戻ると、ある意味信じられない光景が僕を待っていた。

 沓名はパジャマ姿になっていたのだった。

 青色に黄色チェックの上下。胸は少し開き、薄い肌色が見える。

 制服の時には分からなかった、身体のラインがうっすらとだが浮かんでいる。


「あ、あわわわ! なんだよその姿」


 女子のパジャマ姿なんて、妹以外では初めて見る。

 沓名は、いつもどおり鋭く険しい目つきをしていて、いかにも女の子っぽいその服装が全く似合わない。


「なにって、もう寝るのよ。畳に布団も引いたからあなたも」

「お、俺も?」

「一日ぐらい無断外泊したって構わないでしょう? 私が側にいなきゃ。いつ操夢に狙われるかわからないもの」


(確かにその通りだけど……。いいの? 女子の一人暮らしだろ? 危機感ないのか? みたいな言葉が脳内を駆けるものの、それをはっきり声にするのが恥ずかしくて、口内でモゴモゴするしかできなかった。


「それともう一つ。特別にこれ、使ってあげる」


 さっきまで気付かなかったが、彼女の手には何やら背の低い筒のようなものが握られていた。

 蓋なのであろう、上部分をくるくると回す。

そして中身を取り出す。乳白色で四角い物体だ。これは……。


「ローソク?」

「惜しい。これはアロマキャンドルなの。蝋が特別に調合された物質でできてる。その物質に火をつけて出てくる煙の匂いは、操夢を弱らせる働きがあるの。このキャンドルは十時間ぐらい持つから寝ている間に浸食される恐れはなくなるわ」

「ほえー」


 僕は関心して彼女の手の中のそれを見つめた。

 火をつけると、ぼうっと本当に小さな灯りがついた。普通のロウソクと比べても、遥かに頼りないように見える。確かに部屋をほのかな香りが包みはしたが。


「なんか……しょぼいな」

「普通とは違う原料を使ってるからね。それだけの炎にも、かなりの試行錯誤が必要だったらしいわよ」


 沓名は立ち上がり、電気を消す。


「そんなわけで私はもう寝るわ」

 

 携帯電話を取り出して時間を見ると、午後九時となっていた。おいおい、小学生じゃないんだから。

 思わず不平を漏らそうとしたが、正に電光石火か。彼女は例の巨大なベッドの上ですーすーと寝息を立てていた。

 ……。そうだよな、命の恩人に対してこんな下らない文句つけようとした僕が馬鹿だ。

 そうはいっても普段早くても十二時頃に寝るのが習慣になっている僕には、流石にこの時間に寝るのは苦痛だ。そうでなくとも、さっきまで強制的に睡眠薬で眠り込んでいたのだ。気疲れはしたが眠れる気はしない。

 何もすることはなく、また不要に部屋の中を見るのも何となく憚られ、仕方なくアロマキャンドルのほのかに揺れる炎を見つめる。

 今にも消えてしまいそうな、それが、少しでも長く続くことを願いながら。

 どれくらい時間が経ったろうか。少しずつ緩やかに眠気が僕の頭を覆い始めた頃、


「あ!」

 

 僕は恐ろしい現実の事実を思い出した。


「学校、無断欠席じゃんか……!」

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