第一章 夢遊病
「夢遊病?」
僕は通っている波勢高校に到着するやいなや、自分の机に鞄を放り出し、既に教室にいた幼馴染の前野昴に話を切り出した。
「そうなんだよ。二階の自分の部屋で確かに寝たはずなのに、気が付くと一階のリビングのソファーの上で寝転がっていたことなんて日常茶飯事さ」
僕はあたかも困ったように首をすくめる素振りを見せながらも、実は少し得意気だった。
他人とは違う、特別な何かを持っているような気がするのだ。
「それって眠りながら、部屋の扉を開けて、階段を降りていったってことだろ? 転がり落ちたりしないのか」
昴が興味深そうに尋ねる。
「それが俺にも疑問なんだ。ちょっと調べたけど、夢遊病者は皆ちゃんと障害物は避けたりしてるらしいし。どういうメカニズムなんだろうな。でも……これは俺の個人的意見なんだけど、夢遊病が起こった時は夢の中でも体を動かしたりしてることが多いんだ。もしかしたらそれが関係してるのかも」
ほーと関心したように、昴は腕を組んで頷いた。
「そういやお前って昔からよく夢見るって言ってたよな」
「うん。ほとんど毎日。俺からしたら見ない人のほうがおかしく思えるけど」
「内容は覚えてるのか」
「起きた直後はね。まあほとんどの夢は一時間もすればすっぽり記憶から消えちまうけど」
僕は夢を見るのが大好きだった。夢ならば何でも見られる。味わえる。楽しめるのだ。何も起こらない現実なんて、つまらないばかりだ。
「ふーん。で、そういやさっき言いかけた話って……」
いよいよ本題に入ろう、としたところであいにく時間切れ。授業の開始を告げるチャイムが鳴った。
それとほぼ同時にドアが開き、教師が入ってくる。
今日は火曜日。一限は数学だ。
僕は、慌てて昴の机を離れ自分の席についた。
これで彼への相談は打ち切りだろう、と僕は直感した。昔から昴はよっぽど自分の興味に合う話題でないと、少し時間が空くだけですぐに忘れ去ってしまうのだ。
過去にも、何の話題だったろうか、僕が自分の身に起こった出来事を面白可笑しく話していた時があった。
彼も腹を抱えて笑っていたのだが、少し他の友だちに宿題を見せるよう頼まれ僕は少し席を外した。急いで戻ってきて、僕は同じテンションで話を続けようとした所、彼はケロッとした顔で、
「何の話だっけ」
と切り返してきたのである。
僕はその出来事がトラウマになり、今回の話題はもう打ち止めにすることに決めた。
僕が話そうとしたのは、当然今日の朝の奇妙な体験についてである。
昨晩、確かに僕はベッドに潜って明かりを消した。しかし気が付くと奇妙な世界を歩いていた(多分これは夢だろう)。やがて何故か前に進むことができなくなり、辺りに奇妙で強烈な色彩が溢れ出た。
そして、眩い光が現れ謎の声が聞こえてきた。
『ゴメンネ。クルシイオモイヲサセテ』
『ナイテルノ』
『ナイテルノネ』
さっぱり意味がわからない。
その内光は消え、目が覚めるといつの間にか制服に着替えて、いつもの道で信号待ちをしていたというわけだ。
夢の中身も、今まで見たことがないような幻想的で何か含蓄あるようなもので、気にはなるのだが、そんなのはただ「夢だからそんなもの」で片付けられることだろう。深層心理がどうだ、とか疲れが溜まっているからそんなものを見るのだ、とか。
僕が一番心に残り、心配しているのは悪化の兆しを見せつつある夢遊病の事である。なので、昴にもそこから話を始めたのだ。元々、半年に一度程のペースで夢遊病は発症し、しばらく家中を動きまわった後、また自分の部屋に戻ってベッドに入り、大人しくなるということがよく起こっていたらしい。
もちろん、自分ではそんなこと知る由もない。妹の真昼(時間じゃなくて妹の名前だ)に、
『兄ちゃん、夜中変な呪文みたいなの唱えながらふらふら歩いてるけどどうしたの。黒魔術にでも目覚めた?』
と訊ねられて初めて気づいたのだ。
