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「今空けますよ~っと」
リューンが勢いをつけてぴょんと立ち上がったところで、ドアが勝手に開いた。
村の女性陣かなと来訪者が入ってくるのを待てば、やたら大きな人影が動く。
そうして、おずおずと遠慮がちに入ってきたのは、リューンがずっとずっと待ち続けていたその人だった。
「リューン、その、久しぶりだな」
そこには、西日に金髪をオレンジに染められた、イオルドが立っていた。
リューンの脳裏に『一宿一飯の恩』という言葉がよぎる。これか! と思わず目を見開く。
「……お久しぶりです。どうぞ、上がってください」
「失礼する」
椅子に腰を下ろしたイオルドは、気まずそうな顔で何も言わない。数秒の無言にも耐えられなかったリューンは「お茶を淹れますね」と背を向けてから、何気なさそうな感じを装って話しかけた。
「イオはあの後、西の森で、大丈夫でしたか?」
「ああ。すぐに終わった」
「すみません、わがままで先に帰ってしまって」
「いや、大丈夫だった。……それより、マリベルが来たって? 大丈夫だったか?」
お湯を沸かす音だけが室内に響く中、なんでもありませんよ、といった風を装って世間話をリューンがすれば、イオルドもホッとした様子で空気を緩ませた。
「アイツ、虫が良すぎるだろ。今までリューンにさんざん迷惑をかけたくせに友達ヅラとか……何かあったらすぐ言えよ」
「もう大丈夫かと。また王都で会う約束もしたくらい、仲良くなったんですよ」
「はぁ⁈」
本気で嫌そうな顔をしたイオルドは「あいつが周りを巻き込むから厄介ごとになったんだぞ」と、あまり関わってほしくなさそうだった。
「たぶん根はいい人なんですよ。……ちょっとワガママが過ぎるのと、盲目なのと、周りが甘やかしすぎているだけで」
「十分タチ悪ぃだろ」
「本人も、変わろうと努力してるみたいです。えらいですよねぇ」
マリベルについて肯定的なことばかり言うリューンに、イオルドは不満顔だ。
しかしリューンはニコニコとして「自分でしたことがなかったそうですけど、お皿洗いもしてくれました」「芋煮をたくさん食べてくれて、おかわりまでしたんです!」などと、ぺらぺらと昨日の楽しかった思い出をしゃべり続ける。
それを聞いていたイオルドはだんだんと半眼になり、最後には口を真一文字に引き結んで、鼻から深いため息を吐いた。
「おい。……俺も褒めろ」
「はい?」
「昼過ぎに聞いて、すぐ走って来たんだぞ。俺も褒められるべきだろ」
イオルドはその高い頭を傾けると、サラサラの金髪をリューンに差し出した。なでろ、の姿勢にリューンが固まるも、ずずいと頭を突き出してイオルドは迫る。
戸惑いつつ手を伸ばしたリューンは、その柔らかさと指通りの良さに感動した。これで何のケアもしていないのだから、神様は不公平だなと、無心でその頭を撫でまくる。
「イオは、何を考えてるんですか?」
このまあるい頭の中を、見ることができたらいいのに。
リューンはそんなことを思った。
上目遣いに見上げたイオルドが「何って」と、笑う。
その笑顔に心臓が跳ねて、頬が熱くなる。それはもう、リューンの意思で止められるものではなくて、何かを言わずにはいられなかった。
「私に、何を求めてるんですか」
「別に何も求めてない」
そう、この男はそう言うだろう。どうせダメだと分かっている。
分かっているのに。
こんなことを、言うべきではないと。
分かっていても、リューンの口は止まらなかった。
「じゃあ、私と会えなくなっても大丈夫ですよね」
「それは困る」
体を素早く起こしたイオルドは「なんでだ」と、頭を撫でていたリューンの手をパッと捕まえた。
それが嬉しくて、嬉しくてたまらなくて、リューンは泣きそうで笑ってしまう。
そしてまるで早鐘のように打つ心臓の勢いのまま、リューンは確信を突く質問を口にした。
「でも、イオは『誰も愛さない』んですよね?」
「……マリベルから聞いたのか?」
「いいえ、すみません、聞こえてしまって。その言葉だけなんですけど」
イオルドは掴んだままだったリューンの手を離すと、バツが悪そうに頭をかいた。
そして聞いたこちらがぞくりとするような低い声で「リューンに聞かれたくなかった」と、ため息をついた。
いつもは分かりやすい表情が氷のように固くなり、ボソボソと低い声でしゃべるイオルド。
「好きだとか愛だとか……昔から理解ができない」
「そうなんですか。イオは昔から、よく告白もされていたでしょう」
「ああ。迷惑だったよ」
「そんな言い方……」
「愛してるから何だ? 愛していれば、何をしても許されるのか?」
確かに昔からイオルドは、多くの人間に『愛』を捧げられていた。中にはつきまといに近いことをする人や、信仰に近い気持ちの人もいた。イオルドはそれらの人々に対して、極端に冷たく、一貫して取り合うことはなかった。
