平民の食べ物と蔑まれた私のカレーが、国境を超えて王を虜にしたので、もう元婚約者には作りません
「――カレー? 平民の食べ物を私の婚約者に振る舞うなど、侯爵令嬢の恥さらしだ」
王太子アルヴィン殿下の冷たい声が、王宮の大広間に響き渡った。
私、リーゼロッテ・フォン・ヴァイスベルクは、静かに睫毛を伏せる。
(ああ、ようやくこの日が来たのね)
三年間。私は殿下のために、この世界にない料理を一から作り上げてきた。香辛料の調合から始め、魔力を込めた特製のスパイスを開発し、ようやく完成させた秘伝のカレー。
それが今、聖女エステル嬢の白い手の中にある。
「殿下、私はただ皆様に喜んでいただきたくて……」
エステル嬢が困ったように眉を下げ、翡翠色の瞳を潤ませた。その仕草の、なんと計算し尽くされていることか。
(三年よ。三年かけて完成させたレシピを、あの女に盗まれた挙句この仕打ち……)
「エステルは悪くない。悪いのは、このような下賤な料理で王族を愚弄しようとしたリーゼロッテだ」
殿下の氷のような青い瞳が、私を見下ろす。
周囲の貴族たちがざわめいた。同情、嘲笑、好奇――様々な視線が私に突き刺さる。けれど、私の心は凪いでいた。
(前世で過労死するまで働いた三ツ星レストラン。あの地獄のような厨房に比べれば、この程度の理不尽など)
「本日をもって、リーゼロッテ・フォン・ヴァイスベルクとの婚約を破棄する」
――それは、私が三年間待ち望んでいた言葉だった。
私は深く息を吸い、微笑んだ。
「ああ、そうですか」
殿下の眉がぴくりと動く。
「……何だと?」
「では、もう殿下にお作りすることはありませんね」
「……何?」
静かに、けれど一点の曇りもなく言い放つ。
「私のカレーは、私を大切にしてくれる人のためだけに作ります」
殿下の顔に、初めて動揺が走った。私が泣き崩れるとでも思っていたのだろうか。それとも、許しを乞うとでも?
「リーゼロッテ、貴様……っ」
「お言葉ですが」
私は優雅にスカートの裾を摘み、完璧な礼をとった。
「『侯爵令嬢の恥さらし』は、本日をもって解消されましたので。どうぞお気になさらず」
踵を返す。
「待て、リーゼロッテ! 私の許可なく去るなど――!」
背後で殿下が叫んでいたが、もう聞こえない。
(残念ね、殿下。私はもう、あなたに未練などないの)
大広間を出る瞬間、弟のルキウスと目が合った。彼は拳を震わせ、今にも殿下に斬りかかりそうな顔をしていた。
私は小さく首を振る。大丈夫、と。
「姉上……!」
ルキウスが駆け寄ってくる。その琥珀色の瞳には、怒りと心配が入り混じっていた。
(大丈夫よ、ルキウス。さあ、第二の人生の始まりよ)
王宮の重い扉が、私の背後で閉じた。
それは終わりではなく、始まりの音だった。
◇ ◇ ◇
婚約破棄から三日後。
私は実家の敷地の片隅に建つ、小さな離れの前に立っていた。
「姉上、本当にここで店を?」
ルキウスが不安そうに周囲を見回す。貴族街の外れとはいえ、商人や冒険者が行き交う通りに面した立地。侯爵令嬢が店を開くには、あまりにも庶民的な場所だった。
「ええ、ここがいいの」
私は微笑んで扉を開けた。
中は埃っぽく、蜘蛛の巣が張っている。けれど、広さは十分。厨房に改装できそうなスペースもある。
