第十三章 強引な策
「あれ? 兄ちゃん?」
歩く先、真正面から声。
やってしまった。身が凍えるような気持ち。面倒臭いことになってしまいそうな予感。
「きゃ!」
反射的に沓名は飛び退き僕と距離を取ろうとした。無関係を装おうとしたのだろう。しかし悲しいかな、ここは現実だ。アノニムのレーザーを華麗に避けた夢の中とは違うのだ。反射神経は素晴らしかったものの、足がもつれ転んでしまう。
「だ、大丈夫か?」
思わず僕も声をかけてしまう。これで、客観的に見て全くの知らない関係ではあり得なくなった。
手を差し伸べると、振り払うかと思ったが、意外と素直に受け立ち上がった。やはり顔は真っ赤で、涙目になりながらスカートの埃を払う。
そんな一瞬の間に起こった一連の流れに最も困惑していたのはそれを引き起こした、張本人、我が妹、真昼だった。
今、僕らの目の前に起こったことを把握するには情報が少なすぎる。真昼は、まるで熊か何か猛獣に出会ったかのようにその場に立ちすくんだ。
「……」「……」「……」
風の音がいやに強調される、凍てつく雪山。僕はそんなところに、突然迷い込んだような気がした。
※※※
「粗茶ですが、どうぞ」
どこで覚えたのか、真昼はニコニコ顔を浮かべながらいやに淑やかに振る舞う。平日の昼間によくやっている、いやに甘ったるいメロドラマの影響だろうか。
沓名は例に漏れず、顔を赤らめていたが、直接学校などで会うことはない関係だからか、一応平静は保てているようだった。
「あ、どうも……」
彼女も彼女で、まるで恋人の親に挨拶に来たような、謙虚で落ち着かない様子で茶を啜っている。
何だか変な空間に迷い込んでしまったような気がする。だが、ここは紛れもなく僕ら、日野家の自宅だ。
ドタバタ染みた邂逅を経て、真昼が沓名を家に誘ったのだ。どういうわけか、沓名もそれをホイホイと受けて今に至る。
「いやあ、それにしても兄ち……兄にこんな可愛い彼女さんがいるとは思いませんでした。一体いつから?」
やはり芝居がかった口調で尋ねる。沓名は答えあぐねたようで、僕のほうをちらりと見る。
「誤解だって。ただの知り合い」
「ほーう、知り合いですか」
真昼は僕らの方に顔を近づけ疑わしげに眼を細める。メロドラマから、刑事ドラマにシフトチェンジしたようだ。
「それならどうして私と出くわした時、あんなに動揺してたんですかね? 沓名さん……でよかったですよね。沓名さん、あまりに慌てて思いっきり転んじゃったし」
言葉に詰まってしまう。
沓名は気を紛らわせようとしたのか、茶に手を伸ばす。
「あっ」
三人の言葉が被った。
手元が狂ったのだろう。湯飲みは彼女の手を滑り、中の茶をぶちまけてしまった。
「ご、ごめんなさい」
「大丈夫ですか? 火傷とかしてないですか?」
首を振る。
真昼は慌てて立ち上がりタオルを取りに走った。僕もとりあえず近くにあったティッシュを数枚取って沓名に渡し、自分は床に零れ落ちた茶を拭きとろうとした……中身のほとんどを溢してしまっていたため吸水可能量を遥かに越え、溺れたティッシュが完成しただけとなったが。
ふと沓名のほうを見上げると、彼女はティッシュを片手に持ったまま何もせず、ただぼうっと座っているようだった。
「どうしたの、制服まで濡れてるぞ」
「え? ああ、うん。大丈夫」
おいおい、本当に大丈夫かよ。
じきに真昼が三人分のタオルを持ってきて、事態は収束した。
「本当に、ごめんなさい」
沓名は頭を下げる。その姿はいかにもしおらしげであったが、それでいてどことなく作った格好であるようにも見えた。
「全然、大丈夫ですって。それより、よっぽど図星だったんですね。妬けちゃうなー。なんつって」
いつもの適当な台詞で真昼はそれを受けた。本当に口は達者な奴だ。
「あ! それじゃあ……今のお詫びとして色々包み隠さずぶっちゃけてもらおっかな」
真昼は悪い笑みを浮かべ、茶を啜った。
「なんだよ、それ。卑怯な奴だな」
「卑怯で結構。それが私の生きるみ……ってあれ……?」
真昼は訝しげに眉を潜めた。
「どうした」
「おかひいな……急にねむへが……あへ……」
それは突然の変化だった。急激に真昼の呂律は回らなくなり、まるでそこだけ重力が強くなったかのように姿勢は崩れ、机へと突っ伏してしまう。
「ふぉへん……へやふぁへはこんへ……」
もはや日本のものかも分からない解析不能な言葉を残し、そのまま気を失ってしまった。
「おい! 真昼!」
体を強く揺すって声をかけるが、ピクリともしない。かすかに呼吸音がすることから、死んでしまったわけではないらしい。
「これは一体……あ!」
すぐに気づいた。急激な睡眠への移行。これは最近僕の身にも起こっている。つまり……。
「沓名。まさか」
彼女の方を見やる。冷たい瞳にすまし顔。さっきのは全て、演技だったのか。
「そうよ。さっき彼女の湯のみに仕込んでおいたの」
ポケットから例の組織が作ったという睡眠薬を取り出した。
「茶をこぼしたのも計算だったわけか」
思わず声が荒くなる。闇雲に妹に危害を加えようとしていないことは内心分かっているのに。
「そういうことね。そしてこれが最終手段よ」
「最終手段……? 真昼を眠らせることが、どうして」
沓名は説明をしようと口を開きかけたが、思い直したのか首を振る。
「あまり時間がない。この睡眠薬は即効性だけど、夢見るためだけの薬で、効果時間は長くない。あなたも飲んで」
茶飲みと薬を押し付けられて暫し逡巡する。だが、やはり僕に彼女の行動に反抗する権利は、今、ないのだ。無限の信頼を彼女におくしか、ないのだ。
ごめん、真昼。頼む、沓名。
僕は目を瞑り、薬を口内に放り込みむちゃくちゃに水を飲みまくった……。
そして、消える意識。




