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極私的俳句論  その2   俳句の未来。

作者: 舜風人

そもそも俳句とは


文学というよりは


遊芸というか


稽古事、手習い。芸事のジャンルに属するものだと私は思う、


カラマゾフの兄弟やカフカの審判、ダンテの神曲。ゲーテのファウスト、


そういったいわゆる西洋的なカテゴリーでいうところの、


文学とは程遠いところに位置する文芸であろう。


師匠がいて、流派があり、様々なお約束があり、(季語。575、花鳥諷詠、など)


こんなに型を重視するものがはたして


人間の真実や情念、愛憎、はたまた、生の実相を純粋にできるだろうか?


出来るはずもないのである。


俳句とはだからあるお方が言ったように『第二芸術』そのものなのだ。


現代的な概念からしたら俳句なるものは、いわゆる文学でなんかありえない。


敷いてたとえるならそれは生け花とか、茶道とか、剣道、柔道などの


芸事とか武道などとの共通点が多いものなのである。


こうした観点から見れば俳句に現代の課題を解決するようなテーゼを詠いこめるわけもあるまい。



旧態依然として、季語と五七五と、花鳥諷詠か生活俳句でも歌っているしかないわけである。


したって俳句に未来はないと断言できる。


そうしたことを誰も薄々感づいていたから


自由律俳句とか新興俳句運動は起こったわけである。


無季語、575の無視、現代を詠うなどで抵抗したわけだ、


だがこれはもう俳句ではない?


自由律俳句とは、一行詩である。


一行で詩を創るという以外の制約がないということはこれは俳句ではないだろう?


種田山頭火の句に


「一杯やりたい夕焼け空」



というのがある。


私の好きな句であるが、こうなるとそれは標語。に近いもの成るということが見えるだろう。


『手を挙げて横断歩道を渡ろうよ」と大差ないということだ。


まあこの辺が自由律俳句のジレンマであろうか?


結局は、今の俳句の大勢は季語と、五七五、花鳥諷詠に舞い戻っているというわけだ。


まあそこにしか俳句の生きる道はありえないのだから当然でもあろうが。


前衛俳句なるものがある。


金子兜太、赤尾兜子などの


シュールな?俳句である。


しかし今ご高齢になられた金子兜太氏は


伝統的な俳句しかお読みではない。


というか伝統俳句に回帰せざるを得なかったということだろう。


「狼に蛍が一つついていた」この句なども十分シュール?であるが


「曼珠沙華どれも腹だし秩父の子」となると


これはもう伝統的な俳諧の滑稽味であり、一茶とか蕪村の関への回帰であろう。


今、俳句はブーム?で


おーいお茶新俳句にはなんと全国から


167万句の応募があるという。


カルチャーセンターの俳句教室も団塊の退職者でにぎわっているという。



だがこれらの俳句なるものは、真の求道者の文学などではないし


100年後に真を問うという意気込みで創作された文学でもない。


いわば余技であり、


退職者の座興であるに過ぎない。


おーいお茶の新俳句が100年後の残る古典になるかといえば


それは99パーセントありえないだろう。


つまり今の俳句ブームなるものは


余暇の過ごし方であり、おけいこ事であり、


もっと言えば優雅な暇つぶしであるにすぎないというわけだ。


まあ俳句くばかりではなくて、現代短歌だってそんなものだろう。


俵万智の『サラダ記念日』だって


あんなものが100年後に古典となっているかと言われればまずありえないだろう。


あればただ時流に乗って現代風俗を軽やかに歌っただけの当意即妙の短歌でしかないし、


言ってみれば小杉天外の流行小説「魔風恋風」みたいなものだろう。


あるいは『赤ずきんちゃん気を付けて」「もう頬杖はつかない」「なんとなくクリスタル」


などなどの現代風俗小説みたいなものの短歌版という位置づけだろうか。


短歌に命かけてそれで真理追求しようだとか


宇宙の、自然の、生命の永遠性を短歌で荘厳しようだとかいう人などいるわけがないのである。


あの人が言ったから今日はサラダ記念日、、、、、


こんな歌がどこに永遠性があるというのか?


こんな短歌ならばまだ、湯浅真佐子のエロ短歌でも読んだほうが


愛欲の実相が領悟できようというものだろう、(と私は思う)


さてさて、あらぬ方角に筆が滑ってしまった。



まあいずれにしても今はやっているもてはやされている、


俳句とは、よく言って、芸事、習い事、おけいこ事であり、


悪く言えば優雅な暇つぶしでしかないということだ。


それを越えるのは本当に難しいだろう。


自由律や前衛俳句に走ればもうそれは


いわゆる俳句ではありえなくなってしまうし、


といって季語や575で縛られた伝統俳句の形式で、


人生や宇宙の真理を詠うというのも至難の業であるし、、。


ということでは


私が注目するのは


角川春樹氏である、


彼は俳句を


「魂の1行詩」と称している。


それだけでも


私の言う


ムンクの叫びのような俳句と


共通点があると思うからだ。








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私の作品で、、続き物、連作、シリーズものを、すべてお読みになりたい場合には、「小説家になろう」サイトのトップページにある「小説検索」の欄に、読みたい連作シリーズ作品群の「共通タイトル名」を入力して検索すれば、全作品が表示されますので、たやすくお読みになれます。

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