第十四章 開かれる匣
アノニムは、現れなかった。
真昼の夢内は、訓練の為に訪れた沓名のものとほとんど同じだった。つまり、白い世界に緑色で細く縦横に正方形に区切られているというものだ。
そのことを聞くと、沓名は眉を潜めた。
「前もってキュイに夢を書き換えておいてもらったの。彼女の夢は、何となく……私と合わない気がしたから」
やはり沓名は真昼を苦手としているようだ。どう見ても正反対の性格をしているからな。仕方ないか。
「で、どうする気なんだ」
「そうね。その前に、キュイ!」
ヒュルルルルルルル。
例の美しき笛の旋律がどこからともなく聞こえると共に、沓名の肩に鳥、一般的に鳥と見られる形をした操夢、キュイが止まっていた。
沓名とキュイはそのまま微動だにしない。これは訓練中にもよく見られた光景だ。服従状態になった操夢とその宿主の間ではテレパシーの類のようなものを使い意思疎通をとることができるらしい。
やがてキュイは肩から離れ、どこかへと飛んでゆき、そして消えた。
「今、私はキュイに命令をした。『日野真昼の操夢に干渉し、彼女が五歳の頃に遭った交通事故の一部始終の記憶、またその日の近くで兄である日野朝登に何か普通と違う、印象に残るような出来事があればその記憶。その二つを私達に見せるように要求せよ』という命令をね」
「そ、そんなことができるのか?」
「できる。操夢が見せるのは夢だけではない。今までの私達の記憶を蓄積し、映像として上映することも出来るの。既に意識の中では忘れ去ってしまったように見える記憶もね。まあ、操夢単独でこの能力を行使することはほとんどないけれど」
僕はとりあえず納得した。しかし少ししてある恐るべきことに気づく。
「真昼の記憶を今、この世界で見るってことはつまり……」
「そう。真昼さんも夢としてまたお母さんの事故を見ることになる」
僕は戦慄した。そもそも真昼は母さんのことを僕以上に覚えていない。少し前にそのことについて尋ねたのだが、
『うん? 急にどうしたの? お母さんかー。正直顔も声も何も覚えてないなあ。おばあちゃんやお父さんから聞いたイメージでできたふんわりしたお母さん像みたいなのはあるけど』
と、ポテチをひたすら貪りながら返されたのだ。
そんな妹に、何も知らない妹に、思い出させてしまっていいのか。
「本当はもうちょっと話し合ってからこの作戦は実行しようと思っていたのだけれど、丁度タイミングよく三人になれるチャンスができたから……。ただ、夢なんて目覚めた時に忘れてしまっている方が大部分なのだし、第一それが見た夢が何のことやら分からない可能性も大いにある」
「……そうなのかな」
しかしどうしても踏ん切りがつかなかった。僕自身、事故の光景を見るのも怖かった。
そうこうしている間に笛の音がなり、キュイが戻ってきた。沓名の方に捕まり、少し空白。
「OKだって。多分ここから……」
その瞬間、世界は暗転した。白から黒への移行。沓名もキュイも見えなくなってしまった。
「ど、どうなっているんだ」
「少し待って」
あくまでも落ち着いている沓名の声。
やがて少しずつ視界が回復してきた。辺りの風景は一転しており、僕たちは暗く狭い……六畳ほどか? の部屋に居た。
周りは灰色のレンガで組まれた壁に囲まれており、目線ほどの高さで等間隔にたいまつが貼り付けられている。
そして僕達が向いている正面側に扉。正方形で両開きになっており、今は閉じられている。材質は恐らく青銅だろうか。明らかに分厚そうで重厚な造りだ。何やら幾何学的な模様や見たことがない字のようなものが綴られている。
そういえば最近真昼は中世ヨーロッパに凝っているらしく、何やらそれに関する分厚い本を読んでいた。それが操夢によって夢と繋げられているのだろう。
「これがいわば記憶への扉。向こう側に真実がある」
