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第四章 絆

獄から釈放された芹沢鴨。水戸を離れ、浪士組に参加するため江戸へ向かうことに。

新たなる旅立ちが示唆するものは希望か・・

夜が、明けてゆく。

空が蒼から透明へと滲むように澄んでゆき、冷えきった空気が、継次の首筋をそうっと撫ぜて往く。

継次はしかめ面で歯を磨いていた。時折楊枝をくわえたまま、変わってゆく空の色をじっと見つめている。

--あれから色橋はどうしただろうか。

消息は誰にも聞いていない。まだ年季は明けていないはずだ。元気で居るだろうか。まだあの技楼に居るのだろうか。知りたい。しかし知ってどうする。


色橋のことは、口にしてはいけない。諦めなければ。

継次は地面に唾を吐きかけると楊枝を投げ、それを踏み潰した。

「どうかなさいましたか。」

奈絵が背中から声をかける。

悪戯を見咎められた子供のように、継次は体を震わせた。

獄から出て間なしに京へ上らねばならないというのに、継次は嫁を娶らされていた。

「冗談ではありませんよ、父上。無事にいられるかどうかも解らないと言うのに、婚儀などとんでもない。」

兄供々、何度も父に談判した。が、継次の父は、一度決めたことをそう簡単に翻すような人ではなかった。

そして奈絵は嫁いで来た。

冷たく乾いた風の中に白い雪のかけらを含み込む、そんな日だった。

全て承知で嫁いで来たのだ。以前のことも以降のことも。

慌ただしく執り行われた婚儀も、継次には何故か他人事のように思えた。釈然としないまま、奈絵と盃を交わした。もう一人の自分が、それを冷ややかに見て居る。そんな気がした。

奈絵には申し訳ないがそれが本音だ。

夫婦としての体裁を取り繕うほどに、奈絵への形だけの気持ちが、無情な仕打ちのように思える。そんな自分が腹立たしい。継次はますます機嫌が悪くなっていくのだった。

--まるで子供が拗ねているような。

奈絵は思っていた。往生際が悪い。継次にそう言ってやりたかった。そして奈絵自身へも。

旅装束を整えるための運針に余念のない奈絵は、ふと手を止め紺青の生地に淡い鼠色に染め抜かれた菱形文様の連なりに見入った。

やはり嫁いで来たのは間違いだったかもしれない。短い間でも芹沢家の役に立てればと気負って嫁いで来た自分の姿が滑稽に思えてならない。

--なにを今更。

奈絵は口元を引き締めると、再び針を進めた。細いしなやかな指がなめらかに動く。銀色の針が青い生地の海を掬っては泳いでいく。

上洛は、地獄から這いずり出て来た継次にとって、新しい道筋の模索への始まり。

せめてそれに相応しい旅装を用意して送り出す事が、妻として奈絵のできることのひとつ。

おのずと願いがこもる。縫い寄せられた生地に爪できせをかけると、細かな縫い目が整然と並ぶ。息を整えて新たに針を刺す。

「奈絵。」

呼ばれるまで気が付かなかった。はっとして顔をあげると、六尺はある長身を屈めて継次の鳶色の瞳が奈絵の手元を覗き込んでいた。あまりに近くて、一瞬奈絵の意識が止まった。そして勢い良く流れだし頬を上気させた。

