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第二章 風

郷を渡る乾いた風の音が継次の耳元にまで届いてくるようだった。

闇は蒼く眼前に横たわっている。

今一番愛しい女の丸い寝息を右の二の腕に抱いて、耳を澄ます。遠い昔の記憶が、ゆっくりと鮮明に甦ってくる。

地面を引き摺るように伝わって来るのは、幼い継次の哭き声だ。

放って置けばそのうち哭きやむ。二十も歳の離れた兄はいつものことと高を括っていた。

継次は癇癪をおこしては哭く。人の感情が思いがけずも発する空気の振えに敏感な子供だった。得体のしれない怯えが、咀嚼されないまま憤りに変わる。感情を押える術を知らない幼い者は、ただ哭くしかない。

「困ったもんだ。」

と言いながら、誰もそれをきつく咎めだてはしなかった。

ほかの兄弟とは歳のかけ離れた末っ子だ。しかも物心の付かないうちに母親に逝かれた。この子を哀れに思うのか、それとも母を知る者の弟への後ろめたさなのか、兄にはよく解らないでいた。母は亡くとも強く育てなどとは、とても言えた筋合いではない。ただ幼子を護るべき者のひとりに俺が数えられるならその使命を果たすまでだ。

兄はそう覚悟し、子がない代わりに継次を可愛がった。

哭き声は止まず、嗚咽となり、やがて咳や嘔吐が混じる。

行ってやれと言わんばかりに、父が目配せする。兄は散薬を作る手を止め、母屋から走り出た。みると継次が白い晒し反を抱いて哭いている。一瞬不思議な光景が時を止める。兄はそうっと近寄ってみる。抱いているのが反ではなく、猫だというのが解る。祖母の可愛がっている子猫を死なしてしまったと哭く。猫は力無く継次の腕のなかでくたりとしている。

「どれ。」

兄は猫を掬い上げて腹に耳を寄せてみる。コトコトと小さく速い鼓動が確かな生を刻んでいる。

「大丈夫だから安心しろ。」

猫の背中を軽く叩いてやる。

ケッ。猫は喉に詰まっていた息の束を吐き出すと大きく欠伸をした。そして何事もなかったようにするりと地面に降り立った。

「ほらな。大丈夫だろ。」

継次が頷いた。一緒に遊んでいた子供らが、遠巻きに見ている。皆一応に安堵の表情を浮かべた。

「玄太が猫を放り投げた。そしたら動かなくなった。」

ひとりが言うと他の子が同調し、口々に玄太がやったと言い合う。おそらく遊んでいる間に気に添わない事が起きたのだろう。放られた猫はいい迷惑だ。

「理由はどうでも小さいものや弱いものを苛めちゃ駄目だ。解るな。さっ、灸でも据えてもらおうな。気が落ち着くぞ。」癇癪を起こすと、祖母が背中に灸を据える。それが利くのか、哭き止み眠ってしまうのがいつもだった。

「解っててやった。」

継次の声はまだ震えていた。

「猫を投げたら死ぬるかもしれんと解っててやった。」

この子が畏れているのは、自分の中にある深い流れの淵。呑み込まれそうになるのを懸命に堪えている姿。

大丈夫、乗り越えて行け。お前ならやれる。俺が護ってやれるのは今だけだ。闘うのはお前なんだ。

兄は弟の柔らかい手を握り絞めた。頼りない儚い感触が兄の掌に吸い付いてくる。

蒼い闇を行け。それがお前に与えられた、そして俺に与えられた試練だとするならば、供に受けて立とう。

どうやら兄の記憶と猫の記憶が綯い交ぜになっている。兄は確かに行けそして闘えと言った。

今となっては幻のように不確かな記憶だ。その兄もすでにこの世には存在しない。

家督は、次兄が継いだ。幕吏に追われている継次の身を次兄が匿っていた。

追われる理由。部下三名の首を刎ねたのを届け出なかった。それは本当だ。三百名に及ぶ配下の中には、天狗組の威を借りて好きな事をやり出す者も出て来た。とりわけこの三名は、悪質だった。

勝手に金策を行い遊興の費用にあてていたのだ。それも一度や二度ではない。見過ごす訳にはいかなかった。金策を指揮していた継次にも責任の一端が及んだため、やむを得ず暫首した。短慮だとは思っていない。これも必要なことだ。でなければ天狗組は些細な所から崩れていく。

