第七章 再会
芹沢鴨。いよいよ浪士組として始動します。ここに、ふたつの再会が。新見錦。そして池田徳太郎。
早朝の町の賑わいは、清々しい。通りの真ん中を弾むように転がって行く。
どの店も裏店に到るまで活気に満ち溢れ、そんな町の威勢よさが、鴨の腹の底から湧き上がって来る喜々とした感情を上げ底してゆく。
できるだけ平静を装っている鴨や五郎に比べ、重助や健司は正直だ。
徒に傍らをくすぐってゆく躍動感の眩しさに心を取られ、振り返りながら前へ進む。
「ほら、前を見て歩け。」
振り売りにぶつかりそうになった健司を鴨が諫める。
健司は首をすくめた。健司だけではない。四人ともが浮き足立っているのだ。
「しょうがないなあ。田舎物丸出しだ。」
そう言う五郎も珍しく楽しげだ。自然と頬が弛むらしい。
密命を携えているといっても、実感は湧かない。水戸を離れてしまうと、益々その緊張感が何処かへ拡散してしまう。
それで丁度いい。今から気を張り詰めて居ても仕方ない。
成る様にしかならない。成さなければならない時は、道理を曲げてでも成す。
今迄鴨は、大概をそうやって切り抜けて来た。
そのせいで、粗暴な奴などと陰口を叩かれていることも知っている。
ー言いたい奴には、言わせておけばいい。
そう嘯いてみようにも、この度は随分と勝手が違う。間者として役に立つかどうか、鴨自身が不安を拭い切れないでいた。
押しの強さだけでは、くぐり抜けて行けない事もあるだろう。
それを考えると、高揚していた気持ちが一瞬萎えた。
「先生、ぼんやりしてないで早く。置いて行きますよ。」
今度は鴨が健司に叱咤される番だった。
「考えても仕方無い事は考えない。そうでしたよね。」
五郎が耳打ちした。この男は見えない方の目を眼帯で覆っている。どうにも厳つい。けれど実は繊細な男だ。人の心の微妙な動きを即座に感じ取る。
言われて鴨は気を取り直し、背筋を伸ばした。広げた胸隔に、朝の鮮烈な空気が入り込む。
さすがに伝通院の門前辺りまで来ると、賑わいも一段落する。
それでも、普段は森閑としているはずの空気が、忙しない。
鴨ら以外にも、浪士組に参加しようとする者が、伝通院の山門を目指して歩いて行く。
追い越してゆく者は、皆一応に鴨らを怪訝な顔で一瞥した。
「なんだか場違いな感じですね。紋付の羽織りなんて格好悪いですかね。」
健司が恥ずかしがる。少し長めに仕立ててあるのが当世風だと言って若者らしい拘りを見せていたのが、すっかり興覚めしたようだ。
「気にするな。男は恰好じゃない。」
鴨が健司の無駄話を遮った。
「先生に言われたくないですよ。」
健司が頬を膨らませる。そういう鴨の身なりが一番良いからだ。
やがて四人は伝通院の山門をくぐり、塔頭処静院大信寮へ入った。
「先生、あれを。」
鴨は重助に促され、その指差す方を見た。男がひとり、こちらの方に向かって深々と頭を下げている。重助にはそれが誰か判っているらしく、一段腰を落し頭を下げた。
ー伊織。
田中伊織に間違い無かった。名を新見錦と改めているのだから、錦と呼ぶべきなのだろう。鴨は思わず走り寄った。
「会えて良かった。」
喉元から絞り出した声が上顎にひっかかり掠れた。錦は頭を上げようとしない。
「先生には申し訳が立ちません。俺が白状したばかりに、先生に追っ手が掛かってしまい・・・」
「何を言う。俺が捕縛されたのは必然というものだ。お前の責ではない。さっ、頭を上げてくれ。」
鴨は錦の肩を何度も揺さぶった。
「先生、痛いですよ。」
錦がようやく顔を上げた。顔付きが以前と変わらない事に鴨は安堵した。
両の手首に、捕縛され後ろ手に縛られた時の、縄紐の痕が残っている。痛々しい。
「先生も同じじゃないですか。」
錦が骨張った指で鴨の手首を握り締めた。同じような痕がその手首にも薄く残っている。
「俺だけが、特別な目に合ったと言う訳ではないです。」
錦が俯く。
「獄で耐え抜いた誉れだ。そう思え。」
「はい。」
伊織が鼻を啜りながら笑った。端正な顔立ちをしているのだが、歯並びの悪いせいか、笑うと微妙に唇が歪む。鴨にはそれがひどく懐かしい。愛すべき笑顔だ。