(前世のレストランを思い出すわね。あの頃は、こんな小さな厨房から始まったんだった)
「父上が黙って用意してくださったのよ」
「父上が!? あの気弱な父上が……」
ルキウスが目を見開く。後妻の顔色を窺ってばかりの父が、その目を盗んでこんなことをしてくれたとは。
「せめてもの、罪滅ぼしのつもりでしょうね」
私は窓を開け、埃っぽい空気を入れ替えた。父の不器用な優しさが、少しだけ胸に沁みる。
「さあ、掃除を始めましょう。一週間後には開店よ」
「一週間!? 姉上、無茶です!」
「無茶じゃないわ。私には三年分の準備があるもの」
香辛料の調合レシピ。魔力を込める技法。この世界の食材で再現した異世界の味。
全ては、この日のために。
◇ ◇ ◇
一週間後。
『魔法のカレー亭』
手書きの看板を掲げた小さな食堂は、開店初日から予想外の事態に見舞われた。
「おい、ここが噂の店か?」
「Bランク冒険者のガルドが『迷宮の疲労が嘘みたいに消えた』って言ってたぞ」
「マジかよ。俺も食わせてくれ!」
冒険者ギルドで噂が広まったらしい。開店一時間で、店の前には行列ができていた。
「姉上、見てください! 店の前に行列が……!」
ルキウスが目を輝かせて厨房を覗き込む。
私は黙々とカレーを作り続けた。
(魔力回復効果のある香辛料を調合した特製レシピ。前世の知識と、この世界の魔力を融合させた、私だけの味)
黄金色のルーが、鍋の中でとろりと輝く。スパイスの香りが立ち上り、店内を満たしていく。
王太子殿下は『平民の食べ物』と蔑んだ。
けれど、この世界の人々は知らないのだ。カレーという料理が、どれほど人の心と体を癒すか。
「おかわり!」
「俺も!」
「すまん、あと三杯!」
怒涛の注文をさばきながら、私は静かに笑った。
(見ていなさい、殿下。私のカレーが、この国を変えてみせるわ)
その時はまだ、知らなかった。
この小さな食堂が、やがて二つの国の運命を動かすことになるとは。
◇ ◇ ◇
開店から二週間。
『魔法のカレー亭』の噂は、冒険者ギルドを超えて貴族街にまで届いていた。
「Sランク冒険者のヴォルフ様が毎日通っているらしい」
「魔力回復効果が回復薬より高いって本当?」
「元王太子妃候補が作っているんだろう? どんな味か気になる」
その日も、店は満席だった。冒険者、商人、中には貴族の使用人らしき姿も見える。
「いらっしゃいま――」
私は言葉を止めた。
入口に立っていたのは、フードを目深に被った青年。質素な旅装だが、その立ち姿には隠しきれない気品があった。
(この雰囲気……ただの客じゃない)
「一名様ですか?」
「ああ。カウンターで構わない」
低く、よく通る声。青年はカウンターの端に座り、フードを少しだけ上げた。
深い黒髪。憂いを帯びた深紅の瞳。精悍な顔立ちに、どこか寂しげな影が宿っている。
「カレーを一つ」
「かしこまりました」
私は動揺を押し殺し、いつも通りカレーを盛り付けた。白い皿の上で、黄金色のルーが艶やかに輝く。
「お待たせしました。当店自慢の『魔法のカレー』です」
青年は黙ってスプーンを手に取り、一口。
次の瞬間、その深紅の瞳から、涙が一筋こぼれ落ちた。
「……この味」
震える声。
「母上が……作ってくれたものと、同じだ」
私は息を呑んだ。
(この方の涙……まさか、転生者のことをご存知なの?)
