第十章 女隊士
中沢良之介は、幕府の浪士組募集の知らせを聞き、上野国より心を逸らせ、江戸へと馳せ参じた一人だった。
父親は法神流の道場を開き、良之介も腕に覚えはなみなみとある。ここで名を挙げ、幕府の為に働こうという意気込みだった。
鼻の穴をふくらませ、伝通院へ入る。そこで鴨ら水戸派の勇姿に圧倒された。あれが名だたる天狗崩れかと、その迫力に口許がふさがらない。
「涎が垂れそうな顔だな。だらしのない。もう少ししゃんとしないか」
聞いたことのある声だ。嫌な予感がする。良之介はおそるおそる振り向いた。間違いなかった。妹の琴がにやりと笑って立っているのだ。
良之介の溜め息が笛のように鳴った。琴が男のなりをしているのはいつもの事だ。見慣れてはいる。腕も男には引けを取らない。上背も五尺七寸と見事だし、仕草だって男そのものだ。そんな事に今更驚きはしない。
しかし、髪を銀杏に結っているのには、さすがに参った。髪を切ってしまうとは、どうやら本気らしい。
「浪士組に参加するつもりか」
良之介は琴に小声で尋ねた。
「あたりまえだ。長沢千松と名乗った。よろしく頼むな。なに、髪などはいつでも伸びる。それから、十七だからな。十七」
まったく。十もさばをよんで、図々しい。良之介は、鼻白んだ。
「何があっても知らんぞ」
良之介は、言い捨てた。妹はかわいいが、構ってなどいられない。
「そんな事は、百も承知だ。自分の身は自分で守る。それにこの歳で貞操もへったくれもあるものか。それくらいの覚悟はある」
「そうは言っても、湯やら、着替えやら、どうするんだ」
「心配するな。ばれたら、開き直るまでだ」
琴は鼻に皺を寄せた。
「あの芹沢という男が見逃してくれた。いざという時には、あの男に頼む」
そういうわけにもいかんだろう。故郷でおとなしくしていればいいものを。良之介は小さく舌打ちした。
長沢千松と名乗る男が、実は女だと錦が気付いた。感の良い男だ。
「女が紛れている。六番隊の長沢千松」
鴨に耳打ちした。
「だからなんだというんだ」
鴨が平然と言う。
「やっぱり先生だったか。悪戯が過ぎるんじゃないですか」
「いいではないか。女が国事に参加してはならんということは無い」
「それはそうだが、面倒が起こっては困る」
鴨はむきになる錦をからかってみたくなった。
「気になるか。どうだ千松に惚れたか」
「先生、女というとそれしかないんですか」
錦は憮然としたが、頬を紅潮させている。この手の話はからきし駄目だ。だから、鴨はよけいにちょっかいを出したくなる。
「お前は堅い事も、柔らかい事も、くそ真面目でいかんな。息がつまるぞ。肩の力を抜かんか」
「俺は先生の事を心配しているんだ。本庄の件で、山岡さんにゴネられたばかりじゃないか」
「おう、そんな事もあったか」
鴨は、しらばっくれた。内心やり過ぎたとは思っている。三番隊の組頭は自ら退いた。そうでなければ他の者に示しがつかない。
「なあ錦。お前が女だったらどうする」
鴨が突然そんな事を錦に尋ねた。
「えっ…」
「俺も同じ事をしただろうな」
そう言って、郷里に置いてきた妻奈絵に思いを馳せた。
奈絵は自分の身の上を当然のように受け止めているのだろうか。いや、そうではあるまい。従順であるべく躾られているといっても、それなりの決心を抱えて嫁ぎ、自分を京へと見送ったはずだ。
長沢千松と名乗る若い侍が女だと、最初に見破ったのは鴨だった。
気付いた時、鴨は琴の二の腕を掴んで引き寄せ、凄んで見せた。
「他の者は騙せても、俺には通用せんぞ」
後ろ姿の腰付きが男とは違う。それに喉仏がない。
「どうか見逃してくれ。行きたいのだ、京へ。国のために働きたい」
女は帰れと言う鴨に、琴が食い下がった。
「行ってどうする。足手まといになるだけだ」
「どうしてそう断言されるのか。女だからですか」
「そうだ。余計な揉め事が起きるだけだ」
鴨も錦と同じ事を琴に言ったのだった。
「男と女は志を同じくして、共に進む事は出来ないと言われるか」
「そんな事が出来ると思うか」
「そう有りたいものです」
悔しさで声が震えている。琴は俯いて唇を噛んでいる。
「やれるなら、やってみるんだな」
鴨は見逃した。むげに扱う事もないだろう。そして琴は長沢千松として、まんまと浪士組に潜り込んのだ。
「そうは言っても、他の者の目に留まるような事にでもなれば、面倒です」
「そうなったらなったで、お手並み拝見といこうか。なあ錦」
「相変わらずだな、先生は」
鴨はこの事態を面白がっている。錦は苦笑した。
「どうだ、仲をとりもってやろうか。えっ、錦。なかなかのべっぴんだ」
「何言ってるんですか。冗談が過ぎますよ。そういうのが揉め事の発端になるんだ」
錦は目の縁をますます赤らめて、足早に三番隊へ戻った。
「面倒が起こったら、収拾をつけるのは、先生ですよ」
