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虹色Café奇譚

蝶の顔

作者: 羽月楓
掲載日:2026/11/04

挿絵(By みてみん)




「人の顔に、蝶がとまっているんです」


 女はそう言って、カップの縁に指を添えた。


 まだ三十代半ばだろうか。薄い化粧を施し、髪も綺麗に結っている。けれど、ルファと向かい合ってからというもの、その視線は落ち着かなかった。


「蝶?」


 カウンターで宿題をしていたライトが顔を上げた。


「ええ。大きな、羽の広い蝶です。顔のちょうど真ん中にとまって、目も鼻も口も隠してしまうんです」


「俺にも?」


 女はライトを見た。


「はい、黄色い蝶が」


 ライトは自分の鼻先に手を当てた。


「どこ?」


「顔いっぱいに羽を広げているんです。とても綺麗な蝶ですよ」


「へえ。見てみたいな」


 ライトが顔を左右に動かしていると、ルファが小さく笑った。


「私には、どんな蝶がいるのかしら」


「鮮やかな青い蝶です。羽の縁が黒くて、光が当たると紫色にも見えて……」


 女はそこまで話すと、少し俯いた。


「……でも、そのせいで、お二人がどんな顔をしているのかわからないんです」


 ルファはカップを置いた。


「いつから、そう見えるようになったの?」


「二週間ほど前です。朝、職場へ行ったら、同僚の顔に蝶がとまっていて……。最初は驚いて、声を上げてしまいました」


「ほかに見える人は?」


「いいえ。誰に聞いても、そんなものはいないって」


 女はカップの中を覗いた。


「最初は怖かったんです。人と話していても、どんな顔をしているのか分からないから」


 女は指でカップの取っ手をなぞった。


「でも……」


 そこで言葉が止まったが、ルファは続きを待った。


「少し、楽になったんです」


「楽に?」


「ええ。相手が怒っているかもしれないとか、嫌な顔をされたかもしれないとか、考えなくて済むようになって」


 女は顔を上げた。


「変ですよね。こんなことになって、少し安心しているなんて」


 ルファは首を振った。


「それで、何に困っているの?」


 女の手が止まった。


「……娘の顔が見たいんです」


 窓の外では、春の風が若い葉を揺らしていた。


「八歳になる娘がいます。あの子の顔にも、白い蝶がとまっているんです。学校から帰ってきても、食事をしていても、寝る前に本を読んであげるときも」


 女は膝の上で手を重ねた。


「声は聞こえるんです。でも、笑っているのか、困っているのか、わからなくて」


 ルファはしばらく考えていた。


「……なるほど」


     *


 女は、幼い頃から人の顔をよく見ていた。


 父親は不機嫌になると口数が減り、食卓でもほとんど喋らなくなった。母親が何か尋ねても、短く答えるだけだった。


 そんな日は、夕食を早く終わらせたほうがいい。それを最初に覚えたのは、まだ小学校へ通っていた頃だった。


 父親の眉間に皺が寄ると、余計な話はしない。母親が疲れた顔をしていれば、食器を片づける。誰かが怒っていそうなら、先に笑ってみせた。


 そうしているうちに、相手の顔を見るのが癖になった。

 大人になってからも変わらなかった。


 職場では、上司の眉が動くだけで自分の仕事を見直した。同僚が黙り込めば、何か気に障ることを言ったのではないかと考えた。


 家でも、娘の表情をよく見ていた。

 楽しいのか。退屈していないか。怒っていないか。


 いつの間にか、相手が何か言うより先に、その表情から答えを探すようになっていた。


 そして、笑顔を作った。


 いつも。


 相手が安心するように。自分が責められないように。


 そんなある日のことだった。


 夕食のあと、娘が皿を割った。女が台所へ行くと、床には白い破片が散らばり、娘がその前で立ち尽くしていた。


「ごめんなさい」


 小さな声だった。

 女はすぐに笑顔を作った。


「大丈夫よ。怪我はない?」


 娘は首を振った。


「よかった。じゃあ、危ないから離れていてね」


 破片を拾おうとしたとき、娘が言った。


「お母さん、怒ってる?」


「怒ってないわよ」


「でも、笑ってる」


 女は手を止めた。


