第八章 出立
いよいよ京へ出立です。鴨ら水戸派と試衛館の面々がようやく顔を会わせます。
錦の悪夢は、夜毎彼の神経を苛んでいった。
「出ませい。」
の声に、今まさに牢から解き放たれようとしている。
悪夢の始まりは、いつもここからだ。
暗い牢の向こうには俗世への入口が開いている。光が眩い。
誰かの影が早く来いと手招きしているように見える。誰かは定かではないのだが、その輪郭に懐かしさを禁じ得ない。
思わず光の中へ踏み出そうとすると、光がほんの僅かに遠のく。何度もそれを繰り返す。
―早く来ないか。
光の中から声がする。しかし、一向に外へ出られない。不安がよぎる。
まるでその瞬間を狙っていたかのように、亡者の蒼白い手が錦の足首を掴む。抗えないほどの強い力が彼を引き倒し、再び闇の中へ引きずり込もうとするのだ。
いつもそこで目覚める。悪夢を振りほどくように目を覚ます。 この寒さだというのに額に脂汗が滲んでいる。その汗を拭う。
いつかこの悪夢から解き放たれる日が来るだろうか。しかしその日を手をこまねいて待ってなどいられない。
錦は辺りを見回した。闇は僧坊の隅に溶け込んでさらなる闇を創り出す。この深い漆黒の闇の中に背中を丸めて潜んでいる亡者を 今にこの手で白日の下に曝してやろうじゃないか。
翌日には試衛館から近藤勇らが合流した。
勇は山岡鉄舟とすでに面会を済ませていた。旧知だからという訳ではない。講武所教授見習い内定がお流れになった件が絡んでいた。
鉄舟が温情をかけたのだ。
この浪士組編成を提言した松平主税は講武所剣術教授方であり、彼を看板に祭り上げている鉄舟も講武所の人間である。あの一件では勇に同情していた。
「待っていましたよ。やっと来られましたな。」
「いや大勢の人ですね。思いもよりませんでした。」
いたって機嫌よく応対する鉄舟に、水戸勢は眉を顰めた。
「えらい対応の差だな。役に立っているのは俺達の方なのに。」
健司が鼻の穴を膨らませて言う。
「止めておけ。そんなことで肩を張っていても一文の得にもならんぞ。さあ持ち場へ散った、散った。」
鴨が一喝した。
人数は膨れ上がって三百名にも及んでいる。無駄話などしている暇はない。
「ところで、あの方達はどちらかの御家中で。」
勇は鴨らがすでに幕臣に混じって立ち働いているのを目敏く見付け、鉄舟に尋ねた。
「どうも目付きが尋常ではないように見受けますが。」
「さすが近藤さん、判りますか。あれは水戸の天狗崩れですよ。暫首を免れないところを清河君の肝煎りで、赦免になった奴等ですよ。」
「水戸の天狗・・。桜田門外で大老を襲った奴等ですか。」
「その一派です。考え方の相違とやらで本隊とは袂を分かったという触れ込みです。が、さてどうやら。」
鉄舟が彼等に余り良い感情を抱いていないのが、言葉の端々から感じてとれる。
視線を感じたのか、一番体躯の良い男が振り向いた。勇が初めて鴨と出会った瞬間だった。その時二人は軽く会釈を交わした。
その頃、鴨に持ち場へ戻れと言われ、境内を横切ろうとした健司は、若い侍とぶつかってしまった。
「つっ。」
健司の刀の柄が、男の腰骨に当たり、男は顔を歪めた。
「これは申し訳ありません。お許し下さい。」
面倒は避けたかったので、健司は下手に出た。
そのまま過ぎようとしたが、健司の態度がぞんざいに見えた男はそれを許さなかった。
男が眉間に皺を寄せ健司の肩を掴んだ。
「そっちからぶつかっておいて、そりゃあねえだろうが。」
「だから謝ったではないか。」
健司が気色ばむ。二人が睨み合う。
「総司、やめねえか。下らないことで争ってんじゃねえ。」
すらりとした姿の良い男が中に割って入った。歳三だ。そして、もうひとりの男は総司。総司は仕方なく掴んだ健司の肩を乱暴に放した。
「どうした健司。持ち場へ戻れ。」
錦が揉め事の雰囲気を察し、健司に助け船を出した。
「何か無礼が有りましたら、私に免じてお許し下さい。私は水戸浪人新見錦と申します。この者は、同じく野口健司。この度は、ご苦労様です。」
頭を下げる錦に促され、健司も仕方なく頭を下げた。そうまで下手に出られては、これ以上因縁の付けようがない。
「こちらこそ無礼をいたしました。試衛館道場から参りました土方歳三と申します。よろしくお願い致します。」
歳三も頭を下げた。それが筋というものだ。しかし、総司は口を尖らせ顎を上げたままだ。向こうの方が一枚上手だと思う。
「ガキじゃあるめえし、たいがいにしなよ。短気はいけねえ。」
「俺には、あんたみたいに器用な真似はできねえな。なあ薬屋さんよ。」
総司の毒舌には慣れっこだが、時には許容の範囲を超えることがある。
―しめえにぶっちめるぞ。
腸が煮えくり返りそうになるのを 臍に力を入れてぐっと抑える。
「あれが水戸の天狗だそうだ。筋金入りはさすが違う。」
新八が素早く情報を仕入れて来た。話には聞いていたが、そういう奴等と行動を供にできるとは、面白いことになった。それだけでも来た甲斐がある。歳三は錦の後ろ姿をじっとみつめた。
いよいよ京へ向かって出立の日だ。浪士に配られる支度金は一人二両に引き下げられた。
