蝶の顔
「人の顔に、蝶がとまっているんです」
女はそう言って、カップの縁に指を添えた。
まだ三十代半ばだろうか。薄い化粧を施し、髪も綺麗に結っている。けれど、ルファと向かい合ってからというもの、その視線は落ち着かなかった。
「蝶?」
カウンターで宿題をしていたライトが顔を上げた。
「ええ。大きな、羽の広い蝶です。顔のちょうど真ん中にとまって、目も鼻も口も隠してしまうんです」
「俺にも?」
女はライトを見た。
「はい、黄色い蝶が」
ライトは自分の鼻先に手を当てた。
「どこ?」
「顔いっぱいに羽を広げているんです。とても綺麗な蝶ですよ」
「へえ。見てみたいな」
ライトが顔を左右に動かしていると、ルファが小さく笑った。
「私には、どんな蝶がいるのかしら」
「鮮やかな青い蝶です。羽の縁が黒くて、光が当たると紫色にも見えて……」
女はそこまで話すと、少し俯いた。
「……でも、そのせいで、お二人がどんな顔をしているのかわからないんです」
ルファはカップを置いた。
「いつから、そう見えるようになったの?」
「二週間ほど前です。朝、職場へ行ったら、同僚の顔に蝶がとまっていて……。最初は驚いて、声を上げてしまいました」
「ほかに見える人は?」
「いいえ。誰に聞いても、そんなものはいないって」
女はカップの中を覗いた。
「最初は怖かったんです。人と話していても、どんな顔をしているのか分からないから」
女は指でカップの取っ手をなぞった。
「でも……」
そこで言葉が止まったが、ルファは続きを待った。
「少し、楽になったんです」
「楽に?」
「ええ。相手が怒っているかもしれないとか、嫌な顔をされたかもしれないとか、考えなくて済むようになって」
女は顔を上げた。
「変ですよね。こんなことになって、少し安心しているなんて」
ルファは首を振った。
「それで、何に困っているの?」
女の手が止まった。
「……娘の顔が見たいんです」
窓の外では、春の風が若い葉を揺らしていた。
「八歳になる娘がいます。あの子の顔にも、白い蝶がとまっているんです。学校から帰ってきても、食事をしていても、寝る前に本を読んであげるときも」
女は膝の上で手を重ねた。
「声は聞こえるんです。でも、笑っているのか、困っているのか、わからなくて」
ルファはしばらく考えていた。
「……なるほど」
*
女は、幼い頃から人の顔をよく見ていた。
父親は不機嫌になると口数が減り、食卓でもほとんど喋らなくなった。母親が何か尋ねても、短く答えるだけだった。
そんな日は、夕食を早く終わらせたほうがいい。それを最初に覚えたのは、まだ小学校へ通っていた頃だった。
父親の眉間に皺が寄ると、余計な話はしない。母親が疲れた顔をしていれば、食器を片づける。誰かが怒っていそうなら、先に笑ってみせた。
そうしているうちに、相手の顔を見るのが癖になった。
大人になってからも変わらなかった。
職場では、上司の眉が動くだけで自分の仕事を見直した。同僚が黙り込めば、何か気に障ることを言ったのではないかと考えた。
家でも、娘の表情をよく見ていた。
楽しいのか。退屈していないか。怒っていないか。
いつの間にか、相手が何か言うより先に、その表情から答えを探すようになっていた。
そして、笑顔を作った。
いつも。
相手が安心するように。自分が責められないように。
そんなある日のことだった。
夕食のあと、娘が皿を割った。女が台所へ行くと、床には白い破片が散らばり、娘がその前で立ち尽くしていた。
「ごめんなさい」
小さな声だった。
女はすぐに笑顔を作った。
「大丈夫よ。怪我はない?」
娘は首を振った。
「よかった。じゃあ、危ないから離れていてね」
破片を拾おうとしたとき、娘が言った。
「お母さん、怒ってる?」
「怒ってないわよ」
「でも、笑ってる」
女は手を止めた。