「俺達が中に割って入れない親密さだな。」
二人の様子をみながら五郎が言う。
「供に戦われた仲です。私らには、計り知れん感慨があるんでしょう。」
重助が涙ぐんで声を振るわせた。健司までもが目を潤ませている。二人は貰い泣きを隠そうとしない。
ー感情の起伏が激しい奴等だ。
しばらく水戸に滞在して五郎はそう思う。
穏やかな内海で育った五郎とは、精神の持ち様が少し違う。
異なる風土で人格を形成してきた者達と深く関わるのは面白い。だから離れられない。しかし、どうやら再会を喜んでいるばかりではなさそうだ。
柔らかい表情の下にある錦の目が、ふっと笑いを取りこぼす。
「この先、桂先生との連絡役は、俺が務めます。このことは先生の胸にしっかり収めておいて下さい。」
鴨は解ったと、錦の二の腕を軽く叩く。
「ところで住谷らとは、どうなっている。」
すでに住谷寅之介ら数名の激派藩士が、一ツ橋慶喜とともに入京している。
一ツ橋家で信頼の置ける家臣を未だ持たない慶喜が、実家から有能な藩士を借り受けたのだ。
住谷は浪士組編成に先立ち、その周旋役を務めた男だ。
彼らは、浪士組が尽忠報国の士として上洛することを薩長土など雄藩烈強の激派有士に、内々に先触れしているはずだ。
天狗組からその趣旨を納得している者が、数名入り込んで居ることも如実に知らしめておく必要があった。
幕府の徒になりさがったなどと無用な批判を浴びるのは、鴨らも心外である。その為に行動が阻害されるような事は、極力避けたい。
それでなくても、この度の浪士組編成について、長州の桂小五郎が批判的であるという風聞が聞こえてきている。
もともと突出した行動派の清河八郎と、桂小五郎は気が合わないらしい。長州の急進派を唆する油断ならない奴だと、小五郎は感じていた。
鴨らが水戸を発った頃と時を同じくして、京ではこの急進派が集い意見の調整を行っていたのだった。
住谷らは宿舎である本国寺に逗留している。そして脱藩浪人という立場で天狗組の別動隊が入京して来るのを待っているのだ。
ーしかし。
鴨は錦に確かめておきたかった。
桂小五郎と清河八郎が相容れないのと同じように、藤田を総領とする天狗組と住谷一派はどこか相容れないところがある様な気がしてならないのだ。
ひとまず鴨は錦の案内で、浪士取締役の鵜殿鳩翁に挨拶を述べ、山岡鉄舟に頭を下げた。
機嫌が悪いのか鉄舟は仏頂面の会釈を返しただけでそっぽを向いた。鴨は面食らった。
「あまり気にされるな。」
奥から現れた清河八郎が肩を揺すって笑っている。
「いよいよ始まりますな。よろしくお願いしますよ。」
「なんなりと申し付けて下さい。訳の解らん輩の扱いには慣れていますから。」
と鴨はざわついている周囲をぐるりと見渡した。
「よろしくお願い致します。なにせこんな調子ですから。」
聞き覚えのある声がした。見ると池田徳太郎の姿があった。
ほんのしばらくの間だったが、徳太郎とは小伝馬町の牢で一緒だった。
彼は八郎の腹心だ。八郎を逃がすため、八郎の妻や弟と供に、囚われの身となっていたのだった。
「おう、元気だったか。」
徳太郎はそれに頬笑んで頷いた。八郎に鴨ら水戸天狗組浪士を推挙したのは、あるいは徳太郎であるかもしれない。
「供に命長らえましたね。」
徳太郎が感慨深げに言った。
「後は、何時どのように捨てるかだ。惜しい命ではない。」
「芹沢さんらしい。しかし、人は死ぬるべき時が来たら死ぬるものです。」
徳太郎は澱んだ空を見上げた。
「だったら、俺の死ぬべき時は何時なんだろうねえ、徳さん。俺は命の落とし所を見失っているように思えてならんよ。」
「あなたにしては、気弱なことだ。」
鴨も空を見上げた。先に逝った者達が、生き残った者の有り様を見下ろしているようだ。
「さあ、芹沢さんの腕の見せ所ですよ。期待してます。」
八郎はともかく、徳太郎の期待には是が非でも応えなければならない。徳太郎とはそういう仲だ。
幕府の役人や清河勢は、右往左往している魑魅魍魎もどきの連中に手を嫉いて居た。
