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第二章 救いの手

 そして、僕は目が覚めた……。目が覚めた!?

 サッカーは? 学校は?

 僕は、僕の、家のベッドで横になっていた。

 さっきまでの現実が、急激に現実感を失っていく。この感覚は……間違いない。

 全て、夢だったのだ。

 僕は起き上がり、溜め息をついた。今になってみると、確かに変なところが沢山あった。信じられない程アクティブな夢遊病や、運動音痴の僕がサッカーの授業でプロ顔負けのプレイをするなど。

 

 長い夢を見た後特有の脱力感を抱えながら、なんとなくスマホに手を伸ばした。

「十一月十八日(水)七時三十八分」

 水曜日? ……どことない違和感。僕は昨日のことを思い出そうとした。

 それはとても簡単なことのはずなのに、まるで底なし沼に手を突っ込み、中に落としたビー玉を探す。そんな険しい作業に思えた。どうしてだ?

 ふと、記憶の奥底から誰かの声が湧きあがる。

『今日は火曜日。一限目は数学』

 それは夢の中の出来事のはず……。僕は床に無造作に落ちていた通学鞄を開き、数学のノートを取り出した。

 あり得ない。あり得ない。そんなことあるはずない。

 僕はそう自分に言い聞かせながら、震える手でページを捲る。しかし、記憶は正直にそ確かにそこに、それが、あることを叫んでいた。

 そして案の定見つかった。

『何ページ?』

 夢で隣の女子に聞くために書いた殴り書き。それが今ここにある。つまり……。

「あれは現実だった」

 思わず声に出して呟いてしまう。それは僕の中で何回も反芻され否が応でも受け止めさせられた。

 ならば、いつ僕は眠りに就いたんだ? 体育も現実か? いや、流石にあんな時に眠ることができるはずもない。

 

 ! また記憶の底なし沼から拾い上がった。

 数学の時間に当てられてから、授業が終わるまでの時間の記憶がなかった。『なかったこと』を、思い出した。

 ウトウトしてただけだと思い込んでいたが、もしかしたらあれが現実から夢への転換の瞬間だったのではないか。

 つまり、隣の女子が代わりに問題を答えてくれるまで僕は起きていて、その後あまりの授業の退屈さに思わず寝てしまった。それ以降、昴に次の授業を聞きに行った時からは全て夢。現実の続きをそっくりそのまま夢で見ていたということではないか。

 

 到底信じられないし、今までそんなことがあったはずもない。しかし、それ以外にこの不思議な現象を説明することはできないのだ。

 更に言うと不覚に眠りに落ちた僕は、夢遊病として、現実世界でどういった経緯があったかは分からないが普段それに罹ったときと同じように、半ば本能的に自分のベッドまで戻り、朝の目覚めを待っていたということになる。

 

 そんな馬鹿な……。

 頭の中が混乱している。僕は一体どうなってしまったのだろう。何かの病気に罹ってしまったのだろうか。

 

 よろよろと階段を下りて、一階の洗面所に向かう。

 父はいつものように早朝に家を出て、中三の妹は……昨日……でいいんだよな? 昨日の朝から京都に修学旅行へと行っている。

 そういえば見送りできなかったなあ。あ、無意識の僕が代わりにしてくれたのだろうか。

 家には僕一人である。今の心理状況で誰かとまともに話せる自信がなかったので、正直助かった。まあ元々父とはここ数年ろくに口を利いていないのだが。

 

 電気をつけないままの薄暗い洗面所で、鏡に映る僕は蒼白く、眼の光は消え、真昼が撮影した「無意識の僕」にそっくりだった。

 このまま、「僕」と「無意識の僕」はそっくりそのまま入れ替わり、やがて「僕」は消え失せてしまうのではないか。

 いや、それ以前の問題があった。僕は恐ろしい仮定を思いついてしまった。

 そもそも今の僕が夢を見ていないという証拠なんて何処にある? 最早僕にはそれを見極められることなどできないことは明白だ。

 

 ……。考えるだけ時間の無駄だろう。今が現実だと信じることしかできない。

 

 何となく着替え、何となく朝食を食べて、何となく歯を磨き、何となく授業の用意をし、何となく家を出た。

 人混みに紛れて、学校への道を行く。周りを囲むこの人達は、本当に自分の意志を持ちながら歩き、学校や会社に向かっているのだろうか。……。駄目だ。現実逃避のためだろうか。答えの出ない哲学的なことばかり考えてしまう。

 ふと気づく。僕はどこへ向かっているんだ?

 いつの間にか学校への道を外れ、足は勝手にあらぬ方向へと進んでいく。

 これは夢だ。流石に僕も気づいた。どこで流転したのか。もしかしたら昨日からずっと……?

 そして風景が変わっていく。行く道が無数に枝分かれしていく。人々は消え失せてしまい、空や、地面、町並みが白く染まり、それぞれの境目はなくなった。

 僕は何を根拠にしているのか、分かれ道を右に左に、不規則に選んで進んでいく。

 もう精魂尽き果てた。多分抵抗などできないのだろう。どうなってもいい。好きにしてくれ。

 しかしそんな気分とは裏腹に、僕の足は突如固定されたかのようにピタリと歩みを止めた。

 眼前にはやはり分かれ道。ただし右と左の二本のみ。先の風景はどちらも変わらず白色の世界。

 だが明らかな違いが一つ。どちらの道も、行く先に壁、天井、地面がなくなっているのだ。

 ここで道は終わるのだろう。そして、最後の選択を僕の意識に委ねた。これは一体誰の意志によるものか。

 違いがない二本の道。選ぶ根拠など何もない。結局どちらとも同じ世界に続いているのかもしれない。

 とはいっても、当てずっぽうに決める気にもならず、考え込んだ。

 これが最後の僕の意識かもしれない。慎重に考え、そして解答を選択した。

 僕の足は進みだす。そしてその瞬間理解した。消えるのだ。やはり予感が当たっていたのだ。本当に。

 広場と道の境目に到達する。こう見ると、くだらない一生だった。心残りなど何もない。多分。

 そして僕は消え――。

 

 額に冷たい感触。

 

 ……!

 その瞬間、世界は変貌した。

 

 白き世界の光景は、紙のように薄くなって形が崩れ、掃除機のコードをしまう時の如く、勢い良く、いつの間にか真上に出現していた黒い点に向かって吸い上げられ消えてしまった。

 そして一面暗黒の世界へと化す。額の感触はまだ続いている。その地点を手で触れてはみたが、何ら異物は認められない。

 空にまたもや点が現れた。最初は極小な点。そこから細い一筋の光が差し込み、そしてじわじわと広がっていく。

 世界が照らされ再構築されていく。光は止めどなく強まっていき、僕は思わず目を閉じた……。


※※※


 気が付くと、僕は夢を認識する前の人混みの中に立っていた。

 額には、僕のものではない手が触れていた。僕はその手の主を見る。

 それは、隣の席、ページを教えてくれた、運動のできない、彼女だった。

「泣いてるの」

 無表情で彼女は尋ねる。

「泣いてないよ」

 僕が首を横に降った時、いつの間にか顔についていた液体が横に流れた。

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