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第十一章 絶不調

 次の日、着替えて一階に降りて行くと既に真昼は起きて、鼻歌交じりで朝食を作っていた。僕の姿を認めると、何故か慌てて目をそらし、小さな声でおはよう、と言った。

僕はおや、と思った。というのも彼女は滅法朝に弱いのだ。いつも慌てて部屋から降りてきて、ガチャガチャグヌグヌダタダタモグモグと凄まじい勢いでコーンフレークを掻き込んで、そのまま玄関を破壊するかのように押し開けて出て行くのが常の日課である。

おっと、ここで一つ注釈しておかなければならないだろう。

真昼は陸上部に所属しており、学校がある日は毎日朝練があるのだ。

そのため、僕がちょうど目覚めて一階に降りて行く時に、慌てて家を飛び出す真昼と出くわすというわけだ。

そんな真昼が、しかも今日は学校が休みだと言っていたはずなのに、今朝はエプロンまでして悠々と機嫌よく料理をしているのだ。僕が現れたことで機嫌は損ねてしまったみたいだが。

とはいえ、すぐに彼女の早起きの理由は了解した。父さんは当然、もう家には居なかった。

ぶすっとしたままではあるが、僕の分の卵焼きも作り皿によそってくれた。当番制であり、二日に一回は夕食を作り経験値も溜まっているはずなのに一向に上達の気配が見えやしないのはどうしてだろうか。

今日のも、形は崩れ、あちらこちらが炭化してしまっている。真昼の方を見ると、後ろめたそうに顔を逸らした。彼女の前にも黒焦げた卵焼きが置かれている。


「今日は部活はないの?」


 苦味を紛らわそうと真昼に話しかける。


「ないよ……にがっ!」


 彼女は慌ててティッシュを取り口元を抑える。それで話が途切れてしまう。めげずにもう一度。


「昨日は悪かったな。意地悪なことしてさ」

「もういいの、寝て忘れた」


 それならどうしてその、無理やり作ったような笑顔が引き攣っているんだ。

それからは何となく話しかけづらくなり、僕は昨晩見た夢、いやアノニムが見せた幻を回想した。


『お前が殺した』


 沓名、昴、祖母、真昼、父からの声。

『お前』とは僕のことだろう。僕が誰かを殺したのか。しかしそんなこと記憶にあるはずもないし、やったことなどないと断言もできる。殺人なんて! そんな大それた事!

 アノニムは、それを彼らに言わせて何がしたいのだ。やはり僕をたぶらかし、やがて捕食せんとする悪魔そのものだろうか。

 しかしその次の奴の言葉。怪物に扮した操夢の低く唸るような声。


『闇を乗り越え、我の前に立て』


 ただの欲にまみれた捕食者がこんなことを言うだろうか。むしろ、僕に挑戦状を叩きつけているかのような……。

 そして女の人の声。


『アナタガワタシヲコロシタノ』


 僕が殺したのはその声の女の人なのか、或いは殺したということにしたいのか。

 これについては、アノニムが見せる妄想と断定することがどうしてもできなかった。

 どことなく彼女の声に聞き覚えがあるのだ。

 当然沓名でも真昼でもない、その他僕が今まで関わった女の人の声の中でも全く思い当たりがない。

 だが確かに僕の記憶の底の底かもしれないが、彼女の声は残っているのだ。

 最後の耳を劈くような悲鳴にさえも聞こえる金切り音。そして激しい頭痛。

 これらにさえも、もしかしたら暗示的な何かをアノニムは潜ませているのか。

 金切り音……その後の激しい頭痛……。


「兄ちゃん!」


 妹の声に弾かれたように顔を上げる。


「もう八時だよ。遅刻しちゃうよ……大丈夫? 全然減ってないけど」


 真昼は訝しげに僕を見つめる。

 思わず思考に没頭してしまっていたようだ。僕のあまり良くない癖だ。

 ちょっと考え事があって、と彼女の料理のせいではないということだけ伝え、慌てて冷たくなってさらに苦味が増した卵焼きをご飯と共にかきこみ、席から立ち上がった。

 走らないと間に合わない時間だ。もう夢について考える時間はなかった。


 遅刻間際で教室に到着した時、沓名はまだ席に座っていなかった。

 そしてそのままチャイムが鳴り、彼女の遅刻か欠席は確定した。

 沓名が欠席をすることは今までにも結構ある。月に二・三日だろうか。今までは彼女の運動神経からの悪さからも、病弱なのだろうかと思っていた。

 今になってこうやって彼女のことを知ってみると、恐らく組織とやらの活動の関係なのだろう。

 今回もそれなのだろうか、でもそういえばあの時……。と色々考え耽っていた二限目の国語の時だった。

 ガラガラとドアが開き、先生と生徒の目が引きつけられる。

 沓名だった。


「すみません、寝坊しました」


 と、消え入るような声で呟きながら窓際の僕の隣の席へと歩く。

 顔を真赤にさせ、プルプルと小さく震えている。沓名は以前、『目立つのは面倒臭い』などと言っていたが、実際はあの言葉は正しくないのだろう。『面倒臭い』のではなく『超がつくほど苦手』なのだ。