「……笑ってたら、おかしい?」
娘は少し考えた。
「お皿が割れたのに、笑ってるから」
「大丈夫だよって、教えてあげたかったの」
「じゃあ、怒ってない?」
「ええ」
娘は頷いた。
けれど、床の破片を片づけている間、何度かこちらを見ていた。
その視線が気になって、女はもう一度笑った。
娘も、少しだけ笑い返した。
その夜、女は洗面台の前に立った。
鏡に向かって口角を上げてみる。
唇は動いた。けれど、目元がうまくついてこなかった。
もう一度。
今度は頬に力を入れる。
何度繰り返しても、鏡の中の顔は、どこか疲れて見えた。
女は両手で頬を押さえた。
翌朝、職場へ行くと、最初の蝶が現れた。
*
「少し、試してみましょうか」
ルファは棚の引き出しから、小さな眼鏡を取り出した。
細い金色のフレームに、丸いレンズが二枚。中央の鼻当ての上には、虹色の硝子でできた青むしが飾られていた。
赤、青、黄色、緑。
小さな硝子をつなぎ合わせた身体が緩く曲がり、短い脚がフレームにしがみついている。
「可愛らしいですね」
女が言った。
「ありがとう。硝子の飾りは、私が作ったの」
ルファは眼鏡を差し出した。
「この眼鏡をかければ、蝶が消えて見えるわ」
「本当ですか?」
「ええ。試してみて」
女は少し迷ってから、眼鏡をかけた。
レンズの向こうに、鮮やかな青い蝶がいた。
羽を広げ、ルファの顔を隠している。
女は瞬きをした。
青い羽が、ゆっくりと閉じた。
もう一度瞬きをすると、蝶は羽を広げたまま宙へ浮き上がり、どこかへ飛んでいった。
そこに、ルファの顔があった。
黒い髪。
丸い眼鏡。
翡翠色の瞳が、こちらを見ている。
「……見えます」
女は思わず身を乗り出した。
「本当に、見えます」
ライトのほうを向く。
黄色い蝶も、ふわりと飛び立った。
少年が目を丸くしている。
「どう? 俺の顔」
女は笑った。
「ちゃんと見えますよ」
「そっか。よかった」
ライトも笑った。
女はその顔を、しばらく眺めていた。
久しぶりに、人が笑うところを見たという。
何度も礼を言って帰っていく女を、ルファとライトは扉の前で見送った。
春の日差しが、硝子の窓を明るくしていた。
「なあ、ルファ」
「なあに?」
「あの眼鏡、何か魔法があるの?」
「いいえ」
ルファは首を振った。
「普通の眼鏡よ」
「え?」
「度も入っていないわ。硝子の青むしがついているだけ」
ライトは女が去った通りを見た。
「でも、蝶が消えたって」
「ええ」
「どうして?」
ルファは少し考えた。
「眼鏡をかけたら見えると思えたことが、よかったのかも知れないわね」
「そんなもんかな」
「不思議でしょう?」
ルファは微笑んだ。
ライトは眼鏡のことをもう一度考えてみたが、よく分からなかった。
*
それからしばらく、女は眼鏡をかけて過ごした。
蝶は現れなくなった。
職場では、同僚の表情が見えるようになり、客の顔も以前と同じように見えた。家では、娘の頬に小さなそばかすが増えていることに気づいた。
久しぶりに見た娘の笑顔は、思っていたよりも大人びていた。
「お母さん、その眼鏡、可愛いね」
「そう?」
「真ん中に虫がいる」
「硝子の青むしよ。綺麗でしょう」
娘は顔を近づけ、虹色の飾りを見つめた。
「蝶になるのかな」
「硝子だから、ならないわよ」
女は笑った。
娘も笑った。
それでよかった。
眼鏡を使い始めてから、女は鏡の前に立つ時間が長くなった。人の顔が見えるようになった。それは嬉しいことだった。
しかし、自分の顔も、誰かに見られている。
仕事へ行く前、鏡に向かって笑う。口角を上げる。目の形を確かめる。
少し疲れて見えると、頬に手を当てた。
夕方、娘を迎える前にも鏡を見た。
疲れた顔をしていないだろうか。
不機嫌そうに見えないだろうか。
ある晩、夕食を作り終えた女は、台所の小さな鏡を見た。