「免罪符みたいに『愛』を振りかざせば、何を言っても、何をしても、許さなければならないのか?」
早口で言い切ったイオルドの目は、虚空を見つめている。
口を挟む隙もなく並べられるその言葉たちに、リューンはどんな表情をすればいいのか分からなかった。
「『愛』なんて感情、向けられた人間はいい迷惑だろ」
『だから俺は、誰も愛さない』と示すかのように、イオルドはそこで言葉を切った。
リューンは何も言えなくなって、しかし自分の感情を悟られないように、視線をそらした。
イオルドがそこまで言うのならば、リューンの気持ちは彼に伝えない方が良いのだろう。しかし切なくなって、思わず自身の胸を押さえる。
イオルドはイオルドで、視線を虚空に漂わせたまま、重苦しい口調でこう続けた。
「俺の父親は、近衛兵だったんだ。皇帝陛下の身辺警護を担う優秀な兵士で、陛下からの信頼も厚かったと聞く」
「イオの身体能力は、お父さん譲りなんですね」
「……外見も、よく似ているらしい。母親は心底父親に惚れていて、だから、母親から褒められた記憶があるのは、見た目と運動ができることくらいだな」
それはさぞ華やかな近衛兵だったろうと想像がついた。皇帝陛下からの覚えがめでたいのも理解できる。
「皇帝陛下は常に父を『傍に』と望み、父親はそれを誇り、皇帝陛下を敬愛し、仕事のために生きていた。滅多に家にもいなかったよ」
イオルドの視線が滑り、窓の外へと向けられた。
「ある日珍しく家にいたことがあって、しかも『稽古をつけてやる』とか言ってな、俺を庭に連れ出したんだ。途中で喜びいさんでごちそうを作った母親が呼びに来て、すぐに稽古は終わったんだが……その時に、父親は『いつか陛下のために俺は死ぬだろう。なぜなら、それは俺の望みだからだ』『〝そのとき〟が来たら、母さんにはうまくいっておいてくれ』と。……まあ、なんせチビだったからな、記憶は定かじゃない。が、そんな感じのことを言われたよ。四つか五つくらいだったな」
「その頃の記憶は、私もほぼありません。それだけ覚えてられるだけでも、すごいことですよ」
「それしか、関わった記憶がないんだ」
だから覚えていたんだろうな、とイオルドは自嘲気味な笑みを浮かべる。
「六歳になる前に、父親は死んだ。望み通り、暴漢から皇帝を守って死んだ。名誉ある死だって、いまだに言われるな。……母親は彼女はあまりに深く、父親を愛していた。父のために家を整え、財産を管理し、義実家に尽くし、俺を育てた。すべては父親が引退した後に、二人きりで幸せな老後を過ごすことを夢見てた」
何を言うことができるだろう。
リューンは押し黙ったまま、窓の外から頑なに視線を動かさずに語り続けるイオルドと、彼の母、その心中を想像する。
「母親は皇帝陛下のせいで死んだのだと、ひどく恨みをもってしまった。日々を泣き暮らし、何もせず、荒れ果てていく家の中でただ恨み言を垂れ流すだけの母親に……俺は……俺は……」
言葉を吐き出すイオルドは、深くうなだれるように下を向き、両手で口を覆って「父は、皇帝陛下のために死ぬことを望んでいたと、言ってしまった」と、その幼き日の言動を告白した。
「自分の生きていた、尽くしてきた意味を、これからの目的を、すべてを失ったせいだろうか。結局母親は、そんな胸中をぶちまけた日記帳を残して、衰弱死したよ。最後のページには『お恨み申し上げます』と、書いてあった」
イオルドのせいではない、そう言いかけて、リューンはやめた。
むしろイオルドのせいであると、暗に示してしまうようで。どんな言葉をかければいいのかわからず、リューンは唇をかんだ。
イオルドの母親は、誰を恨んだのだろう。
愛していた父親だろうか、それとも陛下だろうか、周囲だろうか。
自嘲を含んだ笑みのまま、イオルドは泣きそうな半眼の目をさらにゆがめた。
「本当の愛とか、軽々しく言われると腹が立つ。同時に、それが本物の愛なら、ぞっとする。……矛盾してるだろ。それに、自分が誰かを愛してしまったらと思うと、ものすごく、怖いんだ。……気持ち悪いだろ、大の男が『愛』に怯えてるなんて」
あまりの内容に、軽々しく何かを言うことはできない。
それでも、首を横に振って、そこだけは否定しなくてはと、リューンは口を開く。
「気持ち悪くなんてありません。決して。イオは愛について、誰より考えているんです。……だから昔から、告白してくる方にそっけなかったんですね」
「あいつらは〝イオルド様のため〟と言って、自分がしたいことをしているだけだ。愛でもなんでもない、虫唾が走る」
意識して声色を明るくして、リューンは作り笑顔を浮かべた。
「私は誰かに愛されたことがないので、何とも言えませんが……でも、そうやって相手を思いやれるイオに愛される人は、きっと幸せですよ」