青年がフードを取る。その顔を見て、周囲の客たちが凍りついた。
「へ、陛下……!?」
「隣国ヴェルミリオンの国王陛下じゃないか!」
ざわめきが広がる。椅子から転げ落ちそうになる者、慌てて跪こうとする者。
けれど、青年――セドリック国王陛下は、それを気にする様子もなく、ただカレーを見つめていた。
「君は」
陛下の深紅の瞳が、真っ直ぐに私を射抜く。
「君は、何者だ?」
私は静かに微笑んだ。
「ただの料理人ですわ、陛下」
「嘘だな」
陛下が立ち上がる。長身の体躯が、私を見下ろした。けれどその眼差しには、王太子殿下のような傲慢さは欠片もなかった。
「この味を知っている人間は、この世界に二人しかいないはずだ。一人は亡き母上。そしてもう一人は――」
「もう一人は?」
「母上と同じ、『向こう側』から来た者」
心臓が跳ねた。
「陛下、その話は、ここでは……」
「ああ、そうだな」
陛下は頷き、懐から一枚のカードを取り出した。ヴェルミリオン王家の紋章が刻まれている。
「三日後、我が国の大使館に来てほしい。見せたいものがある」
「見せたいもの?」
「母上の形見だ」
深紅の瞳が、切なく細められた。
「君なら、読めるはずだ。あのレシピノートを」
◇ ◇ ◇
三日後。
私は隣国の大使館で、一冊の古びたノートを手にしていた。
『エリザベータの料理帳』
革表紙は経年で色褪せ、角は擦り切れている。けれど、中の文字は丁寧に書かれ、大切に保管されてきたことがわかった。
そこに書かれていたのは、紛れもない日本語。
肉じゃが、味噌汁、オムライス、ハンバーグ――前世で慣れ親しんだ家庭料理のレシピが、びっしりと記されていた。
(同じだ。私と同じ、転生者……)
「母上は、誰にも理解されなかった」
セドリック陛下が、窓の外を見つめながら言う。午後の陽光が、その黒髪を柔らかく照らしていた。
「『変わった料理を作る王妃』と陰口を叩かれ、孤独のうちに亡くなった。俺は幼すぎて、何もできなかった」
「陛下……」
「母上はいつも言っていた。『いつか、この料理で皆を笑顔にしたい』と。けれど、誰もその夢を理解しなかった」
陛下が振り返る。その瞳には、幼い日の無力さへの悔恨と、それを乗り越えた強い光が宿っていた。
「だから君に頼みがある」
「はい」
「我が国の宮廷料理長になってくれないか。母上の夢を、君に継いでほしい。この世界の食文化を変えるという夢を」
私は目を見開いた。
(この世界の食文化を変える――それは、私が前世から抱いていた夢そのもの)
前世の私は、三ツ星レストランで働いていた。けれど、本当にやりたかったことは違う。美食家を唸らせることではなく、普通の人々を料理で幸せにすること。
それを、この方は理解してくれている。
「お返事は、すぐにはできませんわ」
「構わない。待つ」
陛下が微笑む。その笑顔は、王宮で見た王太子殿下とは、まるで違っていた。
温かくて、誠実で、そして少しだけ寂しそうな笑顔。
「君の作る料理を、もっと食べたい。それだけは、確かだから」
私の心臓が、小さく跳ねた。
(これは、恋ではない。まだ。けれど、その種が蒔かれた瞬間を、私は確かに感じていた)
◇ ◇ ◇
同じ頃、クラウディウス王宮では異変が起きていた。
「う……気分が悪い……」
「私も、昨日からずっと……」
「聖女様のカレーを食べてから、体調が優れなくて」
貴族たちの間で、原因不明の体調不良が広がっていた。夜会に出席できない者が続出し、王宮内は不穏な空気に包まれていた。
「エステル、これはどういうことだ?」
アルヴィン王太子は、青ざめた顔で聖女を問い詰めた。
「わ、私にもわかりません……」
エステルは震える声で首を振る。けれど、その翡翠色の瞳の奥には、明らかな動揺があった。
(まさか、こんなことになるなんて)
彼女はリーゼロッテのレシピを盗んだだけだった。あの香辛料の調合さえ真似れば、同じ効果が得られると思っていた。
けれど、現実は違った。
魔力回復どころか、調合を誤った香辛料は、貴族たちの体に害を及ぼしていたのだ。
