第十章 お前が殺した
がちゃがちゃと音がして、いつの間にか父さんが玄関まで来ていたことを知る。思わず緊張し、胡座に座り直す。
そしてついにリビングに姿を現した。父さんは、僕を認めると少し嫌な顔をした(ように見えた)。
「なんだ、まだ起きてたのか。ただいま」
「う、うん……お帰り。ちょっと父さんと話したいことがあるんだ」
よし、切り出せた。決心が鈍ってしまうと思い、帰ってきたらすぐに言わなくてはと思っていたのだ。
父さんは、怪訝そうな顔をしたが、
「わかった。ちょっと着替えてくるから待っててくれ」
と、自室に引き上げていった。
よし、まず第一関門突破。
どんな感じで話を組み立てていくか、最終確認を脳内で行いながら、父さんを待つ。
といってもそんな難しいものじゃないはずなんだ。ただ一つ、根本的な問題が、あるとはいえ。
前もってテレビの電源を消しておく。流石に時折混ざる深夜のバラエティーならではの過激なネタは、これからする話にそぐわなすぎる。
父が戻ってきて、机を挟んで向かい合う。いつもの硬いスーツから、ラフな長Tに下はジャージだ。手には350ミリリットルの缶ビール。
「お待たせ。で、何だ」
僕の表情から、何かを読み取れたのだろう。真剣な面持ちで僕を見つめた。
しかし、こういざ向かい合ってみると、つくづく昔からの僕の弱点なのだと思い知らされる。
なぜ、そうなのか。それは、僕の〈闇〉に起因することなのか。
眼を、父さんの眼を、まともに見ることができないのだ。斜め四十五度辺りでおぼろげに視界に入れながら、僕は意を決して口を開いた。
「母さんの事故について詳しく知りたいんだ」
その時、父の眼が視界の端で鋭く細められたような気がした。
「……。今になって何を知りたいんだ。何かあったのか」
思いの外鋭い口調に怯んでしまう。だが退く道はない。
「別に。ただ、気になったんだ。今まで詳しく話してもらったことなかったし」
「何を言ってるんだ。中学生に上がった時に話したろう。あれ以上のことは何もない」
「じゃあ、もう一度それを話してよ。遠い昔の記憶のことで、あんま覚えてないんだよ」
父は、缶ビールを強く机に置いた。嫌な金属音が頭を叩く。
「父さんはもうあの時のことを思い出したくないんだ!」
声に悲しみと怒りが混ざる。ここまで感情を表に出した父さんを見たのはいつ以来だろうか。僕も負けずに言い返す。
「俺なんて母さんの事、思い出すことさえできないんだ。このまま何もなく、俺の中の母さんが消えるのは嫌なんだ」
つられてこちらまで強い口調になってしまう。
しかしその一方、言葉とは裏腹に母さんへの想いは三分の一程で、残りはただ自分が死にたくないという利己的な考えが占めており、少し後ろめたい気持ちになってしまう。
父さんは、どこかあらぬ方を見つめ思案しているようだった。そして溜め息を一つ。観念したかのように真正面から僕を見た。
「わかった。話そう」
その事故が起こったのは十年前、お前が小学生に入学した年だったな。
あの日の天気は忘れもしない、どんよりとした曇り空だった。異常なまでに湿気が高く、蒸し暑かった。いっそ雨さえ降ってしまえば少しはサッパリするのにと取引先に向かう時に考えたのを覚えている。
そして夕方。取引先との打ち合わせを終えて会社に戻る時だった。
携帯電話の電源を点けた瞬間だった。
連絡を受けて急いで病院に駆けつけた時はもう息を引き取っていた。既に到着していたお義母さんが明美に縋り付いて泣き、お前と真昼はまだ幼かったから何も分からずきょとんとしてたよ。
それからお義母さん、そしてお前達から話を聞いたところ、母さんは一人で買い物に出かけ、お前と真昼は家で二人で留守番していたらしい。
買い物を済ませ、家に帰る途中、居眠り運転をしていたトラックが歩道に突っ込んできて避ける暇もなく……。というわけだ。
※※※
「俺が知っているのはこれで全てだ。いいか、別にお前が何かをしたというわけでもない。これで母さんの事故の話は終わりだ。風呂、湧いてるだろ? 入ってくる」
話しながらちびちびと飲んでいた缶ビールを机に置き、立ち上がりリビングを出て行った。
父さんの話は、実は覚えていた中学生の時に聞いたのと何ら変わりはなかった。
結局、何も〈闇〉に関して得るものはなかった。つまり、全くの見当外れだったというわけか。
失意のどん底に陥ったとともに、押し殺していた眠気はフッと襲ってきた。
明日沓名に相談するしかないか。
ふらふらと部屋に戻り、通学鞄から沓名にもらったアロマキャンドルを取り出した。これが間違いなく僕の命綱だ。
帰り道に買ったライターで火をつけようとして気が付いた。やばい、やばい、ドアの下の隙間から煙が漏れでてしまう。
ガムテープでしっかりと目張りして、換気のため代わりに少しだけ窓を開けておく。沓名いわく、少しでも煙を吸い込み続ければ、操夢撃退の効果は維持されるらしい。
火をつけると、沓名に頼んだローズの香りが鼻孔から脳を刺激する。
何故、父さんはあんなに感情を露わにしたのか。いくら母さんの事故が嫌な思い出になっていたとしても……。
そんなことをおぼろげに考えていると、香りが作用して、少しいい気持ちになり、そしてゆっくりと眠りに落ちた。
※※※
……。ここはどこだ? 何もない世界。光も。
わからない場所に僕はいた。
「お前が殺した」
突然背後から沓名の声。しかしその姿を捉えることはできない。光がないから。
「お前が殺した」
次は右方から昴の声。
「お前が殺した」
左から祖母の声。
「お前が殺した」
上から真昼の声。
「お前が殺した」
前から父の声。
全ての声は、エコーがかかったようにいつまでも繰り返して反響し、それぞれが混ざり合い、一つの声となる。
そして現れる。僕の潜在的な本能にその醜悪さと凶暴さを刻みつけるような、茶色の皮に覆われた怪物の姿が。
それは狼、犬、鼠、猿、その他哺乳類のどれとも言え、どれとも言えないような容貌である。極論だが人間とも言えなくもないかも。
しかしこれ以上の形容は多分意味を為さないのだろう。なにしろ奴は好き勝手に自らの体を変えることができるのだ。一つだけ確かに言えるのは、そいつはどんな時も僕に根源的な、意味不明の嫌悪感を与え続けているということだけだ。
闇にぽっかりと浮かぶその怪物はどこかから伸びている鎖で縛られていた。以前見た時は闇に包まれて分からなかったが、恐らくこいつがアノニムの全貌なのだろう。
「終わりは近い。あくまで抗うのならばそれもよい。終わらない夢より、儚い現実などという悪夢を望むのならば。
〈闇〉は最早すぐそこにある。無事乗り越えて、我の前に立つがいい」
そして怪物は薄れて消えた。僕の意識も遠のいていく。
『アナタガワタシヲコロシタノ』
そしてどこからともなく、彼女の声がする。ローズの香りがほのかにした、ような気がする。
突然キィィィィィイイという甲高い音が鳴り響く。そして同時に頭を裂くような頭痛。
痛い。痛い痛い痛い。頭から何か出てきそうだ。何が出てくるのだ。とにかく痛い。
「それは、お前が封印した痛みだ」
意識はそこでなくなった。