真実。それは間違いない。そして何となく〈闇〉を解くにはもはやこれしかないような気もしていた。最終手段でもあり、唯一の手段でもあったというわけだ。
だけど怖い。真昼が知ることも、そして僕自身が母さんの死を目の当たりにすることも。
でも、死にたくもない。どうしようもなく矛盾している。僕はわがままだ。そしてヘタレで弱い人間だ。
いつの間にか僕の拳は強く握りしめられていた。
「あなたの好きにすればいい。自分の生死は自分で決めるのがこの世の理だから」
沓名は肩のキュイを撫でた。彼女の手の輪郭も、つられるように少しぶれた。その時彼女の鋭い目が少し緩んだ。
「私の時もね……。周りに沢山の迷惑をかけたわ。無事助かったけれど、大きな代償を払うことになった」
「代償」
「そう、思い出したくもない、酷い代償。私なんか、ここまでして生きるべきじゃなかったと泣き叫んだ時もあった」
そう言って、過去を覗くかのように目を細めた。
「そんな時、私を救ってくれた組織の先輩がこう言ってくれたの。『生きるべき人間とか。死ぬべき人間とかなんてのはない。あなたは生きたくて、私達は救いたかった。何も気にすることなんてない』って。
最初の時言ったよね。私はあなたを救いたい。あとはあなたが決めるだけ。
朝登くん。あなたは、生きたい?」
「僕は……」
くだらなく、イケてない人生かもしれない。
わがままでヘタレで弱い人間かもしれない。
そして生きるには真昼にも、沓名にも、父さんにも、母さんにも、迷惑をかけるかもしれない。
それでも。
それでも。
僕は……。
「僕は生きたい!」
叫び、その勢いで扉に手をかける。
僕は生きるんだ。現実に、生きる。もう夢なんて、〈闇〉なんてまっぴらだ。
その重苦しい見た目とは裏腹に、扉は油が差してあるかのように滑らかに、軽く開いていった。
「それでいいのよ」
光が差し込む。世界は消え、また再構築されていくのだろう。僕はまた、何が何だか分からなくなった。
※※※
そして僕達二人は夕暮れ、忌まわしき例のスーパーマーケットにいた。よく見ると所々今とは周りの建物、そしてどことなく道行く人々の服装も、今とは傾向が違うように思える。
つまりあの時にタイムスリップしてきたのだ。真昼の操夢に夢を見せられている、という形で。
僕らはスーパーマーケットに面している歩道を少し高めの位置から俯瞰的に眺めていた。宙に浮かんで見えない地面に立っているのだ。おかげで障害物がなく見えやすい。
しかし、これは真昼の記憶が作った世界のはずだ。どうしてこんな視点から周り360度を見渡すことができるのだろうか……。
「うっ」
その時鋭い痛みが頭に走った。と同時に脳裏に言葉が浮かび上がる。
『三人で買い物に来たのは久しぶりね』
母さんの言葉……?
「来たわよ」
沓名が指す方……スーパーマーケットから出てくる……。
「ああ……」
先頭を歩くのがまだ七歳で小学生になった頃のばかりの僕だ。何が嬉しいのか、胸を張って行進でもするかのように勇ましく歩いている。
後ろには5歳の真昼、そして彼女と手を繋ぐのが……。
日野真弓、紛れも無く僕の母さんだ。
車道側である右手に買い物袋を、左手に真昼の手を握っている。
! また頭痛。先ほどよりも強い物だ。また言葉が過る。
『お前が殺したんだ!』
その顔は、どことなく今の真昼の面影があった。いや逆だな。僕とは全く似ていないようだ。父さん似だったのか……僕は。夕暮れのせいか、僕の見方のせいか、母さんの顔はとても儚げに見えてしまう。失われる定めの顔……。
「三人で買い物に来たのは久しぶりね」
母さんが言った。うん、と真昼が頷く。
「そうだよ! いつも僕が学校にいる間に二人で行っちゃうんだから」
僕……朝登は口を尖らせた。
痛みが断続的になってきた。自然と鼓動も早まってくる。駄目だ、これ以上は。
「しょうがないじゃん、兄ちゃん帰るの遅いもん!」
「あーいいなあ。真昼は毎日好きなお菓子買ってもらえて」
