第十六章 『僕』の消えた世界
霧。ここはどこだろう。辺りを見渡すが、あまりに濃い霧のために何が何なのかさっぱり分からない。かろうじてうっすらと向こう側が透けるぐらいだ。
しかしそこには暗黒。白と黒の重たい彩り。ほんのりとする柑橘の香りだけが僕を元気づけてくれる。
そうか。僕は悟る。ここは夢の世界。くだらない、幻想にすぎない世界だ。惑わされるな、アノニムの術だ。
しかしてその鬱々とした世界は、僕を正気でない状態へと誘おうとしている。抗えないほどに強い引力のようなものを感じる。
「え?」
辺りをキョロキョロと見渡し視界が回転する中、一瞬何かの影が見えたような気がしたのだ。
その部分に目を凝らすと確かに、何か、が見えた。
最初は霧に遮られ殆ど見えなかったのが徐々にくっきりと見え始めてきた。こちらに近づいて来ているようだ。輪郭がどんどん大きくなっている。
間違いない。人だ。人型の影だ。僕の直前で立ち止まり口のあたりが動く。
「やっと、私のところに戻ってきてくれたのね」
僕と影との間の霧が薄れ、その姿が現れる。
母さんだ。事故に遭った時と同じ格好だ。柔らかい微笑を湛えながら僕を見つめている。
僕が何も言えないでいると母さんは言葉を続ける。
「私は死んでからずっとここに居た。暗くて暗くて何も見えない世界でずっと一人。辛かった」
「これは夢だ。……間違いなく夢なんだろ?アノニムが創りだした」
「夢」と言った瞬間、微笑みは消え俯いてしまう。
「……そう。あなたからすればこれは所詮夢。朝になれば儚く忘れ去ってしまうもの。けれど私にとってはあなたの、朝登の夢が全てなの……でも、よかった。朝登があの事故のことを思い出してくれたおかげでこうやってまた会えたんだもの」
「母さん。本当に母さん? ……いや違う。夢だ! 本物じゃない」
「どうして? どうしてそんな悲しいことを言うの? 確かに現実世界の私は死んだ。だけどこの私は、あなたの中の記憶として確かに存在している。現実と夢、一体何が違うというの?」
「そう……なのか?」
母さんはまた微笑んでこくりと頷いた。彼女の全てが僕に郷愁の想いを抱かせる。
「あなたがまだ現実に生きたいのならそれでいい。でも一つだけお願い。今だけでいいから、少しお話させて? 〈闇〉とかいうのにずっと囚われてきたからこの十年のこと、聞きたいな」
迷った。いや、本心では言葉を聞いた瞬間決めていた。
僕も、母さんと話がしたい。
「わかった」
「ありがとう、朝登」
その瞬間風景が一転し、僕達家族の自宅のリビングに移る。突然の変貌に呆気に取られている内に、いつの間にか目の前から消えていた母さんが、台所から現れる。
エプロンをつけ、両手には湯気を立てているマグカップ。僕にはその中身がすぐわかる。
「ホットココア。好きだったでしょ」
机に置いた時のコトリという音。真昼や僕がそうする時とは違う強さ、大きさ。それさえもあの頃の母さんを想起させる。
「どうしたの? お座り」
「あ、ああ」
母さんの向かい側に腰を下ろしココアを一口。三人になってしまってからはココアなんて飲まなくなったな。真昼も父さんもコーヒー派だ。
「どう?」
「うん、おいしいよ。めちゃくちゃ懐かしい」
「それなら良かった」
一方母さんはココアに手を付けず僕の方をじっと見つめている。笑みは消えて、深刻そうな表情をしている。
「どうしたの? 話、しようよ」
「うん……朝登」
「何?」
「ごめんね」
「え?」
「ごめんね、苦しい思いをさせて」
「いったい――」
口を開きかけたその時だった。
何かが勢い良く割れる音。反射的にそちらを向く。
「うわあ!」
その正体を推し量る暇もないまま、何かが飛んできて僕の胸に激突し、そのまま身体が宙に持ち上げられていた。
「ううう……」
苦しい。首から胸にかけて強い圧力が掛けられている。それは黒い巨大な手だ。ギトギトと脂ぎっておりグロテスクだ。その手の根本に目をむけると……。
腕ではなくて太い鞭? いや、これは違う!
アノニムの触手だ! 最初の戦いの際、奴の本体から無限に生えていた触手。間違いない、その内の一本だ!
更に辿るとその触手はテレビの画面を突き破って伸びている。つまり、この奥に……。
「未だに抗う愚かなる我が宿主よ。貴様等は少し我を侮っていたようだな」
轟音と共にテレビをぶち破りアノニムが飛び込んできた。例の獣ではなく暗黒に包まれた人型の姿をしている。浮かびあった二つの瞳で僕を見据えて立つ。
「アノニム……! キャンドルは」
「キャンドル? ああ、あの忌まわしき檻か。あんなもの、克服することなど造作も無い」
この数日間で免疫をつけたということなのか? 沓名はそんなこと、一言も言っていなかったぞ。彼女の想像をも絶していたということなのか?