何も考えずに笑ってみる。
やはり、うまくいかなかった。口だけが上がり、目元が動かない。
もう一度やってみる。
頬が引きつった。
女は指で口角を押し上げた。
しばらくそのままにしていたが、やがて手を離した。
「……疲れた」
誰もいない台所で、声が漏れた。
鏡の中の女は、笑っていなかった。
人の顔が蝶で隠れていた頃を思い出した。
あの頃は、相手が自分をどう思っているのかわからなかった。
わからないまま話しても、案外、何も起こらなかった。
だったら。
「……私にも、蝶がいればいいのに」
鏡に向かって、そう呟いた。
そのとき、鼻先で何かが動いた。
女は目を凝らした。
眼鏡の中央に飾られていた、小さな虹色の青むし。その脚が、わずかに動いている。
一本。
また一本。
細い脚が鼻当てから離れ、鼻筋を這い上がってきた。
女は慌てて眼鏡を外したが、青むしは落ちない。
鏡の中では、虹色の小さな身体が鼻から額へと移動している。女は指で払おうとしたが、何も触れなかった。それでも、鏡の中の青むしは動いていた。
やがて眉間まで来ると、身体を丸めて動かなくなった。
*
翌朝、女は鏡を見て驚いた。
額に、小さなサナギがついていた。
薄い虹色の膜に包まれ、表面がつるりと光っている。
指で触れてみる。皮膚には、何もない。
けれど鏡の中では、確かにそこにあった。
何度顔を洗っても、サナギは消えなかった。
女はしばらく鏡を覗き込んでいたが、やがて眼鏡をかけ、仕事へ出かけた。
その日は、誰も何も言わなかった。同僚も、店に来る客も、いつもどおりだった。娘も、額のサナギには気づかないようだった。
翌日、サナギは少し大きくなった。
その翌日には、額の半分を覆うほどになった。女は毎朝、鏡の前でそれを確かめた。最初は怖かったが、サナギの表面に赤や青の細かな模様が浮かび始めると、怖さとは別の気持ちが芽生えた。
どんな蝶になるのだろう。
あの青い蝶よりも、黄色い蝶よりも綺麗なものになるだろうか。
そして七日目の朝、サナギに亀裂が入った。
薄い膜がゆっくりと裂け、中から濡れた羽が現れる。
女は鏡の前で息を止めた。
羽は少しずつ広がっていった。
赤、青、黄色、緑。
細い黒い筋がその色を区切り、光を受けるたびに模様が変わる。
見事な虹色の蝶だった。
蝶は女の顔いっぱいに羽を広げ、静かにとまった。
鏡の中から、目も鼻も口も消えた。
女はしばらく動かなかった。
顔を右へ向ける。
蝶も一緒に動く。
左へ向ける。
やはり、顔は隠れたままだった。
女は肩の力を抜いた。
その日、初めて鏡の前で笑おうとしなかった。
*
蝶が現れてから、女は鏡を見る時間が減った。
化粧をするときも、髪を整えるときも、あまり長く自分の顔を見なくなった。仕事中、客に笑いかける必要を感じても、以前ほど気にならなかった。
どうせ、蝶が隠してくれている。
そう思うと、口元の力が自然に抜けた。
娘と話すときも同じだった。
笑いたくなければ、笑わなくていい。
疲れていれば、疲れたままでいられる。
娘はときどき、そんな母親を不思議そうに見ていたが、以前のように顔色を確かめることは少なくなった。女は、それが嬉しかった。これでいいのだ。
ところが、ある夜。
かり。
小さな音がした。
女は寝台の上で目を開けた。
窓の外では風が吹いている。
木の枝が窓を擦ったのかと思い、もう一度目を閉じた。
かり、かり。
今度は、はっきり聞こえた。
硬いものを削るような音だった。
女は身体を起こした。
耳を澄ます。
かり。
かり、かり。
音は近かった。
飛び起きて、枕の下を確かめる。壁に耳を当てる。
何も聞こえない。
寝台に戻ると、また音がした。
かり、かり、かり。
女はそこで気づいた。
音がするたび、鼻の奥がかすかに震えていた。
手を顔へ伸ばす。
何も触れない。
急いで鏡を覗いた。