「……笑ってたら、おかしい?」


 娘は少し考えた。


「お皿が割れたのに、笑ってるから」


「大丈夫だよって、教えてあげたかったの」


「じゃあ、怒ってない?」


「ええ」


 娘は頷いた。

 けれど、床の破片を片づけている間、何度かこちらを見ていた。


 その視線が気になって、女はもう一度笑った。

 娘も、少しだけ笑い返した。


 その夜、女は洗面台の前に立った。

 鏡に向かって口角を上げてみる。


 唇は動いた。けれど、目元がうまくついてこなかった。


 もう一度。


 今度は頬に力を入れる。

 何度繰り返しても、鏡の中の顔は、どこか疲れて見えた。


 女は両手で頬を押さえた。


 翌朝、職場へ行くと、最初の蝶が現れた。


     *


「少し、試してみましょうか」


 ルファは棚の引き出しから、小さな眼鏡を取り出した。


 細い金色のフレームに、丸いレンズが二枚。中央の鼻当ての上には、虹色の硝子でできた青むしが飾られていた。


 赤、青、黄色、緑。


 小さな硝子をつなぎ合わせた身体が緩く曲がり、短い脚がフレームにしがみついている。


「可愛らしいですね」


 女が言った。


「ありがとう。硝子の飾りは、私が作ったの」


 ルファは眼鏡を差し出した。


「この眼鏡をかければ、蝶が消えて見えるわ」


「本当ですか?」


「ええ。試してみて」


 女は少し迷ってから、眼鏡をかけた。


 レンズの向こうに、鮮やかな青い蝶がいた。

 羽を広げ、ルファの顔を隠している。


 女は瞬きをした。

 青い羽が、ゆっくりと閉じた。


 もう一度瞬きをすると、蝶は羽を広げたまま宙へ浮き上がり、どこかへ飛んでいった。


 そこに、ルファの顔があった。


 黒い髪。


 丸い眼鏡。


 翡翠色の瞳が、こちらを見ている。


「……見えます」


 女は思わず身を乗り出した。


「本当に、見えます」


 ライトのほうを向く。


 黄色い蝶も、ふわりと飛び立った。


 少年が目を丸くしている。


「どう? 俺の顔」


 女は笑った。


「ちゃんと見えますよ」


「そっか。よかった」


 ライトも笑った。


 女はその顔を、しばらく眺めていた。

 久しぶりに、人が笑うところを見たという。


 何度も礼を言って帰っていく女を、ルファとライトは扉の前で見送った。


 春の日差しが、硝子の窓を明るくしていた。


「なあ、ルファ」


「なあに?」


「あの眼鏡、何か魔法があるの?」


「いいえ」


 ルファは首を振った。


「普通の眼鏡よ」


「え?」


「度も入っていないわ。硝子の青むしがついているだけ」


 ライトは女が去った通りを見た。


「でも、蝶が消えたって」


「ええ」


「どうして?」


 ルファは少し考えた。


「眼鏡をかけたら見えると思えたことが、よかったのかも知れないわね」


「そんなもんかな」


「不思議でしょう?」


 ルファは微笑んだ。


 ライトは眼鏡のことをもう一度考えてみたが、よく分からなかった。


     *


 それからしばらく、女は眼鏡をかけて過ごした。


 蝶は現れなくなった。


 職場では、同僚の表情が見えるようになり、客の顔も以前と同じように見えた。家では、娘の頬に小さなそばかすが増えていることに気づいた。


 久しぶりに見た娘の笑顔は、思っていたよりも大人びていた。


「お母さん、その眼鏡、可愛いね」


「そう?」


「真ん中に虫がいる」


「硝子の青むしよ。綺麗でしょう」


 娘は顔を近づけ、虹色の飾りを見つめた。


「蝶になるのかな」


「硝子だから、ならないわよ」


 女は笑った。

 娘も笑った。


 それでよかった。


 眼鏡を使い始めてから、女は鏡の前に立つ時間が長くなった。人の顔が見えるようになった。それは嬉しいことだった。


 しかし、自分の顔も、誰かに見られている。


 仕事へ行く前、鏡に向かって笑う。口角を上げる。目の形を確かめる。

 少し疲れて見えると、頬に手を当てた。


 夕方、娘を迎える前にも鏡を見た。


 疲れた顔をしていないだろうか。

 不機嫌そうに見えないだろうか。


 ある晩、夕食を作り終えた女は、台所の小さな鏡を見た。


 何も考えずに笑ってみる。

 