「殿下、お話があります」
扉が開き、一人の老女が入ってきた。白髪交じりの髪をシニヨンにまとめた、小柄だが威厳のある女性。
「マルグリット・ホーエンベルク……元宮廷料理長か」
「ご無沙汰しております、殿下」
マルグリットは厳しい目でエステルを見た。四十年の経験が培った眼光は、鋭く相手の本質を見抜く。
「聖女様のカレー、私が分析させていただきました」
「それで、結果は?」
「結論から申し上げます」
マルグリットの声が、冷たく響いた。
「このカレーは、リーゼロッテ嬢のレシピを盗用した劣化版です。しかも、香辛料の調合が根本的に間違っている。魔力回復効果がないどころか、継続摂取すれば体調不良を引き起こします」
「なっ……!」
エステルの顔から血の気が引いた。
「嘘です! 私は自分でレシピを開発して――」
「嘘をつくなら、もう少し上手におつきなさい」
マルグリットが冷たく遮る。
「私は四十年、この国の宮廷料理を見てきた。本物と偽物の区別くらいつく。リーゼロッテ嬢のカレーには、この世界のどこにもない調合技術が使われていた。あれを再現できる者は、本人以外にいない」
「エステル……」
アルヴィンの声が震えた。
「本当なのか? リーゼロッテのレシピを……」
「ち、違います! 殿下、私を信じてください!」
エステルがすがりつく。けれど、その演技はもう、誰の心も動かさなかった。
「殿下」
マルグリットが静かに言った。
「手遅れになる前に、リーゼロッテ嬢に解毒の調合を依頼されることをお勧めします」
◇ ◇ ◇
「殿下、もう一つ報告があります」
側近の騎士が、険しい顔で告げた。
「リーゼロッテ嬢のカレーに使われている希少香辛料……その産地を調べたところ、隣国ヴェルミリオンの領土内であることが判明しました」
「隣国だと?」
「はい。我が国の一部の者が、その香辛料を独自に入手しようと動いた結果……」
騎士が言葉を切った。
「外交問題に発展しております」
「なんだと!?」
アルヴィンの顔が蒼白になった。
「しかも」
騎士が続ける。
「リーゼロッテ嬢は現在、ヴェルミリオン国王陛下と親しくされているとの情報が入っております」
「セドリック国王と……リーゼロッテが?」
「はい。宮廷料理長の座を打診されているとか」
アルヴィンは、自分の血の気が引いていくのを感じた。
婚約破棄した元婚約者が、隣国の王に見初められている。しかも、自分が引き起こした外交問題の解決の鍵を握っている。
「リーゼロッテを……呼び戻せ」
「は?」
「今すぐ使者を送れ! あの女を王宮に連れ戻すんだ!」
◇ ◇ ◇
翌日。
『魔法のカレー亭』の前に、王宮からの使者が立った。金の刺繍が施された正装は、この庶民的な通りでは明らかに浮いていた。
「リーゼロッテ・フォン・ヴァイスベルク嬢。王太子殿下がお呼びです。至急、王宮へ参内されたし」
私は厨房から出ることなく、弟のルキウスに答えさせた。
「申し訳ありません」
ルキウスが、満面の笑みで告げる。その笑顔の裏に、どれほどの怒りが渦巻いているか、使者には分からないだろう。
「姉は本日、ご予約のお客様で手が離せません。殿下へのご用命は、書面にてお願いいたします」
「な……! 王太子殿下の命令だぞ!」
「ええ、存じております」
ルキウスの笑顔が、冷たく凍った。
「ですが姉は、もう殿下の婚約者ではありません。王族への参内義務もございません」
使者が言葉を失う。
私は厨房から、静かに言葉を添えた。
「お伝えください、殿下に」
「な、なんと……」
「申し訳ありません。もう、遅いのです」
使者の顔が、屈辱に歪んだ。
けれど私は、もう振り返らなかった。
(殿下、あなたは私を『過去』にした。だから私も、あなたを『過去』にするわ)
厨房に戻り、私は再びカレーを作り始めた。鍋の中で、黄金色のルーがとろりと煮える。
この香りは、もう王宮には届かない。
私を大切にしてくれる人のためだけに。
◇ ◇ ◇
その日の夕方、店に奇妙な客が現れた。
「……」
