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狐と仮面

作者: 法橋籐士郎


 父の遺体はベッドの上に静かに横たわっていた。寝ている間に息絶えたのだろう、周囲に格闘の跡はなかった。

 睡眠は死んでいる状態と殆ど同じだと聞いたことがある。だとしたら父はまだ自分は眠っているのだと思っているかもしれない。苦しみを味わないうちに絶命しただけでも幸いだったのだろう。

 死体検分をしている鑑識官たちの隙間から、私は父の遺体を覗いた。首から下には異常は見当たらない。普段通りの寝間着姿だ。警察が――いや、死体を見た誰もが異様だと感じたのは、父の顔だった。

 

 父の顔には狐の仮面が付けられていた。

 

 仮面は警部と名乗る肥満した男がはじめに取っていたので、今父の顔に仮面は付いていない。同じ警部によると、額に鈍器で殴られた跡と大量の出血が見られ、それが直接の死因だろうということだった。仮面は額の傷を隠すため、若しくは単なる狂言のために付けられたのだと警部は結論付けた。

 鑑識官が仮面を証拠品として押収するとき、私はちらとそれを盗み見た。

 表は白い狐の顔をしている。前に向いた耳と口が濃い朱で塗られ、スッと尖った鼻梁には緑が彩色されている。額には何やら紋様らしきものが施されている。釣り上がった双眸は鈍い金色である。

 鑑識官が仮面を翻したので裏側も確認できた。仮面の裏側は一転滑稽なほど味気ない。ただ目や鼻の凹凸があるばかりで、仮面が外側に向けられたものだということが厭でも判ってしまう。

 だがよく見ると、額の辺りにどす黒い染みがついていた。疑いの余地なく、それは父の血だった。

 もう一度父の亡骸に目を遣った。お腹の底で熱い何かが沸々と煮えたぎり、

「どうしてこんなことに……」

 私は唇を噛んだ。

 小刻みに震えだす私の身体を、隣にいた母がぎゅっと抱きしめてくれた。「大丈夫、大丈夫」と母は嗚咽を噛み殺した声で囁いた。私は母の少し痩せた身体に手を回した。

 母は――娘の私が云うのもなんだけれど――今日稀に見る人格者だと思う。無駄に波風立てることを好まず、たいていの物事を滑らかにこなす。決して相手に媚びを売ることをせず、加えて相手の性格を見極める能力に長けているので交渉術は類稀なるものをもっている。その能力が不世出の敏腕社長秘書として母の名を世間に轟かせたのだ。

 その社長と云うのが他ならぬ父だった。父の実家、つまり私の祖父母の家は金満家と云うわけではなく、ごく平凡な市民だった。だが父はそんな生活に甘んじることができず、幾つかの職業を経験したのちとうとう起業した。時代の潮流はまさにデジタル移行期であり、その波に遅れじと父は半導体集積回路を取り扱う会社を設立したのだ。経済感覚に鋭敏な頭脳と勤め人時代に作った多方向へのパイプを駆使しながら、父は徐々に会社の存在感を増幅させていった。やがて日本各地に支社を持ち、さらには海外に工場まで作るなど、その勢いはもはやブレーキ知らずだった。

 父と母が出会ったのは会社が波に乗る少し前のことだったらしい。当時から母は父の右腕、いやそれ以上の活躍をしていたと云う。経営状況が安定しだして間もなく、父と母は結婚した。数年後に第一子である私が産声を上げ、すくすくと育ち現在十五歳になる。

 自分一代で成り上がったと云うことで、当然のように父に対し憎悪の念を抱く者は何人もいた。無理矢理会社を吸収合併された者や、不当な理由でクビを切られたものなど、被害者は十指に納まらない。私はそれをどこで知ったのだろう。もう忘れてしまった。

 最近になって、父は母に暴力をふるうようになった。それも私が見ていないときを選んで攻撃するのである。母はそれを私にずっと黙っていたが、袖口に見える手首の痣や火傷の跡を見れば明らかだった。

 父は陰で「狐」と呼ばれていたと云う。勿論蔑みを込めたものである。だから父の遺体に狐の仮面が付けられていと云うことは、犯人が父の蔑称を知っている人間だと云うことを示唆している。