そうはいっても、最初は信じられずに、お前こそ夢でも見てたんじゃないか、と突っぱねた。
無下にされて悔しく思ったのだろう。数カ月後、真昼はわざわざ僕が夢遊病で歩きまわるのを携帯のビデオ機能で撮影し、翌朝僕にしたり顔で突き出してきたのである。
その画面に映っている僕は、言葉になっていない呪文をブツブツ唱えながら、ホラー映画のゾンビのように腕を前にだらりと垂らしていた。そして軽い前傾姿勢で、よろよろと今にも倒れそうな情けない足取りで家中を徘徊しているのだ。
魂が抜けてしまったような自分の言動に僕はぞっとしたが妹の手前、無理やり作り笑いをし、負けを認めとっとと話を流した。
得も言われぬ恐怖。嫌悪感。僕は、その時味わった感情の理由を言葉で説明することは今もできない。
今までは家の中だけだった。しかし今日は――。
「はい、じゃあ問三を日野」
突然名前を呼ばれ、僕は脳内思考から瞬時に立ち戻り、反射的に前を見、そして教科書を見た。
当然ながら、最初に開いたページより授業は先に進んでおり、今どこをやっているのか見つけられない。
僕は焦りに(多分)顔を赤くしながら、形だけ開いていたノートに『何ページ?』と走り書きをし、あくまで顔は教科書の方に向けながら、そっと左隣の女子に見せた。
彼女は小さく教科書をこちらに傾けてくれた。五十九ページ。
慌ててページを捲り、問題に目を通す。
数学が苦手というわけではない。しかし、その問題が新しい範囲であることに加えて、どうやら応用問題のようだ。全く手を付けることができなかった。
「すみません、わからないです」
僕は消え入りそうになりながら言った。
教師は小さく溜息をつき、さっき僕がページを尋ねた隣の女子を代わりに当てた。
彼女は何も言わずに立ち上がり、体言止めで答え、先生の促しを待たずに席についた。
その時だった。
座ろうと顔が下降していく最中。彼女の眼がつうと流れるように僕の方を向いたような気がしたのだ。
思わず彼女のほうを見る。しかし、いつものように教科書をじっと眺める姿が眼に入っただけだった。きっと僕を馬鹿にしたのだろう。まあ、しょうがないな。
その後は何も考える気にもならず、先生に見とがめられないように板書を適当にノートに写しながら過ごした。
だが、少し眠っていてしまっていたのかもしれない。ふと気が付くと授業は終わっていたらしく、教室全体が楽しげなざわつきを見せていた。
数学の教科書などをしまい、次の科目の準備をしようとする。次は……何だっけ。
また隣の彼女に聞くのはなんとなく憚られ、僕はまた昴の机に向かった。ちなみに、僕の席は教室の窓際の後ろから二番目であり、左側には席は存在しない。
昴は僕を、ニヤニヤした顔で迎えた。
「珍しいな。優等生君のおまえが」
彼は自分が勉強が苦手なのをただやっていないからだけだと思っており、自分より勉強が出来る人を全員真面目な優等生だと決めつけている。
「ちょっと考え事してた。ついてないや」
僕は苦笑しながらそれを受ける。夢の話はするのはやめた。理由は先に述べたとおりだ。
「次の授業って何だっけ」
「体育。サッカーだぜ」
あれ? 少し違和感を覚えた。
僕はあまり体育が好きではない。身体を動かすのが苦手なのだ。なのでいつも次の体育の曜日と時限は把握してしまっていて、憂鬱を感じることが日課となっていた。
今日は火曜日。確かに体育はない曜日だったはずだが……。
それよりも僕は焦った。体育には体操服が必須である。朝、鞄に入れた思い出がない。
机に掛けてあるサブバッグを覗くと……良かった。ちゃんと体操服は入っていた。
そういえば例の夢を見ていたから、学校の用意を覚えていないのは当然だった。
「僕」がカオスな幻想に惑わされている間、「無意識の僕」はご丁寧にタンスから体操服を取り出し、サブバッグに入れておいてくれたのだろう。
と、そこでふと気がついた。
「意識がある僕」と「無意識の僕」そこに一体なんの違いがあるんだ?