その中で、虹色の蝶が羽をゆっくりと動かしていた。
かり。
女は息を止めた。
蝶が羽を動かす。
かり、かり。
音は、顔の内側から聞こえていた。
*
「……助けてください」
数日後、女は再び虹色Caféを訪れた。
薄い化粧は崩れ、髪も乱れていた。眼鏡をかけたまま、扉の前に立ち尽くしている。
ルファが顔を上げた。
「どうなさったの?」
女は答えなかった。
女の前には青い蝶の止まったルファがいた。
カウンターの奥では、黄色い蝶が羽を広げていた。
「……どうして」
女は眼鏡を押さえた。
「どうして、また……」
何度瞬きをしても、蝶は消えなかった。
ルファが椅子を引いた。
「まず、座って。お話を聞かせて」
「眼鏡をかけているのに」
女の声が震えた。
「ちゃんとかけているのに、また見えるんです」
ルファが何か言おうとした。
けれど女は、ルファの顔にとまった蝶から目を離せなかった。
青い羽が、ゆっくりと動いている。
あの蝶さえいなくなれば、もう一度ルファの顔が見えるはずだった。
「……ちょっと、失礼します」
女は手を伸ばした。
ルファが驚いて身を引く。
その目の前で、女は青い蝶を払った。
羽が大きく揺れた。
蝶はふわりと飛び上がり、店の天井へ消えていった。
そのあとにあったのは、顔ではなかった。
目の位置に、二つの黒い穴。
その下に、もうひとつの穴。
濡れた影のような、三つの孔が開いていた。
鼻も、唇もない。
黒い穴の奥には、何も見えなかった。
女は後ずさった。
「……そんな」
「どおうしいたのお?」
低いルファの声がした。いちばん下の穴が、声に合わせてわずかに広がっている。
女は悲鳴を上げた。
カウンターの奥で、ライトが立ち上がる。
「大丈夫?」
その顔には、まだ黄色い蝶がとまっていた。
女は首を振った。
「来ないで……!」
ライトが足を止めると、黄色い蝶は羽を開いた。
女は震える手を伸ばし、それを払った。
羽が離れる。
そこにも、三つの穴があった。
青い蝶の下と、同じだった。
目も、鼻も、口もない。
ただ、三つの暗い穴が、ぽっかりと開いている。
女は後ろへよろめき、椅子にぶつかった。
「……違う」
何度も首を振る。
「違う、違う……」
そのとき。
かり。
音がした。
女は動きを止めた。
かり、かり。
あの音だった。
鼻の奥が、かすかに震えている。
女は顔を押さえた。
虹色の蝶が、まだ自分の顔にとまっている。
羽を動かすたび、かり、かりと音がする。
女は店の奥にある鏡へ走った。
眼鏡を外し、鏡に顔を近づける。
虹色の蝶がいた。
大きな羽を広げ、顔のすべてを隠している。
かり。
羽が動いた。
かり、かり。
女は震える手を伸ばした。
指先が、蝶の羽に触れたように見えた。
羽が動いている。
女は指を閉じ、思いきり引いた。
蝶が飛び立った。
虹色の羽が鏡の前を横切り、天井のほうへ舞い上がる。
女はすぐに鏡を見た。
目があったはずの場所に、二つの黒い穴があった。
その下に、もうひとつ。
三つとも、奥が見えなかった。
女は頬に手を当てた。
指先には、温かな皮膚の感触があった。
けれど、鏡の中には何もない。
まばたきをしても、黒い穴は開いたままだった。
口を動かす。
いちばん下の穴が、ゆっくりと広がった。
「……いや」
女は鏡に顔を寄せた。
「いや……!」
穴の奥で、何かが動いた。
かり。
かり、かり。
女は叫んだ。
声は確かに聞こえた。
けれど鏡の中には、声を出すための唇も、震える喉もなかった。
黒い穴が、ただ大きく開いている。
ルファが駆け寄り、女の肩へ手を伸ばした。
女はその手を振り払おうとして、床に眼鏡を落とした。
細い金色のフレームが、乾いた音を立てる。
レンズには、ひびひとつ入っていなかった。
その中央では、小さな虹色の硝子の青むしが、最初からそこにいたように光っていた。
了




