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第六章 試衛館

いよいよ、近藤勇・土方歳三・沖田総司ら試衛館の面々が登場します。彼らなしには、何も語れない!

江戸は、牛込甲羅屋敷内。天然理心流道場、試衛館。

塾頭の沖田総司は、多摩への出稽古から帰るやいなや、細長い食客部屋に稽古着を投げ込むと、道場主の近藤勇の書斎へ向かった。

これみよがしに足音を荒げ、部屋の前まで行くと、声もかけず襖を引き開けた。

勇が文机に向かい、懸命に筆を動かしている。

総司に背中を向けたまま、降り向きもしない。

「いったい、いつまでそうやってるつもりなんだ。今日俺は、彦五郎さんに厭味を言われて、なんとも返答できずに帰ってきたんだぜ。」

高い声で罵り、力任せに襖戸を閉めた。

遠慮などかけらもない総司の態度だ。

足音が怒りを顕にして遠ざかる。

「くそっ。」

そんな声まで投げ付けられた。

勇は筆を置いて溜め息を吐いた。

総司が怒るのも無理はない。

ここ半年というもの、道場に顔も出さず、勇は日がなこうして書斎に籠り、日本外史の複写に没頭しているのだった。

勇には、忘れてしまいたい事があった。忘れようと努力しても忘れられない事があった。

出自が農民であるという動かしがたい事実を突き付けられ、とうとう身動きが取れなくなったのだ。

苦しい。考えると喉が詰まり、鼻の奥がきな臭くなってくる。

最初は物分かり良さげに、理解者を装ってくれていた友人や門弟すら、ここ数ヶ月の内に少しづつ態度を変えていった。

道場を閉めるらしい。

そんな噂も立ち始めた。

いっそのこと学者にでもなろうか。勇が旧知の井上源三郎にふっと漏らしてしまったのが、他の門弟達に広まってしまったからだ。

源三郎に悪気はない。勇のことは心配だった。しかし、あまりの堅くなさに、辟易しているのも事実だ。いい加減にしろと喉元まで出かかって、何度飲み込んだかしれない。

短気な総司も、相手が勇だから、我慢に我慢を重ねての爆発だ。

流暢に構えているのは、土方歳三ぐらいだった。

「好きなようにさせときゃあいいさ。そのうち気が済む。道場だって潰れやあしねえよ。」

と噂話を一笑してしまうのだった。

幕府が新たに講武所を開設した。その教授になるという話が、立ち消えてしまった。それが始まりだ。

話は講武所の剣道教授見習いに内定という所まで進んでいた。

士官の道も開け、順風満帆、前途洋々の勇の人生の筈だった。

農民出身。勇の前に立ちはだかった家柄の相違だ。内定はあっさり取り消された。

勇の落胆は、端で見るのも可哀相なくらいだった。

そのまま、引き籠もりを決め込んでしまっているのは、よほどのことなのだ。

「つねさんよ。先生はどんな様子だい。」

勇の食事の膳を片付けている妻のつねに歳三は尋ねてみる。

「相変わらずです。」

つねはそう言って、細い目の端で歳三をちらりと睨むと、せわしなげに奥へ入った。

その表情は、放っておいてくれとも、なんとかしてくれとも訴えているように見える。

ーいったい俺にどうしろってんだ。まったく。襟首ひっ掴んで、書斎から引き摺り出せってえのか。

濡縁の柱によりかかり、歳三は腕組みしたまま顎を撫でた。

自分くらいは、勇を責めずに待っていてやってもいいだろう。もし道場を閉めると勇が決めたなら、それはそれでいい。

勇は今、独りで失望という崖っ淵から這い上がろうと必死なのだ。

きっと、大人しく学問しているように見えて、内心ではのたうちまわっているに違いないのだ。

歳三はそう思いたかった。

稽古場では、総司が荒れている。

「歳さんはいいさ。薬屋って家業がある。俺あ困る。道場閉められた日にゃあ、行く所なんかありゃしねえ。今更他流に鞍替えなんかできゃしねえしな。」

手拭を頭に巻きながら喋る。

総司は、他流から鞍替えして、食客に収まっている奴等が聞いたら、顔色を変えそうな事を平気で言う。

ー聞かれて困る話じゃあねえや。あたりめえのことを言って何が悪い。

もし歳三が、たいいがいにしろよと諫めたなら、総司は多分こう言い返すだろう。分かっているから何も言わない。

「そしたらおめえが道場を開けばいいじゃねえか。兄貴に口利いてやってもいいぜ。」

歳三がにやりと笑う。総司はそれが気に食わない。

「心にもねえこと言ってんじゃねえや。本当に先生のこと考えてんなら、何とかしてくれねえかな。いい加減苛々してくるぜ。こっちがたまんねえや。気の病に効く薬はねえのかよ。」