侍から縛徒に至るまで、一癖ある輩ばかりだ。へたをすれば一触即発は免れない。
鴨を始めとする水戸勢は水を得た魚のように働き始めた。
健司が恥ずかしがった紋付き羽織りが、ここぞと物を言う。身なりの良さが圧倒的に他の追随を許さない。
触れ込みは天狗崩れだ。それを聞いて志を持つ者はたじろいだ。
ーあれが名高い水戸の天狗か。
囁く声が潮のように寄せて来る。その天狗が一段高い所から声を発した。
「浪士組に志願する者は、ここへ整然と並ばれよ。出自と姓名を名乗られたし。」
腹に響くよく通る声に皆が静まった。
長身の鴨が聳え立つ。その手前に錦が眉をあげて立ちはだかり、眼帯の五郎が口を屁の字に曲げて腕組みしている。
重助が気をきかせて文机をあるたけ用意させた。俄か受付けがあっと言う間にできあがった。
幕府側は、誤算していた。五十人も集まれば良しと思っていた。人数はすでにその三倍を超えている。
純粋に尽忠報国を唱える浪士。一人五両の支度金に釣られて参加する縛徒。新天地を求める食い詰め浪人。腕を試し名を馳せたい農民町民。様々な理由が境内に渦を巻いている。
浪士取締扱いの松平主悦が突然体調を崩した。胃の痛みと吐き気を訴えたのだ。
この有様を見て緊張の度合いが高まったせいだ。
募集人員は無制限。篩にかけようと提案したが、八郎や鉄舟が譲らない。まるまる私兵にするつもりなのだから、人数は多い方がいいに決まっていた。
鴨はそのやりとりを背中で聞きながら、面倒な事だと内心思った。
有象無象の衆は舵取りを謝ると暴走と化す。得に行動の基盤に明確な指針が無い者達へ、秩序を与えるのは難しい。
天狗組ですら、一枚岩というわけにはいかなかった。集団から大きく逸脱する者が必ず現れ、面倒を起こす。
おそらくそれも承知の八郎だ。鴨に何とか収めろという腹積もりなのは判っていた。
「足並みが揃わないのは、奴らの方だな。」
鴨がふっと鼻先で笑う。その独り言に、錦が相槌を打った。
「全く。どう収めるつもりなんだか。清河先生もいい気なもんだ。」
「まあ、仕方がないか。」
幕府側の人間と八郎の間には、もともと隔たりがあるのだ。
足並みが揃わないといえば、
「住谷と藤田の歩調は、どうなんだ。」
「それは・・・。藤田君の上洛を待って、話を詰めます。」
錦が言い淀んだ。
「そうか。まだ煮詰まっていないか。迂闊には動けんということだな。」
鴨はそれに気付かない振りをして話をそらした。
「で、粕谷がどうして浪士組に。」
天狗組から分裂し、薩摩藩の庇護をうけようとした連中のひとり、粕谷新五郎の姿が見え気になっていた。
天狗組の中の保守派といって良いだろう。気に食わない奴等だ。
「奴等も上洛します。ただし長州の手を借りるようです。粕谷は長州の伊東俊輔から、ここへ潜入を命じられています。その背後には久坂玄瑞の姿が見えます。」
「そのまた後ろに高杉晋作か。長州もえらい念の入れようだな。」
「長州も藩の命運がかかっていますからね。とにかく、俺は桂先生の指示下で動きます。先生はしばらく天狗崩れでいて下さい。」
「俺は口を拭って居ろということか。」
「そういう事です。」
錦がにやりと笑った。
その夜、鴨らは僧坊に寝床をとった。水戸藩邸は小石川にあるのだが、身分上そこへは入れない。
皆はすでに夜着を纏い、軽い寝息をたてていた。
鴨の後ろでは錦が眠っている。なにか様子がおかしい。どうやらうなされているようだ。
揺り起こそうとしたと同時に、あっと声を上げて飛び起きた。明らかに何かに怯えている。荒い息が鴨の耳元に届く。
「大丈夫か。」
暗闇の中に鴨の声を認め、過去へ浮遊していた錦の意識が戻って来た。
「大丈夫です。」
錦は右の掌で額を覆った。そしてそのまま顔を撫でた。
うなされる理由。獄中で何があったかなど、察するに余りある。
うなされては目覚める。鴨でさえその責めから逃れる事は出来なかった。悪夢から解放されたのは、つい先頃の事だ。
そうだ。錦はまだ、あの獄に潜む得体の知れない闇の中にいる。そこからは自力で抜け出すしかない。
錦の顔が闇の中で歪んだ。