「奥さん、ちょっと……」

 太った警部が母を手招きで呼んだ。母は私を包む手を解き、警部の許へ行った。私はその場で耳をそばだてた。

「これですが――」と云って警部がティッシュ箱サイズの懐中電灯を取り出した。それは昨今の節電ブームに合わせ父が買った、ラジオと携帯電話の充電器がついた懐中電灯だった。ハンドルがついていて、それを回すと電力がたまりラジオが聞け、さらには携帯電話も充電できる。停電時などに役立つものだが、それは終ぞ本来の目的で使われることはなかった。

「これはお宅のものですよね」

 警部が続けた。

「……はい」

 母は伏し目がちに答えた。

「こちらの寝室に置いてあったのですか」

「はい、停電時に役立つと云うので」

「ホウ。でもどうやら、これは別の目的で使われたようですね」

 私はその懐中電灯を見た。角の辺りに染みがついている。これも父の血である。

 それこそ父を殺めた凶器だった。

 私は寝室を出、自室に戻った。これ以上現場にいることが耐えられなくなったのだ。

 扉を開け、暫く電灯のない部屋に籠っていた。家を動き回る警察官の足音が壁を通して伝わってくる。

 電気のスイッチは扉の横にある。スイッチを倒し、二、三回点滅したあと、部屋の暗闇は取り払われ――

 

 壁一面に浮き上がった無数の仮面が私を見下ろしていた。


 縁日で売っているキャラクター物の仮面から、ヴェネツィアのカーニバル仮面まで、壁には私のコレクションである仮面がずらりと並んでいる。その端に、狐の仮面もかかっている。

 狐の仮面は去年、初詣で京都の伏見稲荷神社に行ったとき母に買ってもらったもののひとつだ。父はそれを汚らわしいものでも見るような目で見ていた。きっと自分が「狐」と呼ばれているのを知っていたのだろう。もしかしたら、伏見稲荷に行く少し前に知ったのかもしれない。

 私はそれが気に入らなかった。世を拗ねたような狐の目は人間には真似できない。真理を自ら曲げて見つめる狐、その仮面は私を違う人間にしてくれる。いや、それはもう人間などではなく、狐そのものに魂を寄せることができるのだ。

 母を執拗に傷つけ、私の仮面を蔑んだ父――私の感情が暴発するのは無理もなかった。私は寝室にあった懐中電灯を手にし、寝ている父の額に数回叩きつけた。父の寝息は途中から聞こえなくなっていた。眠っているように見えたが、その顔は奇妙に色褪せていった。それが不気味で私は部屋にあった狐の仮面を父の顔につけたのだ。だが、お気に入りだった仮面に父の血がついてしまったことは失態だった。

 当然嫌疑を逃れる工作などまったくしていないので警察が私を署に連れ出すのも時間の問題だろう。だがそれは初めから予想していたことだ。後悔は殆どない。たったひとつ、母を一人残してしまうことだけが心残りではあるが……

 私は壁の仮面たちをひとつずつ見遣った。整列した仮面は空っぽの瞳を私に注いでいた。

 それは何も見ていないようで、またすべてを見通しているような色をしていた。

 かつて僕が就職活動をしていた頃の話です。

 某企業の筆記試験で作文がありました。作文は「与えられた三つのキーワードを使って八百字以内の作文を書きなさい」というものでした。そのとき僕が焦った頭で考え出したのがこの「狐と仮面」の下地となっています。試験から幾星霜経った今、当時の記憶を思い起こしつつ、加筆修正を大幅に加え投稿した次第です。さらっと書いたものなので瑕瑾が見つかり放題……なんてことにはならないように祈ります。

「三つのキーワード」はなるべく残そうとしましたが、ひとつだけどうしても不自然になるものがあったのでそれだけ除外しました。裏を返せば残り二つのキーワードは試験当時と変わらぬ使われ方をしたということです。それが何なのか、探してみるのも面白いかもしれません。きっと無理矢理押し込まれたような単語が実はキーワードではなく、反対に極自然に使われているものが本当のそれなのでしょう。豚バラ肉を隠すなら肉屋ということです。

 ちなみに答え合わせは今のところするつもりはありませんが、いずれ何かの形でそれを皆さまに知らせられればとも企んでいます。どうぞお楽しみに。

 お読みになっていただいた方、どうもありがとうございました。次は短篇を載せる予定です。

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