第一章 焔
この小説には、流血などグロテスクな表現や暴力的シーンが含まれます。ご了承の上読み進んで下さい。
何がおこった。頭で理解する前に、身体が反応した。刹那に身を起こし、暗闇の中で太刀を取る。刃が翻り空を撫できらめく。
激しい雨音が、屋敷の中まで濡してゆくようだ。雨は、夏の夜の蒸せた土の匂いを運んでくる。刺客の身体から立ち上ぼる熱気。泡立つ汗。血に滑る畳の目。障子の桟が乾いた音を立てて割れ、女の短い悲鳴が聞こえた。
切っ先に微かな手応えがあった。はずだった。しかし標的となった男は力尽き、どうと倒れた。身に付けた神道無念流免許皆伝の技も及ぶことなく。
刺客達は何かに怯えていた。怯えはさらなる興奮を呼び起こす。刺客達は、動かなくなった男の背に、幾度も太刀を浴びせた。血飛沫の中に転がっている男の白い身体が、ただの有機物と化しているのを確認すると、
「もういいだろう。」
刺客のひとりが促すように言った。その声にそれぞれがようやく平常を取り戻し、できるだけ速くと屋敷を後にした。
ひとりを除いては。一番若い男が、鼻の下に傷を負った。大した傷ではなかったが、流れる血が唇を濡らし、拭おうとする指を濡らした。
男の肉体を引き裂く激しい痛みは、やがて潮が引くように消えていった。身体の芯に残る僅かな疼きすら甘美なものに変化を遂げる。男は身体を横たえたまま、その余韻に浸っていた。
どれ程の間そうしていたのだろうか。久遠の彼方に居たような、あるいは刹那の隙間に居たような。いや、そのどちらでもないのだろう。ふいに身体が浮いたような気がした。なんの負荷も感じさせない、心地良い軽さだ。ゆっくり左右に揺れ、幾度か回転さえした。まるで胎内に宿る者のように球体となって羊水に浮かんでいるようだ。懐かしさが溢れてくる。
揺らいでいる意識の底から、人々のさざめく声が聞えてくる。その密やかな喧騒に、男はゆっくり眼を開けた。
「あうっ。」
息とも声ともつかないものが、唇から転がり落ちた。男がたゆたっているのは、天井遥か高い所。そこから自分の白い肉体が、血に塗れた屍となって転がっているのが見える。隣りには同衾していた女がまた、血塗れた屍となっていた。
―死んだか。
男はぽつねんと思った。それからようやく理解した。肉体から離れた魂のみでこうしているのだと。
意外にも怒りや憤りなどといった負の感情は、湧いてこない。予感はあった。生まれ落ちてからずっと。抗っても仕方の無い、いずれ来たであろうこの日を。死ぬべくして死んだ。女もまたそうであるように。ふたりには似つかわしい死に様ではないか。そういえば、この女の魂は何処にあるのだろうか。男は思いやった。しかし気配は感じて取れない。もう此処には止どまってはいないのだろう。
―ならば、それでいい。
女への哀れみの情など、最初から持ち合わせてはいないのだ。
感情は一定の律動を刻み、男に静寂を与えた。その隙間をぬうように、雨音が細く流れてくる。
そうだ、雨が降っているのだ。闇を覆い地を濘ませ、全てを無かった事にしようと降る雨。奴らには好都合だろう。さあ、弔いの準備が始まる。それにしてもなんの未練があって俺は此処にあるんだ。男には当然の疑問だった。
―さて、俺はこれからどうなる。
思った瞬間だった。男の魂は、天から落ちて来た何者かの掌に鷲掴みにされ、放り投げられた。息ができない。男はもがいた。物凄い速度で、底知れぬ暗闇を落ちて行く。何処まで落ちる。練獄の果てまでか。叫びが声にならない。
やがて微かに光が見えた。光はゆっくり近付いて来る。良く見ろ。あれは光ではない、火焔だ。俺はあの中へ落ちてゆくのだ。そして延々と焼かれ苦しむのだ。幼い頃に見た地獄絵図が脳裏を過ぎる。その中の亡者に、今まさしくなろうとしている。仏は俺に弁解の余地すら与えなかったか。 落ちてゆく速度が緩くなる。到着点は近い。しかし、この圧力はなんだ。すでに無いはずの身体が捩じれてゆく。赤児が世に生まれ出るように、俺は地獄へ生まれ落ちる。
やがて朱の焔が大きく口を開いて男を迎える。男は失速し、思いがけないくらいの呆気なさで着地した。圧力から解き放たれた身体は、まだ揺れているようだ。頭の奥が痺れている。男はようやく息継ぎをした。
深く息を吸い込むと、きな臭さが肺に充満した。魂にも身体があるのだろうか。現に身体の面が熱いではないか。炎は大きく揺らぎ、暗闇に影をもたらす。火の粉は舞い上がり、その影に表情を与えた。臓腑がゆっくりと溶け出してゆくようだ。地獄に生まれ出たというのに、なんという心地良さだ。
突然大きな爆裂音が、男の耳を貫いた。生木のはぜる音だ。どうやら炎に酔ったらしい。少しの間ぼんやりしていた。
―夢か。
それにしては、やけに生々しい夢だ。身体にまだその感触が残っている。生温い血の流れ出る痛み。静寂の中に訪れる平坦な哀しみ。
男は、天をも焦がす勢いで燃え盛る炎を前に、身動ぎもせずに座っていた。白い頬が炎に照らし出され、いっそうその白さが際立つ。男は旅装のままだ。手甲の下の掌が、冷たい汗で湿っている。何の暗示かなどとは考えないでいよう。気持ちが萎える。忘れよう。 男は何かを払い除けるように、強く目を閉じ頭を降った。
―そうだ。一度死んだと思え。
そして男はゆっくり目を開けた。結界は破られた。今ここに炎となって。
文久三年二月八日。下村継次。名を芹沢鴨と改め、浪士組二百四十三名のひとりとして、江戸小石川伝通院を後にした。中山道を一路京へ。
蕨、大宮と隊は進む。そして三日目、本庄宿は徒ならぬ様相を見せていた。