総司は白河藩脱藩の浪人だ。江戸詰め藩士の子だから江戸っ子の端くれには違いない。早口でまくしたてるのが怒っているように聞こえる。

面の紐をきつく結ぶと小手にするりと手をいれる。

「よっしゃ。」

防具を付け終わると、総司は立上がり、竹刀を左手で鳴らす。そして係り稽古をしている門人の前に立ちはだかった。

「おめえだよ。」

相手に緊張が走る。今日の餌食だ。

聳えた肩から二の腕へ、さらに小手までがひとつに流れ、竹刀の先が下がり気味に相手を見据えている。

「さあ、こい。」

甲高い声が響く。

総司の癖のある賑やかな太刀捌きが、道場を駆け巡った。

打ち込み擦り抜け、すぐさま踵をかえし、正眼に構える。

相手が振り向いたときには、すでに打ち込める状態で迫って来ている。

相手の方が、先に息が上がる。

「やっ、やっ、やああ。」

鋭い掛声と供に、総司の右足が三度道場の床を鳴らした。

相手の喉元に三段突きが見事に入る。防具を付けているといっても、かなりの衝撃をくらい相手は、そのまま失神してしまった。

総司はそれを知らん顔で放っておく。そのまま次の相手を掴まえ、その前に立ちはだかっていた。

全てがこの調子なので、門弟達は皆総司の相手をするのを恐がった。

ーおめえには、道場主は務まらねえな。器じゃあねえや。

歳三は倒れた門弟の面を解いてやりながら、呆れるしかない。

総司には、人を慈しむという心が欠けている。心がないわけではないが、それを表す術を知らない。

家族の縁に希薄なこの男は、無条件に生温い愛情というものを感じることがないまま育っている。

受けたことのない愛情を他人に授けることはできないのだ。

「おうっ。やっているな。今日の餌食は何人だ。」

永倉新八が、どかどかとやってきた。新八は、先般幕府が募集した浪士組に参加するかどうか、皆の答えを待っていた。

「先生はどうだ。」

新八に尋ねられ、歳三は首を降った。

「もしかしたら士官の道だって開けるかもしれないのにな。いい機会だとおもうぜ。」

「新八、おめえはどうするよ。」

「先生が行かなくても俺は行くよ。いつまでもここに世話になってるわけにもいかないし。あんたこそどうする。」

新八に問われても、歳三は明確な展望を持てないでいた。行っても行かなくても、どちらでも良かった。

ただ義兄の彦五郎が、熱心に勧めた。そのせいか気分は随分と行くという方向へ傾いている。

将軍警固という報を聞いて、彦五郎は小躍りした。

義弟がその役目に預かり将軍様のお役に立つことは、ひいては佐藤家のそしてこの日野近在の誉れであると、歳三の義兄は考えていた。

彦五郎の頭の中で歳三の浪士組参加は、すでに決まっているのだろう。

「俺も行くぜ。」

総司が断言した。

「面白れえや。」

総司の理由は簡単明瞭だった。駆け引きも、野心も何もない。今の生活に、ほんの少しの違和感と膨満感を持ち始めていた。

違う場所に身を置いて見たい。ただそれだけだ。

総司は若い。みぞおちの辺りから湧き上がって来る、得体の知れない感情を押さえきることが出来ないでいた。日野への出稽古は、内藤新宿から甲州道中を歩く。

最近気のせいか、多摩川を吹き抜ける川風が、総司の背中を軽く押して往く。

違う風に吹かれてみないかと無責任に囁いて通り過ぎる。

ーそうだな。それもいいかな。

世の中は今までとは違った方向へと進みつつある。

新八らが時折、口に唾を溜めて喋っている、尊皇だ攘夷だなどということは総司にはよく解らない。

しかし、そういう時局のことも、解らないでは済まないだろう。

剣術以外に知らなければならないことが、沢山待っているような気がした。

翌日のことだ。

「天の岩戸が開いたぜ。」

総司が飛んで来た。