「リューン? リューンはたくさんの人に愛されてるだろ」
今まで親戚の家をたらいまわしにされたり、軍でもさんざん嫌われたりと、リューンは特に人に愛された記憶はない。当然、愛の告白だって、受け取ったことなどない。
思わず苦笑いしてしまう。
「誰にも言われたことないですねぇ」
「……リューンを好きになる人間は、リューンの幸せをちゃんと願ってるんだ。だから言わないんだよ」
「うーん。まあ、私は人に好かれるような人間でもないですし」
「自覚がないのか。マリベルだって、今まであんなにリューンを嫌っていたくせに、ちょっと二人きりで話したくらいで骨抜きになっただろ? 軍でだって、リューンはモテてたよ。……俺が隣にいたから、近寄れなかっただけで」
「そんなまさか」と、リューンはイオルドの冗談を笑った。
確かにマリベルは、態度が激変したとは思う。
しかしそれは戦闘中にやむを得ず二人きりになったという、ありえない経過による親睦の結果論である。
人を愛すること、愛されること、それを伝えること。
いつだって難しくて、リューンにはその成功体験もない。
でもイオルドの重い過去の話を知った今、彼の『誰も愛さない』という言葉が、リューンを拒絶するものではないと理解ができた。
今はもう、それでいいと思えた。
リューンはつとめて声色を明るくして、話題を切り替えるように「イオは」と問いかける。
「イオは今、やりたいことはないんですか? 私はこの田舎暮らし、恋人がいなくたって、中々楽しく過ごしています! 今やりたいのは、冬を越して、春に種を蒔いて畑をつくることなんですけど」
きょとん、と虚を突かれたような顔をしたイオルドは「やりたいこと」と繰り返す。
そして何かを思いついた様子で、彼はリューンをうかがうように見た。
「できれば、その……俺は、リューンと一緒にご飯が食べたい。できれば、毎日」
「ご飯ですか」
それは現実問題で、少し難しい望みであった。
王都に住居があるイオルドが毎日この村に来るのは大変だし、リューンが王都に行くのもまた同じく時間も手間もかかる。
しかし、一緒に食事をしたいと言ってもらえるのは嬉しいことで、リューンは『無理です』とは言いたくなかった。
「なら月に一回とか、どうでしょうか? お互い負担なく予定を合わせられる気がします」
しかしその提案には、イオルドは頷かない。
「……何を食べても、リューンと食べたことを思い出すんだ。一緒に食べたことがないものだと、リューンならどんな顔して食べるかって考えてる」
「は、え?」
「何食べても『リューンが居たらこう言うだろうな』って考えてる。『おいしい!』『もうちょっと食べたかったです』とか、なんとか、色々言いながら食べるだろ?」
「なっ、な、まるで、私がすごく食いしん坊みたいじゃないですか!」
照れ隠しで言い返してみせるが、ドッドッと音を立てる心臓から血が集まって、耳があっという間に熱くなった。そんなに自分のことを思い出していてくれるなんて! と、喜びで叫びだしたいような、恥ずかしいような、リューンはたまらない気持ちになる。
「それにリューンの作る飯が一番うまい」
「そっ、そんな、褒めても何も出ませんよ! レパートリーにも限りがありますし!」
「俺も作るよ」
どこか吹っ切れた様子のイオルドは、すっかりその気でいる。
はにかんだように笑うその顔を見れば、リューンだって、毎日イオルドと会えたらなと思ってしまう。
「でも! その、イオの家は王都にあるでしょう」
しかし現実問題、アルド村には長期滞在できるような宿は存在しない。
ドラゴン討伐前にアルド村に滞在した際には、イオルドは山の中で野宿をしていたらしいが、冬場はさすがに心配になる。かといって、リューンの家に「はいどうぞ」と、住まわせるわけにもいかない。
「ああ、そうだ。ここの横の土地、買ったんだ。だから、俺もここに住める」
「は⁈」
「リューンのこの家の建て替えを手伝いたいって言ったら、あのドン店長が売ってくれた。俺が寝泊まりする小屋くらいならすぐに建てられるし、俺はそこで暮らそうかな」
「小屋って……冬ですし、寒いでしょうに」
「じゃあリューンの家に住まわせてくれるのか?」
ニヤッと笑うイオルド。リューンがふるふると首をふって「いや、それは……でも、小屋は、ちょっとさすがに」と言うのを、彼は大きな口を開けて笑った。
「雨風さえしのげれば、俺は大抵のことは魔法でなんとかなるぞ。ああ、トイレは必要だな。……まあそうだ、秘密基地みたいなものだと思ってくれ」
「秘密基地」
「男のロマンだろ、秘密基地。まあすぐに出来る、見ててくれ」
暗い話過去の話などなかったように、明るい笑顔でイオルドは「楽しみにしてろよ」と窓の外、リューンの家の横の空き地に視線をやるのだった。