家庭教師の訪れ
「…ネ様!セレーネ様!」
どこか遠くから私の声を呼ぶ声がする。耳に残るような軽やかな声で、聞き馴染みのある声だ。まぶたの外側では太陽が上がっているのだろうか、ほのかな光が感じられる。いつもだったらこのように声をかけられればすぐにでも飛び起きるのだけれど、どうも昨日書庫にあった本を夜がふけるのも忘れて大量一気読みしてしまったために疲労が積もってまぶたが重かった。
つい、声を無視して居眠りを続ける。
「…セレーネ。早く起きなさい」
私が睡眠を続けようと布団を頭に覆いかぶせた瞬間、耳のそばで声が聞こえた。どこか聞き覚えのあるような…男の声だ。低くて冷たい声で、貴族のプライドとはまた少し違った高圧的な声だった。
「ッハァ!!」
思いっきり布団をはねのけて体を起こした。
昨日は日が上り始めてから目を閉じたから、眠くはあった。けれど、まだ耳元に残った不気味な違和感を前にしてお気楽にベッドで眠ることは私には難しかったようだ。
身体中から汗がダラダラと流れていた。呼吸も荒くなっている。
「セレーネ様、やっと起きられましたか!もう…あと少し起きるのが遅ければシアの『好きな殿方もイチコロっ♡絶対に離してやらないんだからMAXホールド』をして差し上げられたのですが…」
そう言いながら残念そうにしているシアを見て、先ほどの不気味な出来事が薄まった。
(夢だったのかしら…それにしても、あの声…どこかで…)
違和感は払拭できなかったが、夢のことをいつまでも気にしている暇はない。今日は、初めて私の家庭教師がくる日だ。先ほどまでは、眠くて家庭教師のことなど忘れて眠りについていたけれど、気を引き締めていこう。
――――――――――――
「もうすぐ先生がいらっしゃいますね」
朝食を食べ終わって、時計が9時をさそうとした頃、公爵家の門にある呼び鈴が鳴らされた。外を見てみると、馬車が一台。
ただし…
「あら?あの馬車…馬がいないじゃないですか?!」
シアが目を丸くさせて驚機の声をあげた。私も驚いたが、顔には出ない。
(声で感情を表現する術を彼女から教えてもらうのも良いかもしれない)
どう見ても車体部分は馬車の構造をしているのだが、馬を結び、御者が手綱を握るところには、馬も人間も、誰一人としていない。
魔道具による発明品なのだろうか。階段を降りて、長い庭園を走り渡って、ようやく門の前へとたどり着いた。
8歳の自分の小さな体から見上げるように大きい馬車へ向かって、できる限り凛とした姿勢で声をかける。
「長い道のりお疲れ様でした。冷たい紅茶でも用意させますのでまずは、ご挨拶ができればと存じます」
家庭教師と会うときでも、なんでも、『最初の印象が大事』というように、はじめの相手への態度がその人の評価に直結する…と何かの本で読んだ。
だからとりあえず、①公爵家まで来てくれたことへの謝辞、②季節にあった休憩の提案、③自然な流れでの挨拶…のシナリオを用意しておいた。どうだろう。とても貴族らしい言葉なんじゃないだろうか。これであれば、たとえ私が今まで公爵家で別邸で厄介者として扱われていたことなど、わからないほどに…誰も私を侮れないのではないだろうか。
心なしか満足気な気分で、馬車が開くのを待っていると…馬車の奥から声がしてきた。
「52点。」
唐突な採点。
「…?」
訳もわからず何かおかしなことをしてしまったのかとうろたえていると、馬車の扉がフッと開いた。(開いたというべきか、消えたというべきか…。)
中から降りてきたのは黒いドレスに黒いえつき帽子、黒い羽扇子に黒いヒールを履いた年配の女性。きつい印象を抱かせる彼女はその印象通りの言葉を私へぶつけた。
「よくて52点。もしあなたが子供でなければ0点を叩きつけていたところよ!!」
口元を隠すようにバット広げた扇子に白く52の文字が浮かび上がった。
「え、ええと…何か足りない点がござい…」
東方の国に存在する『オニ』のような形相をして、閉じた扇子を私の方へ鋭く向ける。
「まず!私が来るのは9時だと事前に伝えていたのだから、その時には門前に立っておかなければ。客人をあなたはいくら待たせるつもりなのかしら?それから、馬車から降りてもいないのに、自分から一方的に話しかけるのも減点。もし私が馬車の中で倒れていたら、あなたは気絶した病人に呑気にお茶を進めていたことになっているのよ?あと、客人の情報を全く勉強していなかったわね。あなた。別邸で育った世間知らずで、表情筋が仕事しないだかなんだか知らないけれど、私の住んでいる邸宅がここから馬車で10分もかからないところにあることを知らないだなんて。旅への労いの言葉を告げるのは加点だけれど、無情報でのソレは、時に相手の怒りを買うわ…そう。今の私。マダム・エリザベートのようにねっ!!」
いつ呼吸をしたのだろうかという勢いで、シアも顔負けのマシンガントークをかました後、おそらく私の先生となるはずのマダム・エリザベートはブツブツと文句を言いながら、門の中へと進んで行った。…呆然と立ち尽くシアと私を残して。
ギシギシと首を後ろに振り向かせ、私は微かな希望を持ってシアに尋ねた。
「あのマダムが…実は家庭教師ではない…的な?」
「釣書で見た顔と、一緒でしたね…」
シアががくりと膝を地面につけた。無理もない。先ほどダメ出しした私のマダム・エリザベートへの声掛けは、下級貴族であるシアが主に考えてくれたもので、『人より上の立場で話す機会があまりないものだから興奮する』と息巻いて、色々考えてかいていたものだったから…。
「う〜!あのマダム少し苦手です!公爵令嬢相手にあそこまで言う必要ないと思いませんか?釣書で見た爵位は確か、ただの伯爵夫人…しかも社交界離れをしている地方住みの方ですよ!」
よほど自分の貴族としての心遣いを詰め込んだ声掛けを低評価されたことが癪に触ったのか、発散どころのない怒りを腕を振り回して解消させようとしている。
私も、初対面の人にあそこまでダメ出しを食らって上から睨みつけられることはなかったものだから、豆鉄砲を食らった気分だ。ただ、彼女の話していたことは全て的を射ていたし、別邸の使用人たちのように思っていることを口に出さずに影でひどく言われるよりよっぽど良いとも思った。
少なくとも、客観的なアドバイスをしてくれる、という観点でみると、マダム・エリザベートは私の家庭教師として、ひどく優秀な気がしてならなかった。