 やはり、うまくいかなかった。口だけが上がり、目元が動かない。


 もう一度やってみる。

 頬が引きつった。


 女は指で口角を押し上げた。


 しばらくそのままにしていたが、やがて手を離した。


「……疲れた」


 誰もいない台所で、声が漏れた。

 鏡の中の女は、笑っていなかった。


 人の顔が蝶で隠れていた頃を思い出した。


 あの頃は、相手が自分をどう思っているのかわからなかった。


 わからないまま話しても、案外、何も起こらなかった。


 だったら。


「……私にも、蝶がいればいいのに」


 鏡に向かって、そう呟いた。


 そのとき、鼻先で何かが動いた。

 

 女は目を凝らした。


 眼鏡の中央に飾られていた、小さな虹色の青むし。その脚が、わずかに動いている。


 一本。


 また一本。


 細い脚が鼻当てから離れ、鼻筋を這い上がってきた。


 女は慌てて眼鏡を外したが、青むしは落ちない。


 鏡の中では、虹色の小さな身体が鼻から額へと移動している。女は指で払おうとしたが、何も触れなかった。それでも、鏡の中の青むしは動いていた。


 やがて眉間まで来ると、身体を丸めて動かなくなった。


     *


 翌朝、女は鏡を見て驚いた。


 額に、小さなサナギがついていた。 

 薄い虹色の膜に包まれ、表面がつるりと光っている。


 指で触れてみる。皮膚には、何もない。


 けれど鏡の中では、確かにそこにあった。

 何度顔を洗っても、サナギは消えなかった。


 女はしばらく鏡を覗き込んでいたが、やがて眼鏡をかけ、仕事へ出かけた。


 その日は、誰も何も言わなかった。同僚も、店に来る客も、いつもどおりだった。娘も、額のサナギには気づかないようだった。


 翌日、サナギは少し大きくなった。


 その翌日には、額の半分を覆うほどになった。女は毎朝、鏡の前でそれを確かめた。最初は怖かったが、サナギの表面に赤や青の細かな模様が浮かび始めると、怖さとは別の気持ちが芽生えた。


 どんな蝶になるのだろう。

 

