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第五章 寒夜

いよいよ江戸で清河八郎と会う芹沢鴨。四人の結束もより強くかたまってゆく。

ここ不忍池界隈は、出合い茶屋が軒を連ねる辺りとしては、名の知れた処だ。


まだ昼日中だというのに、天から降ってくる陽の光さえも、気恥ずかしげに道の端へ散ってゆく。


懐手に雪駄の音をたてて歩くと、着流しの裾が、落ち着きなく跳ね上がる。


擦れ違う女の白い足首に気をとられると、女はそれを知ってか、鴨の視線をするりとかわし、俯いて足早に遠ざかって行った。


粋な縞の着物に天神髷。下駄の音が小気味好く響いて、微かに情交の香りを零していった。


江戸ならではの女の風情だ。


女からしてみれば、鴨もまた、訳有り風の男に見えたに違いない。


鴨は、ふっと嘲笑った。


―よりによって、こんなところで清河八郎と逢引とは、おかしなものだ。


男女の逢瀬が韻美に重ねられる場所らしく、隠れるのにはちょうどいい。


政治向きの話も、秘めら事となると、とたんに韻美な趣を見せるものだ。密談などには、もってこいの場所なのかもしれない。


板塀の角を素早く曲がると、目指す茶屋の暖簾の奥へ鴨は融けるように消えた。


八郎は、店の奥の座敷で待っていた。


部屋の中は存外と暗い。光は、細い格子の隙から障子を透し、ようやく畳の目に届いていた。



「やっと会えましたな。」


八郎は、火鉢を抱えるようにして、掌を炙っていた。


熾された炭が、紅い炎の境界線で色分けされている。白く灰になった部分が、健全な黒を侵蝕していた。


「あの折りには、見事に振られてしまいました。」


文久元年二月一日のことを八郎は言っているのだ。天狗組の結党式が行われた次の日のことだから、鴨も覚えていた。


前日の興奮がまだ醒めない鴨は、技楼を訪ね面会を求めて来た八郎をつい袖にしてしまったのだった。


「あの時は、しこたま酒を飲み、酔いつぶれておりましたのでな。面目ないことです。」

鴨は耳の後ろを撫でた。嘘も方便だ。


「ところで、本気で天狗組を離れられたわけではないでしょう。水府から何か含みおかれて、浪士組に参加されるとみました。違いますか。」


八郎は、掌をみつめたまま、鴨に問い掛けた。


「それならば、私からも尋ねましょう。清河先生は、よもや本気で将軍警護の為だけの浪士募集に、安易に乗られたわけではありますまい。」


それを聞いて、八郎は肩をゆすってククッと笑った。

「将軍警護の為だけですよ。他になにがあります。」


八郎がはぐらかす。


鴨は、膝を叩いて差料を手に立ち上がろうとした。


「話しにならんな。無駄なことは止めにしましょう。」


まだるっこしいやり取りは、鴨の性に合わない。こんな回りくどい男に、素直に腹の内など見せられない。


「芹沢君。」


八郎が声高に呼び止めた。八郎は、火箸で炭を追いやり、灰の上に幕という字を書いた。そしてそれを掻き消すように倒という字を上から書き、鴨の出方を待った。


鴨は片膝を着いたまま、火鉢の中を凝視した。そのまま八郎の顔を見やり、ゆっくりと首を振った。


―早すぎる。まだその時期ではない。


八郎は察した。


「今すぐというわけではない。いずれはということです。」


八郎は全てを消し、もとあったように炭を置いた。


炭が炎に侵蝕されるように、鴨の頭の中が倒幕の二文字に侵蝕されていった。

鴨は、再び座り込んだ。右手の親指の爪を噛む。考えが纏まらない時の男の癖だ。


「何時かは、誰かがやらねばならない事です。」


八郎が言う。


もしかして、あの時小四郎が、挙兵の言葉の後に、言い澱んだのは倒幕の二文字だったのではないか。


ならば鴨と八郎の行き着く処は同じだ。


「芹沢君の活躍は聞き及んでおります。集めた金は、二万両とも三万両とも・・・。是非その力を貸して戴きたい。」


鴨は指を咥えたままだ。


「芹沢君。僕は君の後ろに控えている天狗組の行動力が、欲しいのです。それに君達水戸勢には、浪士達を纏めて貰う心づもりでいます。天狗組玉造勢三百名をひっぱってきた君だ。お手の物でしょう。」


鴨が顔をあげた。異論はない。もともと八郎すら欺くつもりで、参加する浪士組だ。行き着く先が同じならば、浪士組も八郎もそっくりそのまま天狗の手中に収める腹積もりで掛かっても良いのだ。