奈絵より一周り年上だというのに、この男は時折元服前の少年のような表情をみせては奈絵を困惑させる。

これをと継次は袂から櫛を取り出した。薄紙に包まれているが一目でそれとわかる。

「お前にと思って造らせたんだ。」

薄紙を開くと美しい蒔絵の施された、漆塗りの上等な櫛が表れた。表は連理の枝に梅の花、裏にはひづめを上げた馬の模様だ。

継次の細かい注文に職人が応えた贅沢な品だった。

「綺麗」

奈絵はその細工の華麗さに息を呑んだ。

よく見るとその馬には額に角がある。

「これは・・・。」

「一角獣だ。西洋ではうにこおるという。麒麟や鳳凰と同じで伝承の中の馬だ。」

「御揃い。」

「そうだな。御揃いだ。」

継次が愛用している印籠の根付けが、この蒔絵の模様と同じ、象牙細工のユニコーンだった。

奈絵はすぐさま鏡に向かい、櫛を差し替えて継次に見せた。

「良く似合っているよ。」

「旦那様と御揃いだなんて、うれしい。」

奈絵は精一杯の笑顔をつくってみせた。

--嘘つき。

奈絵は心の中で呟いた。

後ろめたさが、継次の耳の縁を微かに紅く染める。

薄く透き通った皮膚が、頸動脈から送り出される血液の量を正確に映し出している。継次は気付いていない。でも奈絵にはよくわかる。

多分この櫛は余所の女に贈ろうと創らせたものだろう。奈絵が嫁いで来る、いや、獄に囚われる前から、きっとこの男の懐の奥に大事にしまわれてていたに違いない。

連理の枝は夫婦の強い絆、梅は男の潔さを表す。そして根付けと御揃いのユニコーン。

強い絆を持ちたかった奈絵の知らない誰か違う女の匂いがする。

でも嫉妬などはしない。今それは奈絵の手の中にある。継次と奈絵を繋ぐ揺るぎないものの証しだ。

必要がなくなったから奈絵に取らせたのではない。そう言って欲しい。

--あなたの思いを私に下さい。

奈絵の眉間に切なさが滞る。

継次がいきなり奈絵を背中から抱きすくめた。

体力が戻り始めてから、継次の薄かった胸や萎えた二の腕も、しっかりした質量を持ち始めていた。その大きな身体に奈絵は包み込まれた。

「好きだ。」

継次は初めて奈絵のうなじに暖かい言葉を吹きかけた。

うなじと衿の隙間から奈絵の肌の匂いがふくよかに立ち上ぼり.継次の鼻腔を満たしていった。

幾夜も掻巻きの中で重ね合い親しんだ肌の温もりが、ふたりの間に夫婦の気安さや慈しみを芽生えさせていた。

互いの心の持ち様に、少しばかりの差があるとしても、今好きだという素直な気持ちに、偽りはなかった。

京へは赴かず、このまま奈絵と伴に残りの人生を送っても良いのではないかと、継次はふっと思うのだった。

しかし、そんな個人の事情など、たわごとにも言ってはならない。

二年のあいだに、天狗組は世代が変わってしまっていた。

命長らえて、ようやく獄から釈放された者は、病を患い精神を患った。継次をこの渦の中に巻きこんだ野口哲太郎は、床に伏せたまま回復の見込みはないという。あの若い田中伊織ですら姿を見せないでいる。