絶望的な状況だった。僕一人で戦うにしても身動きの出来ないこの状況では如何ともし難い。
「お、俺をどうする気だよ」
「一つ、貴様に面白いものを見せてやろう」
テレビからもう一本触手が伸びてきた。
その瞬間だった。
どうしてだろうか、夢の中なのに急に眠気が襲ってきた……。何だってこの時に!
甘く、重たい睡魔に僕は抗うことができず、眼を閉じた。
いつの間にか、母さんは消えてしまっていた。
※※※
(……。……。)
朝登が眼を覚ますと、寝る前と同じように沓名が目の前の椅子に座っていた。
「ようやく起きたわね。もう十時よ」
青白い顔は先日、学校でのそれと同じで、夜通し寝ずに朝登を監視していたのだろう。
(……?)
朝登は背伸びをし、
「平日にこんな時間まで寝てられるなんてラッキーだなあ」
と幾分のんびりした声で言う。その言葉に沓名は若干眉をひそめた。
「それより、大丈夫?」
「ん? 何が」
「何がじゃないわよ。アノニム。現れなかった?」
「ああ、大丈夫。何も見なかったよ」
「……。そう、それなら良かった。朝食は組織権限で遅らせてもらってる。ちょっと待ってね。今持ってくるように言うから」
と、枕元に手を伸ばし、ナースコールを押した。
「え?」
朝登はそれを見て少し焦った。今まで入院などしたことはなかったが、何となくの知識で非常事態の時にしかそれを押してはいけないと思っていたからだ。
(こ、れ、は……?)
「大丈夫。事前に話は通ってる。あなたは組織のおかげで個別対応のVIP待遇なのよ」
「VIP……ますます組織って何者なんだよ」
呆れたように溜め息をつく。
(これは、『貴様』の消えた世界だ)
(僕の消えた世界……?)
「まあ、おいおいあなたも知ることになるわ。アノニムに勝てたら……ね」
「うーす! 兄ちゃん元気ー? 見舞いに来たよー」
突然勢いよくドアが開かれ、真昼が入ってきた。朝登と沓名の背中が同時に跳ねる。更に真昼の後ろから一人の男が入ってきて、沓名の顔は逆に真っ赤になった。
昴である。
「おう。病気って聞いたけど大丈夫か朝登。って沓名さん!?」
「す、昴どうして……」
「昨日、電話が掛かってきたんだ。兄ちゃんのことを心配してるって。だから教えたんだよ」
「朝登、最近何か変だったからな。親友の俺としては黙ってられなかったわけよ。てか、沓名さんがここにいることについて詳しく!」
「……死にたい」
最後のか細いつぶやきは無論沓名である。
にわかに病室は賑やかとなり、沓名以外の三人はどうでもいいような、しかしかけがえのない時間をしばらく過ごした。
(あそこで会話しているのは俺だろ? ……じゃあ、この『俺』は何なんだ?)
(『貴様』は我の檻の中だ。あそこに居る日野朝登は我が操作する傀儡となり、もはや『貴様』ではないのだ)
数分の後ノックがして看護師が入ってきた。寝たままでも食べられるように、わざわざサイドテーブルを広げ、その上に病院食を置いた。
「こんなの用意して貰わなくても普通にベッドから下りて食べるのに」
唇を尖らせて不平を言う朝登に、
「駄目だよ、兄ちゃんは患者さんなんだから」
「そうそ、何なら食べさせてやろうか?」
真昼と昴が口を揃えて嗜める。
(これが現実だ。下らない現実だ。誰も『貴様』が消えたことに気づかない)
(……。一体こんなことをして何がしたいんだ)
(冥土の土産……とでも言おうか。我はこのまま『貴様』を消し、そしてそこの女を殺し、組織を破滅させる。)
(どうしてそんなこと)
(やらねばならぬからだ。それが我の望み)
(望み……)
「悪いけれど皆外へ出てくれる?」
沓名は突然そう切り出した。口調がいつもの冷たいものに変わっている。
「えー? 何でですか? せっかく食べさせたげようと思ったのにー」
「少し話がしたいの。悪いけど今すぐに」
彼女の一転し凛とした空気に気圧されたのか、普段なら何とでも言って抵抗していたであろう二人は、すごすごと退却していった。
「一体話って何だよ? 朝食食ってからでも……」
(そろそろ良いだろう。終わりの――)
「あなた、『朝登』君じゃないわね」
「え?」
刹那。沓名は鞄に手を突っ込み、そのままベッドへと飛び込んだ。服に引っ掛かったのだろう、朝食がぶち撒かれる。
ぽかんと開かれたままの朝登の口に、無理矢理手を突っ込む。
(これは! ……、……、…………。)