「あら、いつも買ってきてあげてるじゃない。朝登の代わりに真昼が選んだのを」
「だってあれ僕の好きなのじゃないもん」
「わがままね。朝登は」
母さんは微笑んだ。胸が締め付けられる。いつもあんな風に笑っていた。友達と喧嘩して泣いている僕を慰めるときも、幼稚園年長の頃の運動会で、初めて最下位を脱出した時も、小学校に入学した時に一緒に記念写真を撮った時も。懐かしい……悲しい。
記憶の扉が開いていく。
そう、そうだ。ローズのほのかな香り。香水だったのだろうか。あれは母さんの匂いだ。
「わがままじゃないもん」
朝登はすねてしまい二人から少し距離を取る。ああ、駄目だ。駄目なんだ。
沓名に手を取られる。彼女は黙って首を振った。無意識に僕は三人に向かって走りだそうとしていた。
三人が向かう先に横断歩道がある。歩行者用信号の青が点滅しだした。
「行けるっ!」
朝登は駆け出した。彼は、僕は、気づかなかったのだ。そのとき丁度交差点を左折しようとしている車に。
「朝登!」
真昼の手を振りほどき母さんは走った。何かの予感があったのだろうか。朝登が駆け出した時には既にかなり近くまで来ていた。
甲高い悲鳴。それはギリギリになってようやく朝登に気付いた車のクラクション。しかしもう間に合わない。
母さんが朝登の背中を体から飛び込むようにして押し出す。軽い体は吹き飛んで向こう側の歩道に辿りつく。
身代わりになった母さん。響き渡るブレーキ。そして命が奪われる音。鈍い、しかしいつまでも僕の耳に反響し続けた。
「あああああ」
僕はたまらず母さんの元へ行こうとした。だが、できなかった。足は宙を蹴るばかりで身体が前に進まないのだ。
朝登も真昼も呆然としたまま微動だにしない。
『お前が殺した』
母さんの姿は他の車や野次馬に阻まれて全く見えない。何も関係ない奴らの悲鳴や声が飛び交う。
「母さん! 母さん!」
「落ち着いて、朝登君!」
僕は泣いていた。泣きながら、ただ母さんのことを呼ぶしかできなかった。
「母さん! 母さんはやっぱり僕が……」
「朝登!」
沓名がいつになく強い口調で僕を呼んだ。と、同時に再び世界が暗転する。
辺りは一転静寂に包まれた。
「落ち着くの。あくまでもこれは過去。そして、事故もあなただけが悪かっただけじゃない。明らかに車側の不注意もあった」
「そんなの関係ない! 俺があそこで走ったから! 調子に乗って、馬鹿みたいに。俺のせいなんだ……俺の……」
沓名は何も答えなかった。代わりに
「少し休んで。落ち着いたら次の記憶へ行くわよ」
とだけ言い黙り込んだ。
先ほどの光景が嫌になるほど脳内でループする。記憶の扉が開いたのだ。それがもはや他人事として見た光景ではなく、実際に経験した出来事として完全に思い出していた。
『僕が殺した』
どう慰められようと、間違いなくそれは事実だ。言い繕うことなんてできるはずもない。
頭の中が恐怖と懺悔と悲しみで一杯になっている中、わずかに残っていた冷静な僕が告げる。
『では、何故僕はそのことを今の今まで忘れていた?』
そうだ。まだヘこたれるわけにはいかないのだ。封印された記憶はまだ残っているのだ。
ゆっくりと呼吸を整えつつ、涙を拭う。けれどいくら拭ってもとめどなく流れ出してくるので諦めた。
声を出そうとしたとき、唇が震えて止まらなかったが、もうこれはどうしようもなかった。ひどく情けない声になったことだろう。
「も、もう大丈夫。次に行ってくれ」
「……次は、事故から一週間後。通夜、葬式など諸々の儀式が済んだところ。日野家の自宅での真昼さんの記憶」
視界が復活した。
いつものリビングに父さん、朝登、真昼が集まっていた。電灯はついておらずカーテンも閉め切られ薄暗くなっている。梅雨の湿っぽさも加わり、重く、腐臭さえ漂ってきそうな雰囲気だ。
真昼はテレビの正面すぐ近くで足を投げ出して座り、撮り溜めてあったアニメを眺めていた。虚ろな目をしていて、内容は半分も頭に入っていないに違いない。朝登はその後方、部屋の片隅で体育座りをし膝に顔を埋めている。
