弟九章 本庄篝火
鴨は目を閉じたまま、身動きもせずに座っていた。生木が爆ぜて小さな音をたてる。その度に火の粉が飛び散り炎の先端を彩ってゆく。春の宵の冷えた空気が炎に暖められ、空間にわずかな風が起こる。風が動き、炎が轟と鳴る。
鴨の透き通るように白い頬が揺れ動く炎に照らし出され、なまめいた女の肌のように見えた。
不思議な男だと五郎は思う。修羅のように激しいと思えば、次の瞬間には幼子のように無心で、捕らえどころがない。五郎は鴨の後ろで、この成り行きをじっと見つめていた。
上州本庄宿。江戸より二十一里十四丁。中山道はここで下仁田越えへと道が別れる。真っ直ぐ行く人、道をそれる人、合流する人で宿は活気に満ち溢れていた。
とっぷりと陽が暮れ、往来のど真ん中には、燃え上がる炎の塊と黒山の人だかり。この宿で前代未聞の騒ぎを起した張本人は芹沢鴨。この男だ。
発端は宿割役が芹沢組の宿割りを忘却したことにある。
鴻巣を出立し九里三十三丁の道中を歩き詰め、芹沢組はようやく本庄宿へ入った。皆が安堵の表情を見せる。
「今日はよく歩いたなあ。」
「なあに、これからはこんなもんさ。」
「早く湯へ入って、飯にありつきてえな。」
芹沢組の連中の口をついて出てくるのは、湯と飯の話ばかりだ。もうすでに体は宿の座敷に寝そべり、伸びをしているらしい。
しかし一向に宿へ入れない。いったいどうなっているんだと鴨が苛つく。苛ついているのは鴨だけではない。試衛館の連中も同じだ。こうしているうちにも、歩き詰めて汗ばんだ体から体温がじんわりと奪われてゆく。
「まだかよ。寒いぜ。」
両腕を抱え身を縮めて訴える奴もいる。腹が空いていればなおさら寒気が身に沁みる。
鴨は腕を組んだまま、地面を右足の爪先でなぞっていた。重助は予感がした。良からぬ事を考えているに違いない。
芹沢家の用人という平間家代々の職を継ぐため、十一の歳から芹沢家に仕えてきた重助だ。鴨の扱いには慣れていた。おおかたの事は仕草で察しがつく。何かしでかす前に、鴨はゆっくりと助走する。いきなり暴れたりはしないのだ。いいかやるぞ。着いて来るか逃げるかは、お前らの判断に任せる。そういう合図なのだ。
やがて鴨は顔を上げ、一言吠えた。
「火を焚け。野営をいたすぞ。」
鴨は宿が決まるのを指をくわえて待っているつもりはない。
―始まったな。久しぶりだ。玄太様の悪戯に付き合うのは。
つい懐かしい幼名が重助の頭をよぎる。悪戯の後始末は、いつも重助の仕事だった。鴨が重助に目配せをする。いつでも火を消せる様にしておけということだ。重助は頷いた。懐かしい。また鴨とこうして居られる。重助は嬉しかった。
鴨は考えていた。とにかく暖をとらなければ。このままでは芹沢組は一同風邪を引いてしまう。それは避けたい。
明日には松井田の宿へ入る。その目前に横川の関。そして名だたる分水嶺、碓氷峠が控えている。和宮降下の折りに峻設工事が施され、多少なりとも越え易くなったとは言え、難所のひとつには違いない。一同揃って無事越えて行かねばならない。
中山道は東海道と違い、大きな河川に阻まれることはない。川止めなどで余計な路銀と日数がかかる心配はない。これは公務だ。遊山ならば一月程かける所を十六日で踏破する。
碓氷峠を越えると、浅間山を右手に臨みながら信州佐久軽井沢、追分と歩く。その先には中山道最大の難所、和田峠が控えている。
そして塩尻からは山深い木曾路へ入る。木曾路はまだ雪の中だろう。ひとりの落伍者もなく、無事京へと連れて行く。それが頭としての勤めだ。
五郎が鴨の左肩を軽く叩いた。鴨は、はっと目を開いた。びくりと動いた背中を訝しんで五郎が尋ねた。
「いったいどうしたんです。」
どうやら意識が途切れていたようだ。そのわずかな間に夢を見ていた。殺される夢だ。痛みが背中を突き抜けた。そして血の滴る生々しい感触が首筋を這う。思わず拭ってしまい掌を確かめる。炎が映り込んで朱い。
「そんなことは、気に病まれんことだ。」
「そうだな。」
たかが夢だ。弱気になどなってはいられない。
「それより、どう収めるつもりですか。これ。」
五郎がこの有様を顎でしゃくって言う。皆が面白がって焚付けを投げ込むので、炎は思いのほか大きくなっていた。
「火を消す手筈は、重助に任せてある。しばらく好きなようにさせておけ。」
こんなことぐらいで動じる鴨ではない。
「心配無用だ。」
いつもの豪傑がそこに居た。しかしついさっき垣間見た、鴨の迷い子のように頼りなげな表情は、いったいなんだ。五郎は肉付きのよい鴨の肩に手を置いたまま、同じ炎をみつめながら模索していた。
やがて野次馬の中から、宿役人が転がり出てきた。
「いったいどういうことだ。火が軒に移って火事にでもなったらどうなさるおつもりか。早々に火を消されよ。」
声がうわずっている。緊張のあまり語尾が裏返り、見ていて気の毒なほどだ。宿役人の言っている事は正い。だが鴨はうるさいと言わんばかりに彼を睨みつけ、ぬっと立ち上がった。
「言われんでも、分かっておるわ。」
高い所から、声が降ってくる。思わぬ身の丈に恐れを為した宿役人は後退りし、刀の柄に手を掛けた。