所帯は日がますに連れ膨れ上がっている。金がかかるのは必然だ。金策も手当たり次第に行う。しかし、どこからどれだけ用立てさせるかは用意周到に行う。

東禅寺のイギリス公使館襲撃の前に佐原の豪商から八百両を用立てさせた。ただ暴れて押し借り同然にせしめて来れる金額ではない。

「あれが押し借りでなくてなんだと言うんだ。」

同行した田中伊織が鼻で笑った。

暴れはしないが威圧はしている。

相手が解っていようがいまいがお構いなしに尽忠報国の心を解く。

懐の鉄扇をちらつかせる。

だから軍師金が必要なのだ。用立てろ。そして相手を見据えて動かない。もし嫌だと言おうものなら、つぎの瞬間には懐の鉄扇がひらめき命が無いであろう錯覚を与える。殺気は無い。その代わり渇いた虚無の中に恐怖だけが沸き起こる。これ以上この男に係わってはいけない。そんな底知れぬ威圧感を継次は身に付けていた。

「脅しているのと変わりないぜ。」

伊織が言う。

「そう、見えるか。俺にそんな気はさらさらないんだがな。」


継次が真顔で言うので伊織はおかしくて仕方なかった。

伊織には自分の底が見えていた。だが、この男には底がない。得体がが知れぬのが面白い。

時折つるんでは、仕事をした。その殆どが金策だった。

「あんたはそれでいいのか。野口にいいように使われてるんじゃないのか。」

伊織は一度尋ねたことがあった。野口哲太郎と継次は盟友だ。少なくとも継次はそう思いたい。

「誰かがやらなきゃならんだろう。汚い仕事だが俺には向いてるらしい。」

そう言って笑った唇がほんの僅かゆがんだのを伊織は見逃さなかった。

ただこの度の八百両にはさすがの野口も継次の力量を認めざるを得なかった。すぐに天狗組の幹部に抜擢された。諸手を挙げての話ではないことぐらい解っていた。継次の日頃の仕事ぶりを快く思っていない者も多かったのだ。金の流れは全て下村達に握られている。幹部にしようものなら奴等付け上がる。

「野口、気をつけて置かないと足元をすくわれるぞ。」

そう言って憚らない者すら居た。継次を天狗組にひっぱりこんだのは野口だった。いいように使っていると思われるのは心外だった。だから形を見せた。

継次は嬉しかった。求めてきたものが、ようやく形を見せ始めてきたのだ。

しかし、それも束の間だった。藩政の中核が穏健派に移行し、尊穣激派の天狗組は水府からの激しい弾圧を受けることになったのだ。

継次は寝返りを打とうと色橋の首筋から二の腕を抜こうとした

「嫌っ。」

色橋が腕にしがみついた。色橋は妓楼の女だ。馴染みの妓楼に潜伏していた継次は、その間に金の流れを記した書類などを全て処分した。いつ捕縛されてもいいように。

芹沢の家に戻る時に、付いて来ると言ってきかない色橋を仕方なく連れ返った。

「継さんのことが大好きだから。」

腕にしがみついて離れない子犬のような女だ。

少しの間も離れていたくなかった。

先がないのが解っているから。

この人は、すぐに何処かへやられてしまう。そして二度と会えない。暗い闇の中で、色橋は眠っている継次の唇に自分の唇を重ねてみた。そして頬に触れ、肩に顔を埋めた。この唇も、肌も、肩の肉付きも、忘れないでいよう。全て忘れないでいよう。しかし女は、去って逝く男の温もりを何時迄もその肌に止どめていることは出来ない。

色橋が肩を震わせている。継次はそのたっぷりとほどいた髪を撫でた。

忘れないでいよう。俺は指に絡まる長い髪に染み込んだ薫りを覚えていよう。

「色橋。」

抱き締めた女の体が案外と細く、継次は鼻の奥が熱くなった。


やにわに継次は雨戸を開け、凍えた露の上にひらりと降り立った。

走り出る音が聞こえる。男達が声を掛け合う。大声で怒鳴り合っている。捕縛を指示する声。罪状を読み上げる声。騒動は、半時にも及んだ。

色橋は膝を抱えてじっと座っていた。

「逃げて、逃げて。お願い。」

念仏のように唱えていた。

「全て終わるまでここに居るんだぞ。」

色橋は、継次にそう言われていた。

「甘いな。俺も。」

抱き締められた耳元に聞こえた継次の最期の言葉だった。頬笑んでいた。

やがて静けさが戻り、開いた雨戸からいつの間にか美しい朝陽が差し込んでいる。

色橋はおそるおそる外へでてみた。

屋敷の外には継次の兄がぼんやりと立ち尽くしている。色橋は、その後ろにへたりこんだ。涙が溢れてくるのを拭うこともしない。

水路に沿って風が吹く。涙は風が乾かしてくれるだろう。色橋は薬指でなぞった継次の唇の形を思い出そうと、自分の唇に指をあててみた。もうすでに正確には思い出せない。色橋は声をあげて哭いた。

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