おそらくだが夢遊病に罹っている時の「僕」は、以前妹が見せてくれた動画の中の「無意識の僕」より明らかに「普段の僕」に近づいてきているのだろう。
そしてもしこのまま症状が悪化したとすると……。
僕はこの思考が恐ろしい結末を迎えてしまうような気がして、頭を振って中断した。
それよりも体育だ。早く用意をしなければ。
僕は慌てて制服のボタンを外し、着替え始める。
隣の彼女は既にいなくなっていた。それはそうだ。男子は教室、女子は体育館にある更衣室で着替えることになっているのだから。
そういえば、彼女はとても運動が苦手だった気がする。
学期の初めに行われた男女合同のスポーツテストで五十メートル走の測定の際、彼女はよたよたと手足がバラバラで奇妙なダンスのような走り方を披露した後、何かにつまずいたように豪快にこけたのである。
その時の彼女の素っ頓狂な叫び声に周りの生徒は尽く彼女を見、男子は皆豪快に笑いこけたものだった。僕は、同じ運動が苦手な者として同情心を感じて笑えなかったが。
彼女が目立ったのはそれで最初で最後だろう。授業の発表以外、ほとんど彼女は声を発さないのだ。
……さっきから、僕は何故彼女のことばかり考えているのだろう。隣の席になってから結構時間は経つのに。
「朝登ー。早く行くぞー」
昴の声に応じ、おう、と返し慌てて駆け出す。遅刻しそうな時ぐらい、廊下を走るのは見逃してくれ。
サッカー。授業とは名ばかりで、先生も混じって試合ばっかりやっている。
授業なんだから、ちゃんとサッカーの練習をさせてくれよ。といつも思う。本当にそうなっても、それはそれで困ることになるだろうけど。
僕は普段、出しゃばるのを避け、フィールドの後ろ側(ディフェンス?)に居て、ボールが来ないのを祈り続けている。ボールが来たら、恐ろしい形相で向かってくる相手とぶつかる前に、適当に思いっきり前に蹴りだすだけだ。ボールの向かう先に味方が居ようと敵が居ようと、その後は僕が関する領分ではない。
こっちに来るな、来るな、と祈り続けていたが、当然ながらそんなことはあり得なかった。
ボールがこちらに飛んできて、いつものとおりにダイレクトで蹴り飛ばそうとしたその時。
突如、僕の脳内にイメージが降ってきたのである。このようにすれば、僕を舐めきっている相手の突進を躱し、すいすいと前にボールを運んでいけるのではないか、というイメージが。
果たして、それは成った。
未来予知。というほどでもないが、少なくともいつもは思うように動かない僕の身体が、この時はまるで別人かのようにスムーズに言うことを聞き、イメージ通りに相手を抜き、前線にボールを運ぶことができたのである。
僕の運動神経の無さをよくわかっている昴も、相手チーム側から目を丸くしてこちらを見つめていた。正直気持ちが良かった。
思いもかけないプレイに、チームメイトは面白がったのだろう。僕を一番前のポジション(フォワード?)につくように促した。
それを僕は自信満々で受けた。なぜか失敗する気がしなかった。
ゲームは相手チームのキーパーのキックから再開された。それをこちらのチームの真ん中辺りの男子が受け(ミッドフィルダー?)、早速僕によこした。
後ろを向いてボールを受け取り、くるりと百八十度回転し、ゴールへと駆けた。
当然、僕はサッカーについてほとんど知識も経験もない。プロのプレイもワールドカップの時にテレビでちらりと見たことがあるくらいだ。
僕の脳内のイメージは、確かにそのワールドカップで見た選手のフォームのそれだった。そして実際にそのように身体も動いている。いや、それ以上である気さえする。
何だこれは。
僕にはこのような才能が眠っていたのか。
たまに見る、アクションゲームの凄腕がプレイしている動画のように、僕の足は、ボールは、容赦なく突き出してくる敵の身体や足を間一髪のところでかわしていくのだ。
そして最後の一人(こいつはサッカー部のキャプテンだったはず)も軽々と抜き、ゴールキーパーと一対一となる。
この時僕の脳内には二つの選択肢が見えていた。
一つは普通にそのまま隙を狙ってシュートする。
もう一つはドリブルを続け、キーパーが飛び込んでくるのも避け、そのままゴールへ駆け込む。
今の自分なら、どちらを選択しても問題ないだろう。僕は瞬時に前者を取り、大げさなほどに足を振り上げた。
運動ができるってこんなに気持ちのよいことだったのか。ボールがネットに飛び込んだ瞬間の爽快感を想像しながら足を振り下ろした。
ジリリリリリリリリ。
そして、僕は目が覚めた……。目が覚めた!?