「よし。決めた。全てここに収めよう。」


鴨は右手で胸元を叩いた。


「安心した。大いにその手腕を発揮してくれたまえ。」


八郎の顔が見事に綻んだ。


「酒でもやりませんか。」


という八郎の誘いを断り、早々に切り上げて茶屋を出た。


鴨は酒を飲むと、質が悪くなるのを 自分でよく知っている。


酒が過ぎると絡む。荒れる。そんな醜態を早々と八郎に見せることは避けたかった。


茶屋の構えが、薄暮の中に沈んでいく。ますます鴨は訳有りの風体に身をやつし、そそくさと上野寛永寺の方向へと人々に紛れた。


宿へ戻ると、浅草あたりを見物してきてはしゃいでいる重助や建司を尻目に、ごろりと横になった。


何故か気持ちが疲れていた。


「で、清河はどんな奴だった。」


五郎が率直に尋ねた。


「策士には違いない。なかなか油断ならん男だ。」


「油断ならんのは、先生も同じじゃないか。」


「そうだな。」


やけに素直なのに、五郎は鼻白んだ。


「なにを話してきた。俺達には隠し事ばかりだ。少しは手の内を話してくれたらどうだ。」


見物の話に花を咲かせていた重助と建司が、ばつが悪そうに押し黙った。五郎の口調に棘があるからだ。


「黙ってあんたに着いて行くには、それなりの覚悟がいる。特に俺はよそものだからな。」


鉄扇を取り出し、開いて閉じる音が聞こえた。


「ぐずぐず言うのなら、ここから水戸なり姫路なりへとっとと帰れ。そんなことは水戸を出る前に、小四郎と話を詰めておくもんだ。馬鹿野郎。」


寝転んだまま、鴨は言葉を荒げた。しかし覇気がない。


倒幕という言葉に怯んでいるのは鴨の方だっ。


―こいつらをひっぱって行けるのか。


重助が五郎の袖を引っ張った。


「放っとけ。へたに突っ突くと、鉄扇が飛んでくるぞ。」


小声で言うのが五郎には届かない。


「重助。なにをぐちゃぐちゃ言ってるんだ。鉄扇がどうしたって。」


横にはなっているが、鴨の頭の中は、冬の乾いた空のように冴え渡っている。


悪言を吐きながら、大人気ないことだと思う。


鴨は、自分に迷いがあるのを誰にも悟られたくなかった。


天皇を擁しての挙兵は、あくまでも幕閣に攘夷を迫るための手段であるはずだ。倒幕までは思い及ばなかった。


しかし幕府を倒してその後はどうする。薩摩か長州かそれとも土佐か。


外様雄藩の力と財力が必要不可欠だ。この浪士募集は、薩摩の島津久光や、土佐の山内容堂も一枚かんでいるという話だ。


あって然るべき暴挙ともいえる。


―清河の野郎。それに小四郎。知ってて俺を追い込みやがった。


鴨がむくりと起き上がった。すぐさま重助と建司がのけ反って額を防御した。


五郎は一瞬にして三尺飛び退いた。片目が見えないぶんを、すばしこさが補っていた。


鴨は源心流の抜刀術も修めている。鉄扇の技は抜刀術の応用だ。


懐からひらめく鉄扇は、相手のこめかみ目掛けてようしゃなく飛んでいく。まともに受けたなら、命はない。


目の当たりにしたことはないが、鴨の正確な技を皆聞き及んでいるのだ。


鴨は、狐につままれたような顔をした。


「寒っ。」


と、身を震わせて立ち上がる。


「どこへ。」


「厠だ。」


皆、ほっと胸を撫で下ろし、笑いさざめきあった。


濡縁の冷えた感触が、鴨の足の裏から這いずりあがってくる。


夜空は碧いのだが、見上げても、雲に阻まれ星ひとつ見えない。


その雲間から、落ちて来るものがある。


―ほう、雪か。


空の高みから落ちてきて、庭の苔の隙間の中へ溶けてゆく。積もらぬ雪だ。積もらなくても土に沁みて、命の源になる。


鴨は、濡縁から身を乗り出して掌に雪を受ける。雪のかけらは掌にゆっくり落ちて、体温に同化する。


溶け逝くものは土に沁みず、鴨の皮膚に沁みた。


唇でそれを舐める。なんとも優しい味がする。


深く息を吐く。


気持ちが澄んで来る。


世の中には、考えても仕方のない事がある。時には成り行きに身を任せることも必要なのだ。


五郎の焦りも当然のことだ。命を掛ける思いが強いほど、それに値する正当な理由が欲しい。でなければ途中で息切れしてしまうだろう。


話さなければならない。



鴨は、厠で用をたす間に、どこまでを話すか考えた。いっそのこと全て話してしまった方がいいのかもしれない。