主だった幹部はほとんどが姿を消した。

そんな中、継次は藤田小四郎と面会した。久しぶりに郷校を訪れたわけだが、どうにも居心地がが悪い。座って居ても尻の底が泡立つようにむず痒い。

小四郎は藤田東湖の四男だ。藩校で埋もれかけていた才能を武田耕雲斎が目敏く見附だし、天狗組の総領に仕立てあげたのだ。すでに芹沢鴨光幹名を改めていた継次を

「芹沢先生。」

そう呼んだ。

笑った顔が、まだほんの少年のように見えた。

それにしても、この青年、なかなか如才ない。

耕雲斎はこの男の能力を最大限に利用するつもりだろうが、状況をうまく掴んで尊穣激派の旗頭に一気に踊りでてきた小四郎の方が、一枚上手かもしれない。

「長州との密約は、まだ生きています。」

万延元年七月に水戸藩の西丸帯刀と長州藩の桂小五郎との間で交わされた、破成の盟約のことを小四郎は言っているのだ。

桜田門外の変は成確に言えば失敗だった。水戸激派が伊井大老を討取ったまでは良かった。それに呼応して薩摩が京で天皇を擁して挙兵し、幕府に幕政改革を迫る手筈だった。

しかし、薩摩は動かなかった。大久保利通によって薩摩激派の暴走は封じられた。

已むなく継次ら水戸激派は、そのまま次の機会に備え軍資金集めに走ったのだ。

取り返しの付かない、苦い経験だった。

事件に直接関わった者は捕えられ殺され、逃げ延びた者も自刀して果てた。

しかし、幕政の本質は何も変わらない。

桂小五郎から声が掛かったのはその後だ。

事を成すには、やはり水戸激派の行動力が必要だと。連携すれば必ず大事を成せる。

小五郎は、吉田松陰の門下の筆頭だ。水戸藩尊穣激派への認識は強い。

しかし、西丸は二の足を踏んだ。同じ事の繰り返しを恐れたのだ。

要人暗殺を企て、実行するのは水戸激派の役割。

その後、長州が広く諸候に働きかけ幕政改革を促し成就させる。そういう密約だった。

結局、長州側も水戸側も、藩上層部が難色を示したため、この密約は、西丸と桂の個人的盟約で終わった。

伊井亡き後、大老に就任した安藤信正を襲撃した時には、この盟約が果たされる事は無かった。それ自体は、西丸も最初から承知していた。長州は動かない。いくら桂が頑張っても、公武合体して国を開くという方向へ進路をとった長州藩を動かすことはできないに決まっていた。密約はあってないようなものだった。

「桂先生は、大変心を痛めておいでです。」

小四郎は言う。西丸と桂がどう気脈を通じていようが、薩長には煮え湯を飲まされたという感の方が継次には強い。

「こちらで事を起こせば、長州が呼応するという確証が藤田君にはあるというのか。」

「あります。桂先生は信用のおける方だ。」

小四郎軽く憤慨した。

小四郎の澱みない表情が継次には眩い。血腥い嘘も裏切りも、慟哭の別れやこの世の地獄も未だ知らない、まなざしが清しい。ともすれば、卑屈に後退りしそうな継次の心を捕らえて離そうとはしなかった。