言い置いた錦は、珍しく頬を崩して笑っていた。
鴨はふっと首を傾げた。
そう言えば、錦とは女の事で軽口など言い合ったことなど無かった。
「あいつは尖んがってばかりで、痛くてかなわん」
「何かおっしゃられましたかな。芹沢先生」
清河八郎が声をかけた。
「いや、独り言ですよ」
三番隊を退いた後、八郎のはからいで取締り役付きに復帰し、鴨は先頭の一団の一人となっていた。
峻嶺和田峠は、激しい風雨に見舞われた。ものも言わず、俯いたままただ歩く。しとどに濡れた笠から雫がしたたり、鴨の唇を濡らした。
この日、宿では労いの酒が振る舞われた。久しぶりの酒の旨味が鴨の五臓六腑に染み渡っていった。
浪士組はやがて木曽路に分け入る。積もった雪が街道を覆い、吐く息が白く凍えた。
鴨には草鞋や足袋に凍みる冷たさが、この行軍の容易ではない先行きを暗示ているような気がしてならない。
それを考えると、女が独り紛れていようが、それは大した問題ではなかった。
本庄の宿を出てからこっち、どうやら面倒の矛先は鴨に向けられているようだった。
気付くと琴の視線が、鴨に向けられている。気のせいだと思いたいが、それは日増しに濃厚となり、確信へ変わった。鴨は辟易とした。お手並み拝見と言われているのは、どうみても鴨の方だった。
「惚れられてるんじゃないですか? 」
ほらみたことかと笑いを堪えている錦の肩が、小刻みに震えた。
「参ったな」
「なんでも面白がるから、罰が当たったんだ」
「言わせておけば…」
しかし、困った。あからさまに見つめられたりすれば、情にほだされてしまうではないか。
普段は強気の鴨も、こと女に関してはだらしがない。遊里の女ならまだしも惚れられてしまうと、それが人様の女であろうが、構いはしないのだ。
女は女で、こういう危なっかしい男を放ってはおかない。言い寄るのはたいがい女の方だ。それをそのまま受け入れてしまうのだから、鴨の情に流されやすい質も善し悪しだ。
つい手を出した女に纏わりつかれ、別れる別れないで揉めたこともある。別れるなら殺してくれろと女がすがりつくので、危うく切って捨てるところだった。若気の至りだ。
休み処へ入ったところで、鴨は琴に苦言を呈した。
「おい、千松よ。いったいどういう料簡だ。うるさくてかなわん」
「あんたに惚れてしまったんだから、仕方がない」
「お前のように小便臭い女に、思いを寄せられても迷惑なだけだ」
「抱いてもみないくせに、何を言うか。見た目ではないぞ」
琴は一歩も引かない。茶を啜りながら涼しい顔で言ってのける。
「あの男などはどうだ。なかなか姿のよい男だぞ」
鴨は錦の方を顎でしゃくってみせた。
「ごめんだな。整い過ぎている。堅物は人を枠にはめようとしてだめだ」
「男はみなそうだ。女を枠にはめたがるものだ。俺も妻を枠にはめたまま、ここにこうしておるわい」
「それに甘んじたい女は多い。ただ自分がそうではないだけだ。男だってそうだろう。世の中の魁となりたい者もあれば、ぬるま湯に浸かっていたい者もある。それと同じ事ではないか」
琴の言い分は道理にかなっている。
「これとそれとは別の話だ。論をまぜこぜにするな」
「それに、執着するのもされるのも好まん」
「俺なら後腐れがないという訳か。さて、どうだか。いざとなると俺の方がしつこいやもしれんぞ」
「執心は困るが、床の中でしつこいのは、一向にかまわないな」
琴は思い切った事を言う。これでは、並の男は後退りしてしまうだろう。
「京へついたら、どこぞで試してみるか」
「望むところだ」
団子を食いながら、女とする話ではない。それにしても面白い女だ。こういう話が臆面もなくできるなどとは珍しい。たいがいの女は、何を言いなさるえと心にもなく身を捩らせてみせる。
存外琴は、供に国事に向かって歩んでゆける数少ない女かもしれないと鴨は感じた。
「埒もないわ」
鴨は立ち上がった。
「とにかく、道中纏わりつくな。一戦交えるなら京へ付いてからだ。よいな」
しかし、甘い顔ばかりもしてはいられない。鴨は琴を見据えた。
「ただな、千松。戯言を言ってはおるが、俺とて国事には命がけだ。侮るな。心しておけ。それに子供じみた事は金輪際するな。胸の内に留めておけ」
琴は鴨の真顔に背中がひやりとした。そして自分の浅はかな料簡を恥ずかしく思った。身がひき締まる。鴨に続いて琴も立ち上がった。足高に履いた袴のビロードに縁をはたく。細かい砂埃が舞い上がった。
中山道は草津より東海道に合流する。山科を経、粟田口より蹴上を通り、一行は京三条大橋へ辿り着いた。
いよいよ天子様のおわす京の都だ。懐に抱えてきた密命が、とたんに息を吹き返し、疼くように鼓動を始めた。やるべき事が、今目の前に迫ってくる。腹の底から迸る感慨が、身体を熱くいきり立たせた。
江戸を出て十六日。文久三年二月二十三日。
そして、漸く始まる。