疑心暗鬼が思いもよらない結果を招いてしまうこともある。


信頼を得るには、丸裸になるしかないだろう。


夕餉が運ばれ、皆で膳に向かう。


「小四郎からは、どこまで話があった。」


鴨が尋ねる。


「ただ先生の供をして上洛しろと。それだけですよね、平山さん。」


建司が飯をほうばりながら、五郎に同意をもとめる。


「藤田君からは、それしか聞いていない。しかし、噂は色々と耳に入ってくる。」


五郎が、飯に熱い汁を掛け、それを掻き込む。


「噂とは」


出汁の張られた菊花豆腐の碗を左手に、鴨が再び五郎に尋ねる。箸が止まったままだ。五郎は飯を飲み下す。


「挙兵ですよ。それも京と常陸で同時に。」


「平山さん。声が高いですよ。」


建司が諫める。


「なに、誰も耳をそばだててはおらんよ。」


鴨が話すまでもない。挙兵は周知の事実のようだ。


鴨が豆腐に箸をつけようとしたが、五郎がそれを遮った。


「聞きたいのは、その先だ。」


鴨は菊の花にみたてた豆腐に、箸を入れた。花びらが散り、山葵の緑が汁に砕けて溶けてゆく。


「倒幕。」


重助が思わず噎せた。五郎と建司が顔を見合わせ頷いた。


「清河からもそれを切り出された。」


「絡んでいるのは、薩摩ですか。」


五郎の頭には寺田屋の件が甦ってきた。


「わからんが、小四郎は長州との密約を当てにしているようだ。」


「長州ですか。」


五郎が、箸を置いた。

「芹沢先生。自藩だけでなんとかならないんですか。」


建司が口を挟んだ。建司は、歯痒いのだ。


「水戸もんばかりが、損な役回りをおしつけられているような気がしてならん。」


と言うと、空になった飯碗に茶を注いで飲み干した。


「損も得もないぞ、建司。命を張ってでもやらねばならんことがある。俺は今まで沢山の友を亡くしてきたが、誰一人の最期も犬死にとは思っていない。どれも大切な命だった。だからその骨を俺達が拾って行く。俺達が死んだら、後に続く者が骨を拾い意志を拾って先へ進む。そうやって事は成就してゆくのだ。一朝一夕にはいかん。かといって無駄なことは何もないのだ。」


建司が、吐き出した言葉を後悔して肩を落とした。重助が見兼ねて助け船を出す。


「光幹様。野口さんはまだ若いから、そう思うのも無理ありません。」


見ると五郎が、見えぬ目を潤ませている。恥ずかしげにそれを拳で拭った。


「とんだ醜態だな。」


五郎が照れ隠しに笑って見せた。


水戸まで流れてきたこの男にもそれなりの過去があるのだろう。


「建司。知らなくてもいいことがある。知らずに済めばそれに越したことはない。が、ここまできた以上は、覚悟を決めておかなければならんよ。」


鴨は、建司の顔を覗いた。出会った頃の伊織に若い悔しげな表情が重なる。


建司は、鴨の瞳の薄い茶色に吸い寄せられていた。


夜が更けてゆく。


掻巻にすっぽり身体を包んで、暖まった空気に眠気をゆだねながら、建司はうつらと夢を見ていた。


大きなうねりに呑まれそうになりながら、それでも何か哀しいほどの優しさに満ち足りている。


もし、鴨に命を棄てろと言われれば、棄てても悔いは残らないだろう。やがて深い眠りに落ちた建司の微かな寝息が、鴨の耳元まで聞こえて来る。


「先生。眠れませんか」


五郎が気配で声をかけてきた。


「いや。そうでもない。」


暗闇の中で会話する。


「すみませんでした。訳もなく突っ掛かって。」


「いや、俺も大人気なかった。」


「でも、良かった。先生の腹の内がわかって。」


「安心するのは、早いぞ。俺は、案外と腹黒い。」


「本当に腹黒い人間は、自分からそんなことは言わないもんだ。」


鴨は、寝返りを打った。


細かい雪が霰になりぱらぱらと音をたてて通り過ぎて往く。


明日には立春を迎える。春といっても名ばかり、外気はしんとして凍り付くようだ。


夜が明けたら、早々に宿を引き払い、小石川にある伝通院に入る。そこで清河八郎と合流する。


霰の音が一瞬激しくなり、やがて遠のく。


その旋律に合せて鴨の意識もゆっくり遠のいて行った。



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