その瞬間だ。鴨は懐の鉄扇を握りしめ、そのまま抜き取り振り上げる。こめかみのあたりで手首を返すと、鉄扇が空を切って翻る。右足を一歩踏み込むと同時に手首を絞る。
宿役人は観念して強く目を閉じた。鉄扇の要が宿役人のこめかみへ届く寸分前のところでぴたりと止まった。
振り切ってしまっていたら、間違いなく額の骨が粉々に砕けただろう。
「命びろいをしたな。」
鴨が体を傾け役人に耳打ちした。最初からそのつもりはない。少し脅かしてみただけだ。ざわついていた野次馬達も一斉に黙り込み、炎の燃え盛る音がひときわ大きく聞こえてくる。
宿役人がへたりこんだ所へ、徳太郎が忙しなく走って来た。
「申し訳ない、申し訳ない。どうにか宿を都合しました。さあ入って下さい。それにしても派手にやりましたね。」
「徳さん。あんたが悪い。待ちきれなくて、こんなことになってしまったぞ。」
鴨は徳太郎にこのような暴挙に到った言い訳をするのに余念がない。
「風邪でも引いたら困るだろう。俺にも責任というものがあってな…。」
「はい、その通りです。私が悪い。」
徳太郎が鴨を宥める。鴨はまるで恋人にむかって拗ねている若い女のようだ。五郎や重助は、火を消しながらおかしくて仕方ない。
「先に行ってるぞ。火を消すだけでいい。早く宿に入って飯を食え。」
鴨は、徳太郎の後ろで畏まっている勇の肩を軽く叩いた。
宿の手配を誤ったのは勇だった。それを分かっていて、鴨も徳太郎も一言も勇を責めない。その寛容さがかえって勇には重い。
歳三が舌打ちした。
「皆いい気なもんだな。」
炎の向こう側にちらつく鴨の姿を観察していた歳三は、彼が傍若無人に見えて、実は人の心理を巧みに利用し皆を自分の意志の方向へ引き付けようとしている事に気付いていた。
もちろん計算しているわけではないのだろう。あの男は感覚でそれを計っている。
「どういうことだ。」
「歩き詰めで、道中がんじがらめだ。酒も女もやらねえとあっちゃあ、溜まるもんもあるだろうが。」
「そうだな。寄せ集めの猛者ばかりだ。いつ何があってもおかしくはない。」
勇はそれでも歳三が機嫌を損ねている訳が分からない。
「この騒動で、俺達はみごとに気を抜かれちまっている。」
それに、鴨はこれでますます名を上げた。どうやら天狗崩れというだけでは足りないらしい。
芹沢鴨恐るべし。多分この意識は皆の頭に張り付いて離れないだろう。歳三はそれが気にいらない。
勇が試衛館の連中と離れている隙間を狙って奴等が忍び込んでくる。永倉新八は鴨と剣術の同門だ。それだけで舞い上がっている。山南敬介や藤堂平助の頭の中は、すでに尊皇攘夷の色にきれいに塗り込められてしまっているようにみえる。
「あんたもあいつらみたいに、芹沢の懐に潜り込みたいんじゃないのか。それができねえからふてくされてやがる。」
図星だ。歳三は顔色を変え、手にしていた半分焼け焦げた材木を地面に叩き付けた。
「口にしていいことと悪いことの区別がつかねえかよ。」
吐き捨てるように言うと総司に背を向け行ってしまった。
「何様だってんだ。ばかばかしい。ほんとのことを言われて怒ってやがる。」
「何をぶつくさ言ってるんです。」
建司が声をかけた。
「なんだ。あんたか。」
伝通院でのいざこざがなんとなく後を引いて、言葉を交わすのはあれ以来だ。
「芹沢さんってのは、いつもああなのか。」
「さあ、俺もあんなの見るのは初めてだ。話はいろいろ聞いているが…。驚いたな。」
「でも、すげえな。面白えだろう。ああいう人と一緒なら。」
「面白いか。あんたも変わったことを言うな。」
あの人はただ一生懸命なだけだ。建司が言う。
「あんたは、どうなんだ。頭の中は尊皇攘夷だらけか。」
建司は総司と同い年だ。何を考えているのか知りたい。建司がくすくす笑いだした。
「そんな訳ないでしょう。」
「そうか。安心した。でも、そのために命をかけたりはするのか。」
「尊皇攘夷の為に死ねるかと言われば、良く分からないな。ただあの人の為には死ねますよ。」
「芹沢さんのためにか。」
「そうです。」
「わかんねえな。そういうの…。」
総司は呟いた。にこにこ笑って誰かのために死ねると言える神経が総司には理解できない。
俺は近藤勇のために死ねるか。総司は首を振った。まだ誰のためにも、何のためにも死ねない。死にたくない。まだ自分自身が何者かさえ解らないのに。
静かになった往来には、材木の焼け焦げた匂いが充満していた。
宿の二階の窓に寄り掛かり、若い浪士がひとり、この光景を眺めていた。
「芹沢鴨か。兄上、ついて行くならあの男だな。」
男は目を輝かせる。
「千松。いい加減にしろよ。さっきまでは、清河先生は男の中の男だと言っていた、その舌の根の乾かん内になんだ。恥を知れ。」
千松と呼ばれた若者がにやりと笑った。
「俺の存在自体が、すでに兄上の恥ではないんですか。」
「馬鹿をいえ。それならここまで連れては来ない。ただ、こんな状況だ。身を慎め。」
事の顛末を見届けた千松は、静かに障子を閉めた。なにげない兄弟の会話が、閉じられた障子の内側に溶けていった。