 あの青い蝶よりも、黄色い蝶よりも綺麗なものになるだろうか。


 そして七日目の朝、サナギに亀裂が入った。


 薄い膜がゆっくりと裂け、中から濡れた羽が現れる。


 女は鏡の前で息を止めた。


 羽は少しずつ広がっていった。


 赤、青、黄色、緑。


 細い黒い筋がその色を区切り、光を受けるたびに模様が変わる。


 見事な虹色の蝶だった。


 蝶は女の顔いっぱいに羽を広げ、静かにとまった。


 鏡の中から、目も鼻も口も消えた。


 女はしばらく動かなかった。


 顔を右へ向ける。


 蝶も一緒に動く。


 左へ向ける。


 やはり、顔は隠れたままだった。


 女は肩の力を抜いた。


 その日、初めて鏡の前で笑おうとしなかった。


     *


 蝶が現れてから、女は鏡を見る時間が減った。


 化粧をするときも、髪を整えるときも、あまり長く自分の顔を見なくなった。仕事中、客に笑いかける必要を感じても、以前ほど気にならなかった。


 どうせ、蝶が隠してくれている。


 そう思うと、口元の力が自然に抜けた。


 娘と話すときも同じだった。


 笑いたくなければ、笑わなくていい。


 疲れていれば、疲れたままでいられる。


 娘はときどき、そんな母親を不思議そうに見ていたが、以前のように顔色を確かめることは少なくなった。女は、それが嬉しかった。これでいいのだ。


 ところが、ある夜。


 かり。


 小さな音がした。


 女は寝台の上で目を開けた。


 窓の外では風が吹いている。


 木の枝が窓を擦ったのかと思い、もう一度目を閉じた。


 かり、かり。


 今度は、はっきり聞こえた。


 硬いものを削るような音だった。


 女は身体を起こした。


 耳を澄ます。


 かり。


 かり、かり。


 音は近かった。


 飛び起きて、枕の下を確かめる。壁に耳を当てる。


 何も聞こえない。


 寝台に戻ると、また音がした。


 かり、かり、かり。


 女はそこで気づいた。


 音がするたび、鼻の奥がかすかに震えていた。


 手を顔へ伸ばす。


 何も触れない。


 急いで鏡を覗いた。


 その中で、虹色の蝶が羽をゆっくりと動かしていた。


 かり。


 女は息を止めた。


 蝶が羽を動かす。


 かり、かり。


 音は、顔の内側から聞こえていた。


     *


「……助けてください」


 数日後、女は再び虹色Caféを訪れた。


 薄い化粧は崩れ、髪も乱れていた。眼鏡をかけたまま、扉の前に立ち尽くしている。


 ルファが顔を上げた。


「どうなさったの?」


 女は答えなかった。


 女の前には青い蝶の止まったルファがいた。


 カウンターの奥では、黄色い蝶が羽を広げていた。


「……どうして」


 女は眼鏡を押さえた。


「どうして、また……」


 何度瞬きをしても、蝶は消えなかった。


 ルファが椅子を引いた。


「まず、座って。お話を聞かせて」


「眼鏡をかけているのに」


 女の声が震えた。


「ちゃんとかけているのに、また見えるんです」


 ルファが何か言おうとした。


 けれど女は、ルファの顔にとまった蝶から目を離せなかった。


 青い羽が、ゆっくりと動いている。


 あの蝶さえいなくなれば、もう一度ルファの顔が見えるはずだった。


「……ちょっと、失礼します」


 女は手を伸ばした。


 ルファが驚いて身を引く。


 その目の前で、女は青い蝶を払った。


 羽が大きく揺れた。


 蝶はふわりと飛び上がり、店の天井へ消えていった。


 そのあとにあったのは、顔ではなかった。


 目の位置に、二つの黒い穴。


 その下に、もうひとつの穴。


 濡れた影のような、三つの孔が開いていた。


 鼻も、唇もない。


 黒い穴の奥には、何も見えなかった。


 女は後ずさった。


「……そんな」


「どおうしいたのお?」


 低いルファの声がした。いちばん下の穴が、声に合わせてわずかに広がっている。


 女は悲鳴を上げた。


 カウンターの奥で、ライトが立ち上がる。


「大丈夫?」


 その顔には、まだ黄色い蝶がとまっていた。


 女は首を振った。


「来ないで……!」


 ライトが足を止めると、黄色い蝶は羽を開いた。


 女は震える手を伸ばし、それを払った。


 羽が離れる。


 そこにも、三つの穴があった。


 青い蝶の下と、同じだった。


 目も、鼻も、口もない。


 ただ、三つの暗い穴が、ぽっかりと開いている。


 女は後ろへよろめき、椅子にぶつかった。


「……違う」


 何度も首を振る。


「違う、違う……」


 そのとき。


 かり。


 音がした。


 女は動きを止めた。


 かり、かり。


 あの音だった。


 鼻の奥が、かすかに震えている。


 女は顔を押さえた。


 虹色の蝶が、まだ自分の顔にとまっている。


 羽を動かすたび、かり、かりと音がする。


 女は店の奥にある鏡へ走った。


 眼鏡を外し、鏡に顔を近づける。


 虹色の蝶がいた。


 大きな羽を広げ、顔のすべてを隠している。


 かり。


 羽が動いた。


 かり、かり。


 女は震える手を伸ばした。


 指先が、蝶の羽に触れたように見えた。


 羽が動いている。


 女は指を閉じ、思いきり引いた。


 蝶が飛び立った。


 虹色の羽が鏡の前を横切り、天井のほうへ舞い上がる。


 女はすぐに鏡を見た。


 目があったはずの場所に、二つの黒い穴があった。


 その下に、もうひとつ。


 三つとも、奥が見えなかった。


 女は頬に手を当てた。


 指先には、温かな皮膚の感触があった。


 けれど、鏡の中には何もない。


 まばたきをしても、黒い穴は開いたままだった。


 口を動かす。


 いちばん下の穴が、ゆっくりと広がった。


「……いや」


 女は鏡に顔を寄せた。


「いや……!」


 穴の奥で、何かが動いた。


 かり。


 かり、かり。


 女は叫んだ。


 声は確かに聞こえた。


 けれど鏡の中には、声を出すための唇も、震える喉もなかった。


 黒い穴が、ただ大きく開いている。


 ルファが駆け寄り、女の肩へ手を伸ばした。


 女はその手を振り払おうとして、床に眼鏡を落とした。


 細い金色のフレームが、乾いた音を立てる。


 レンズには、ひびひとつ入っていなかった。


 その中央では、小さな虹色の硝子の青むしが、最初からそこにいたように光っていた。


 

     了


 

 

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