それでも二百四十人あまりが、そろって出立する運びとなった。
松平主税は罷免され、浪士取締扱いには、鵜殿鳩翁が任じられた。
そして浪士には二人扶持十両が与えられることになった。これで取りあえず烏合の衆に幕臣としての体裁が整った。
勇は池田徳太郎に就き先番宿割り役として、未だ明けやらぬ江戸の町を旅立った。
「松平殿はどうされましたか。」
足早に歩きながら勇が徳太郎に尋ねる。
「罷免されました。幕閣から詰めの甘さをつつかれたのでしょう。」
「そうですか。」
勇は主税の下で働くのを楽しみにしていた。大きく当てが外れて落胆した。
「天狗崩れとやらが幅を利かせているように見えますが。」
「あの人達は、集団を扱うのに慣れていますからね。芹沢さんなどは、三百人の人間をその配下に置かれていたそうです。」
「せりざわ・・・。」
「山岡先生と同じくらい体の大きい人が居たでしょう。あれが芹沢鴨。」
「鴨。また妙な名前だ。」
「いやいや、鵜殿先生が鳩ですからね。鴨もありでしょうな。豪放磊落といいますか。気性は荒いですが、なかなかの人物ですよ。」
徳太郎がやけに褒めるので、勇は鼻白んだ。
「水戸には気性の激しい人が多い。藩風でしょうね。尊王思想も子供の頃から染み付いている。我々などは足許にも及びません。」
徳太郎は愉快そうに高い声で笑った。
「ずいぶんと御詳しい。」
「小伝馬町の牢で、しばらく一緒でしたからね。」
「池田殿は、またどうして牢などに。」
「清河先生の一件に連座したまでのことです。」
徳太郎は厳しい経験をさも簡単なことのように言ってのける。
天狗崩れの連中もつい最近まで獄に繋がれていたという話だが、そんなことがあったかという働きぶりだ。
それに比べ、自分は時代に取り残されている。
勇は舌の奥の味蕾に広がる苦味を帯びた唾を飲み下だした。
「なあに、入牢していたからといって、それが偉いと言う訳ではありませんよ。そんな経験など無い方がいいに決まっている。」
徳太郎は勇の焦りに似た気持ちを察して言った。
すでに時代は濁流となり眼前に横たわっている。勇はようやく岸辺に立ち、泳ぎ始めた者達に続こうとしているのだ。
「まあ焦らないことです。それより近藤さん、宿割りの仕事も侮れませんよ。なんせ二百四十人の大所帯ですからね。」
飲み下だした苦味が勇の胃の中に溜まってゆく。それとは対照的に徳太郎は、芽吹こうとしている春を僅かに萌え出る緑から拾い集めているように楽しげだ。
徳太郎は道すがら故郷の話を語って聞かせる。
彼は瀬戸内に浮かぶ生口島に生まれたという。
故郷の波打ち際に迫る段段畑。そこにたわわに実る蜜柑の橙色。吹く風に乗り鼻先に届く潮の香。輝く海に漕ぎ出す伝馬船の帆影。遠い西国の穏やかな風景を軽やかに伝える。
お喋りに紛れていつの間にか歩が進んでいるのに、勇は驚かされる。
それにしてもこの男、凡庸に見えるが、各地で学問を修養し私塾まで開いていた。それを投げ打って、昌平坂学問所へ入り、さらに学問を修めた英才だ。しかもそれをおくびにも出さず、宿割り役などに甘んじているのが、勇には解せない。
「人には向き不向きということがあります。」
徳太郎は言う。この男には野心の片鱗も見てとれない。
「久しぶりに島の話をしていたら、干し蛸で一杯やりたくなりましたよ。これを炙って食うとまた美味いんですよ。」
徳太郎は笑いながらずんずん先を歩いて行くのだった。
ようやく空が白み始めた。朝露に湿った空気が大気の底に滞っている。二百四十人の浪士達は旅仕度を整え整列した。
芹沢鴨、新見錦。共に三番隊小頭を務める。
粕谷新五郎が取締役付きだというのに、なぜ鴨が三番隊小頭なんだ。錦が不満の意を表したが、鴨がそれを喉元で修めさせた。
処静院の境内に点呼の声が響き渡る。
「私、芹沢鴨。三番隊小頭を務めます。よろしくお願い致します。」
鴨がゆっくり頭を下げる。それではよろしいかと言わんばかりに、皆を嘗めるように見渡した。
伍隊は十名一組。鴨の下には、五郎、重助、健司はもとより、試衛館から参加した山南敬介、永倉新八、藤堂平助、土方歳三、沖田総司、原田佐之介が配された。
少しは名の知れた天狗崩れの配下に組みされるとは、身の締まる思いがする。特に敬介や新八ら時勢に聡い者達にとっては、願ってもない人事だ。体内を駆け廻る血が、沸き立つようだ。そして歳三は、じっと錦を見ていた。
しっかりと伸びた背筋。強いまなざし。彼の抱え込む闇の世界など知る由も無い歳三は、その背中に存在する意志が何者であるか知りたいと思う。
錦が振り向きざまに歳三の視線を捕らまえ、唇からこぼれた笑みを返してよこした。
―あの男と俺とどこが違う。
歳三は手のひらに折り込んだ親指を握り締めた。
「それでは三番隊芹沢組、出立致します。」
吐く息も白く、草鞋がざわりと土を踏み締める。歩き始める音が重なり合い、木々の梢を振わせた。山の端にたなびく鈍色の雲に、昇り始めた太陽の光が映え、銀色に輝きはじめる。それぞれが別の想いを抱き空を仰ぐ。美しい朝空の風情に胸がすくようだ。
目指すは今を時めく京の都。足取りも軽く心逸らせ、浪士達は意気揚々と中山道へ分け入った。