「やはり、挙兵ですか。」

継次は、その言葉を音として放って、はっとした。小四郎がすでに身を乗り出している。

「薩摩と呼応し、京で兵を挙げるという計画は、薩摩の内紛で成就叶いませんでした。しかし、諦めはしません。我らには、次が託されました。」

「盟約を元に、長州と連携して京で兵を挙げるつもりか。」

その事には言及しないまま小四郎は笑った。

「私は慶篤殿に随行し上洛します。そして桂先生と面会し、盟約を確個たるものにします。そして、芹沢先生。」

「で、具体的に私に何をしろと・・・。」

「長州と連絡をとりながら、京阪の志士を募って、密かに挙兵の準備を整えて欲しいのです。」

「やはり浪士組参加は、隠れ蓑ということか。」

継次は腕を組んだ。

水戸激派にとって、清河八郎の誘いは、まさしく渡りに船だ。うまく拾われた継次の命だった。

「桂先生と面会を果たした後、我らはひとまず国許に戻って兵を募り、挙兵に備えます。」

京と関東での同時挙兵。すでに小四郎の考えていることは手にとるように解った。

継次は幕閣を欺き、清河八郎を欺き、密かな使命の遂行のため上洛するのだ。

怖い物知らずの青年に、図らずも拾われた命を賭けてみるのも悪くはないだろう。継次は腹を括らざるを得ない。

早々に水戸を発ち、府内へ入り、ひとまず清河八郎と面会する。手筈は整えてあるという。

清河にはまた別の思い入れがあるようだ。継次とは、一度面会しておきたいらしい。

平山五郎という播州浪人と、野口建司という若者が同行する。

他に新見錦という者が数名を連れ、すでに入府しているという。

「どの者も、先生の手足となって働いてくれるでしょう。」

挙兵のことはまだ内密にしてある。野口も平山も詳しい事はまだ知らないでいる。

「先発の新見君にだけは、事の詳細を話してあります。」

膝を付き合わせて話してみたが、信頼のおける男だと小四郎は言う。長州との繋ぎ的役割を担ってもらうのだとも言う。この青年は人を信じたがる癖があるようだ。

「そういえば、新見君もこの度ご赦免になった一人ですよ。先生と同じ細谷の獄に繋がれていたとか。なかなか考えのはっきりした人で、僕は好きだな。」

継次の脳裏に、田中伊織の面影が過ぎった。新見錦とは田中伊織の事ではないのか。

-まさかな。

もしそうなら、何か言って寄越してきてもよさそうなものだった。

それだけ継次はこの男を可愛がってきたつもりだ。

継次より先に捕縛されたことを聞き、逃がしてやれなかった自分の非力さを悔やんでいた。

外へ出る。冴えざえとした白い月が天空に浮いている。流れる空気が袖口から忍び込む。

継次の心は、高揚していた。頬を紅潮させて身震いするような話をする若者に、また夢の続きを見させてもらっている。この興奮を誰かに伝えたい。

「尽忠報国。今まさに国に報わんとす。時は来たれり。」

継次は、思わず月に向かって叫んだ。

吐き出す白い息が体温の熱さを物語っていた。

すぐに江戸へ立つ日程が決まった。

「平間を連れて行け。」

それを聞くと、待っていたように父親の命令が下った。

「ふぇ。」

継次は屁の鳴るような返事をした。

「いやあ、一人で充分ですよ。同行する者もおりますし。」

平間重助は、芹沢家の用人だ。表向きの雑事は、ほとんどこの男がこなしている。

「重助がいなければ、父上も兄上もお困りになるでしょう。」

できれば、連れて行きたくはない。できるだけ身軽で居たいのだ。それに、四十をまわった人の良いこの男を家族から引き離し、時代の真っ直中に引きずり出すのは心苦しい。

それも、水戸より先に出たことのないこの男を はるばる京まで連れ出すのは酷というものだろう。

律義なものだ。平間はそれを厭わない。そして継次を諭す。

「光幹様。私がお供すれば、外記様はご安心なのですよ。まだお体が本当ではないのですから。」

継次は溜め息をついた。がんじがらめではないか。沢山の人の思いが纏わりついて、しころを着込んでいるように肩が重い。

「足手纏いには、なりませんから。」

「重助はそれでよいのか。生中なことではないんだ。お前にもどんな難儀がかかるか知れんのだぞ。」

継次はなんとか諦めさせようと、言い聞かせるのに必死だ。しかし、重助は涼しい顔で継次の言葉を軽くいなしてゆく。

「命令には逆らえません。」

重助の主人は継次ではなく継次の父なのだ。頑固な男だ。継次はこの男が苦手だった。

「あれで良く気の付く男だ。以外と重宝するかも知れんな。」

しばらく側に置き、頃合を見計らって国許に返せばいいという兄の助言もあり、継次が折れた。

ほどなく、江戸へ発つ日が訪れた。

奈絵が仕上げた小紋の着物に袖を通す。

馬乗り袴に紋付きのぶっさき羽織。腰に大小の差料。懐に愛用の鉄線を忍ばせる。

手甲脚半を付けわらじを履き笠を持つと、誰にもひけをとらない立派な旅装束だ。奈絵が継次の首筋に衿巻きをそっと這わせた。

「まだ寒いですから、お風邪を召しませぬように。」

奈絵の気遣いが嬉しい。継次は

「ん。」

と短く答え奈絵の掌を握り締めた。

-俺は戦に出かけるのだ。戻って来るとは思うな。覚悟の別れだ。

「行って来る。」

奈絵は深々と頭をさげた。

「行ってらっしゃいませ。」

平間が、後はお任せをと言わんばかりに、振り向いて一礼した。

継次は振り向かない。歩幅をゆるめず歩いて行く。掌にユニコーンの根付けを握ったまま。

-許せよ。奈絵。

文久三年一月も終わりに近い良く晴れた日。郷を冷たい風が吹き抜ける。指先が悴むほどの底冷えを感じながら、密命を抱いて四人の男が水戸を旅立った。

芹沢鴨三十四歳。平山五郎三十五歳。野口建司二十歳。そして平間重助四十歳。


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