そして父さんは……時計を見るとまだ昼過ぎだというのに酒を飲み、酔っ払いきっていた。
針が指すような頭痛を感じる。痛みはどんどん強くなってきて、耐えるのも辛くなってくる。手で強く押さえて紛らわせようとするが、気休めにもならなかった。
『貴様等三人は、母という名の接着剤で辛うじてくっついていたにすぎない。偽りの家族関係……血が繋がっているだけ……形骸化した……もはや意味のない集まり……』
今度はアノニムの声だ。違う、そうじゃない。意味のないなんて、そんなわけ……。
ガラスを叩く音。父さんが机にコップを叩きつけ、ゆらりと立ち上がった。足をもたつかせながらふらふらと歩く様は正にゾンビのようだ。
向かう先には朝登がいた。
「おい」
びくりと敏感に反応したのは真昼だった。恐る恐る父さんの顔を疑う。だが朝登は顔を埋めたまま動かない。
「おい!」
父さんは明らかに苛立ち、一際大きい声を出した。それでやっと気づいたのだろう。朝登はようやく顔を上げた。涙やら、鼻水やらでぐしゃぐしゃになっていた。
そうだ。母が死んでから、ずっと泣いてばかりだったのだ。真昼と同じく、目に生気はない。
父さんは血走った目で朝登を睨んだ。明らかに正気のそれではない。酒で前後不覚に陥るようなタイプでもなかったはずなのに。
「やめて……」
か細い声で真昼が訴える。手で顔を覆う。
「いつまで泣いてるんだ、お前は!」
朝登の顎を持ち上げ、ぐいと顔を近づけて父さんは詰問する。朝登は何も言えないでいる。
「いいよなあ、ガキは大きくなったらすぐ忘れられるんだ。真弓のこともあと5年もすればお前らには居なかったことになるんだろ」
激しい口調は徐々に涙の気を帯びてきていた。
「俺はこれから一生……ああ……どうして真弓……事故になんて……。朝登、お前が飛び出さなければ、真弓は。お前のせいで……。そうだ! お前が殺したも同然なんだ! そう、お前が殺した。お前が殺したんだ!」
『お前が殺した』
そう。これは父の言葉だったのだ。
僕の頭痛はまた唸りをあげて襲いかかってきた。動悸が激しくなってくる。
「お前が殺した!」
ついに手が出た。朝登の頬を全力ではたく。
「痛い!」
それは朝登だけでなく、現実の僕の頬にも鋭い痛みとなって届いた。まるで共感覚のようだ。
「お前が殺した!」
更に頬へ。次には顔を殴打。
「お前が殺した!」
腹を蹴る。酒をかける。
行きどころのない悲しみは終わらない虐待として朝登を襲った。
その悲しき連撃は頭痛と共に僕をも抉った。身体よりも心が痛かった。
「お前が殺した! お前が殺した! お前が殺した! お前が殺した! お前が殺した! お前が……」
最後に振り上げられた拳は、朝登に届くことはなかった。その場に崩れ落ちて顔を覆って号泣する。
「やめて……」
真昼は虚空に呟いた。
正に地獄だった。耐えきれない。
「あああああああああああああああああああああああああああ」
僕は叫んだ。何も分からないまま。
いや、全て解かった。僕の〈闇〉。
点滅。「危ない!」ブレーキ。激突。野次馬。そして暗転。薄暗い。アニメ。酒の匂い。怒り。暴力。
全てがメリーゴーランドのようにぐるぐる繰り返し僕の脳裏を駆け巡る。
「どうして。夢が崩れる!?」
頭痛。悲しみ。真昼。父さん。そして、母さん。
「ああああああああああああああああああああああああ」
いつの間にか、走り出していた。どこへ? どこへだろう。動けないはずだろ? わからない。
ここは……スーパーマーケットだ。ここで母さんは……。夕暮れは既に終わりを迎えかけ空の天井は黒色に染まっていた。
しかし僕ははっきりとそこに描くことができた。
僕、真昼、母さん、が軽口をたたきながら歩いていたあの日のことを。
「母さん……」
……。
……。
……。