勇が外出しようとしている。

「袴なんぞはいて、何処行こうってんだ。」

歳三が慌てて後を追う。勇の様子は、どうみても普通ではない。心ここに在らずの体だ。歳三の後を面白がって総司が追う。居合わせた食客達も、なんだなんだと後に続く。

着いた所は、浪士組取り扱に任命されている松平主悦の元だった。

「いやいやよくこられた。」

温和に迎える主悦の幕閣然とした、上品さが皆を圧倒した。

茶がだされ、勇は平たくなって恐縮した。

総司はそれがおかしくて、笑いをこらえる肩が振える。

それを見咎めた歳三が、総司の横腹を肘で小突く。その歳三までが、にやついている。平身低頭の勇の姿があまりに滑稽で、自分の複雑になっていく気持ちをごまかすには、笑うしかないのだ。

主悦は、社交辞令を混ぜながら、それでも勇等に好意を示した。

浪士組の筆頭が策士で名を成す清河八郎だ。後に続くのは、八郎の息のかかった者。

それを追って参加するのが、水戸の天狗崩れだ。

どれも獄から放たれた猛者、それも浪士組参加にあたって三奉行の評定を仰がなければならなかった者ばかりだ。

主悦は、この役目に重圧を感じていた。何も起こらない筈はない。何か重大な事が起これば、引責は免れないだろう。目に見えている。

主悦には、自分の前に並んで座っている、試衛館道場の連中が、清廉潔白の徒に見えて頼もしく思えた。

「お役目は間違いなく、将軍様上洛の折りの警固でありましょうか。」

「そうです。すでに会津藩松平容保公が、御家中を率いて上洛され、市中警固にあたっておられます。私達は、将軍の親衛隊としてそれに続くことになります。皆さんが、こぞって参加してくだされば、大変心強いですな。」

「拙者、そうおしゃっていただき、興越至極。痛み入ります。」

勇はますます平たくなった。

ー痛み入りますか。今時珍しい。

主悦は苦笑いした。

しかし、天狗崩れなどと比べたら扱い安い。

こういう連中が多ければそれに越したことはない。

重圧こそは無くならないが、主悦の気持ちが少しばかり軽くなった。

こころなしか、寒さも和らぐ。

主悦には、いい日和だった。

雲の隙間から幾筋かの陽の光が、ただ真っ直ぐに地上めがけて差し込んでくる。

主悦は空を見上げ、呟いた。

ー優しい光だ。

その光は、勇の目にも届いていた。

光を見ているうちに、勇の中で渦を巻いていた様々な迷いが、一瞬のうちに拭い去られた。

「行こう。」

勇が力強く言った。

「えっ。」

歳三が聞き返す。

幕閣の主悦に頼りにしています等と言われ、勇は感極まっていた。頬が紅潮し、表情がうってかわって晴れやかだ。

「豚もおだてりゃあ何とかだぜ。」

歳三が小声でぶつくさ言う。

「こりゃいいや、歳さん。先生は豚か。でもこれであっさりしたぜ。」

総司がやけに嬉しそうだ。なんだかんだいっても、勇なしでは、話が始まらないのだ。

「まあな。」

歳三は少し違う。なんとなく憂鬱を感じた。

これから準備が大変だ。

彦五郎の喜ぶ顔が目に浮かぶ。

試衛館では、道場主も塾頭も留守をすることになる。後のことは彦五郎にしっかり頼んでおかなければならない。

一番の支援者であり理解者である、彦五郎や多摩近在の有力者の機嫌を損ねてはならない。

先ずは、そこら辺りの根回しから始めなければならない。歳三の頭は、すでに上洛の方向に切り替わっていた。素早い。

まだ時間はたっぷりある。

御府内を離れることになるなど思いもよらない事になった。

誰もが不安を抱き、それ以上の期待が、知らない内に不安を覆い隠していた。

いったい何が皆を脅かして行くのかなど、考えたくもなかった。



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