 しかしそんな彼女の思いとは裏腹に、クラスメートはその只ならぬ様子にざわついてしまっている。

 そんな、周りの雰囲気に気づいているのかいないのか。沓名は席につくと、慌てて教科書を取り出し(ちなみに一度落として慌てて拾い上げた)、あたかも普通にさっきまで授業を受けていましたよ、というような体勢を作った。

 何食わぬような真顔を作ろうとしているのはよくわかるのだが、真っ赤になり小刻み震えているせいで授業で当てられてわからないのを先生にねちねちといじられる、そんなシチュエーションが頭に浮かんでしまった。

 今までの彼女のキャラもあり、表立って何か声をかけるような奴はおらず、無事に授業は再開された。彼女の様子は休み時間になるまで回復することはなかったが。

 授業終わりのチャイムが鳴り、ちらりと沓名を横目で見る。と、その瞬間僕は目を疑ってしまった。

 さっきまで赤く染め上げられていた顔が今度はほんのりと蒼白くなっているのだ。

 彼女は腕を机にだらりと伸ばし両手の甲を合わせて顔を乗せ、上半身の重量を預けきっている。

 目は細められ、口はだらしなく開かれている。全身全てから脱力感が認められた。


「だ、大丈夫?」


 思わず声をかけるものの、聞こえているのかいないのか返事は帰ってこない。と、脇に置かれた無機質なメタリックの筆箱からシャーペンを取り出し、先を僕の方に向け何かを空に書くような手振りをする。

 ノートを差し出すと素早くさらさらと書き込んだ。


『〈闇〉は解けた?』


 僕は首を横に振る。


「父さんに、事故のことを聞いたけど結局今まで知っていたことと大して変わらなかったんだ」


 話し始めると、慌てて沓名は前を向き身を正す。やれやれ。


「他に特に思い当たるようなものもないし、正直お手上げに近いよ。って、それより体調悪いのか?」


 彼女はすぐに


『大丈夫』


 と書き殴り、また前を向いてやつれながらも思案する表情になる。

 気まずい間。ふと、昴か三橋あたりがこちらへ来ないかと心配になり、こっそり目線だけで覗った。

 こちらには来ていなかった。しかし……!

 そこにはニヤニヤと遠巻きからこちらを眺める二人の姿があった。

 口だけ「しっ! しっ!」と動かして手の甲を向け前後に振る。そんなことでやめてくれるわけがないのはわかっていたが。

 その時腕に軽く上からの圧力を感じて慌てて目を戻す。沓名がまたノートに何かを書き込んでいる。二人の曲者の存在には丸っきり気づいていないようだ。仕方なく僕の意識からやつらを抹消し、彼女の書く字に集中する。


『次の授業中の間にお父さんの話を思い出せる限り全て、なおかつ聞いたままに書いて。今まで知っていたことじゃなくて昨日聞いたことをそのまま。それと、もしアノニムが現れていたとしたら夢の内容も全て』


『聞いたまま』の横に波線が引かれている。

 次の授業は日本史で、退屈な授業だ。担当の菱田先生はただ教科書を読み上げるだけで正直なところ、ちゃんと話を聞いている生徒は誰もいないと思う。

 僕は親指と人差指で丸を作り、元通りに座り直った。

 彼女は何故ここまで調子を悪くしてしまったのだろうか。風邪を引いた、という風にも見えない。

 ちらりと右を見ると、昴と三橋が口の前に手を当て、『もっと話せ!』とジェスチャーで伝えてくる。当然、無視した。

 チャイムが鳴り、同時に先生が現れる。早速僕は父が話した内容をノートに綴り始めた。

 そして僕自身ももう一度、父の言うことを振り返る。事前に沓名からしっかりと父の言葉を覚えておくように念を押されていたのでほとんど完全に思い出せた。

 菱田先生の、もはや誰に聞いてもらうことも想定していないであろう、ぼそぼそと呟くような声が内職をするのに適度な集中を促してくれている。確か前回の授業で明治時代に入っていたはずだ。

 二十分程度かかり、全て書き終わりもう一度軽く全てに目を通す。

 ん? その時一つ気になる点が見つかった。中学生の時、そして昨夜の時は全く気にならなかったところだ。

 全てを疑うように見たからこそ芽生えた疑問点で、普通に考えてしまえばどうということではないのだろう。『偶然』とか『そんなこともある』で片付けられるかもしれない。

 しかし一度見つけてしまうと、どうしてもそうやって捨て去る気にはなれなかった。どうにか確認したくなった。

 できるだけ周りに悟られないように沓名の机にノートを置いた。

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