銀色の髪に、氷のような青い瞳。表情の乏しい美青年は、黙ってカウンターに座った。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
「カレー」
一言だけ告げて、青年は微動だにしない。
(変わったお客様ね……でも、この気配)
私は背筋に冷たいものを感じた。この青年からは、人間とは思えない威圧感が漂っている。空気そのものが、彼を中心に張り詰めているようだった。
ルキウスも気づいたのか、さりげなく腰の剣に手を添えていた。
「お待たせしました」
私は慎重にカレーを差し出した。
青年は無言でスプーンを取り、一口。
次の瞬間。
その氷のような瞳が、わずかに見開かれた。
「……」
二口、三口。青年は黙々とカレーを食べ続け、あっという間に皿を空にした。
「おかわり」
「はい、少々お待ちください」
二杯目。三杯目。四杯目。
青年は信じられない量のカレーを平らげ、ようやく箸を置いた。
「……契約してやってもいい」
「は?」
「お前と契約してやる」
青年がすっと立ち上がる。その瞬間、彼の姿が揺らいだ。
銀色の髪が伸び、耳が尖り、背後に巨大な尾が現れる。人型でありながら、明らかに人ではない存在。
「ひっ……!」
客たちが悲鳴を上げて逃げ出した。
「ま、魔獣……! 姉上、下がってください!」
ルキウスが剣を抜く。
けれど私は、不思議と恐怖を感じなかった。彼の瞳の奥に、敵意ではなく、別の何かが見えたから。
「あなた、もしかして……フェンリス? 伝説の高位魔獣でしょう? Sランク冒険者でも敵わないという」
青年――いや、銀狼の魔獣が、わずかに目を見開いた。
「知っているのか」
「冒険者のお客様から聞いたことがありますわ。銀色の毛並みを持つ狼の魔獣。契約した者には絶対の忠誠を誓うという」
「ふん」
フェンリスが鼻を鳴らす。
「そんなことはどうでもいい。お前の作るこの料理、気に入った。だから契約してやる。お前を守る代わりに、毎日この料理を食わせろ」
私は思わず笑ってしまった。
(伝説の魔獣が、カレー目当てで契約を申し出てくるなんて)
「わかりました。契約しましょう」
「姉上!?」
ルキウスが叫ぶ。けれど私は、フェンリスの瞳をまっすぐ見つめた。
「ただし、条件があります」
「なんだ」
「おかわりは一日三杯まで。それ以上は有料です」
フェンリスが、初めて表情を動かした。
不満そうな、けれどどこか嬉しそうな顔。人型の姿でも、尻尾がかすかに揺れている。
「……わかった」
◇ ◇ ◇
その夜。
店を閉めた後、フェンリスが呟いた。月明かりが、彼の銀色の髪を淡く照らしている。
「この味、知っている」
「え?」
「昔、似た味を食べた。エリザベータという女に」
私は息を呑んだ。
「セドリック陛下の、お母上?」
「ああ。あの女も、俺に飯を食わせた」
フェンリスの氷のような瞳が、わずかに和らいだ。数百年を生きる魔獣が見せる、珍しい表情だった。
「お前は、あの女と同じ匂いがする」
「同じ匂い?」
「料理に、心を込める匂いだ」
フェンリスが窓の外を見る。夜空には、満天の星が輝いていた。
「あの女は、誰にも理解されずに死んだ。俺は何もできなかった」
「……」
「だから今度は、守る」
銀狼の瞳が、私を真っ直ぐに見据えた。
「お前を、誰にも奪わせない」
私は静かに微笑んだ。
前世の私は、孤独だった。誰にも理解されず、ただ料理だけを作り続けて死んだ。厨房で倒れたあの日、私を看取る者は誰もいなかった。
けれど今は違う。
弟がいる。理解者がいる。そして今、伝説の魔獣までもが味方についた。
(この世界で、私は一人じゃない)
窓の外では、月が静かに輝いていた。
◇ ◇ ◇
外交問題は、日に日に深刻化していた。
香辛料の密輸を試みたクラウディウス王国と、それを阻止したヴェルミリオン王国。両国の関係は冷え込み、戦争の噂さえ囁かれ始めていた。
「国際晩餐会を開催する」
両国の王が、ようやく対話のテーブルにつくことを決めた。
会場は中立地帯の迎賓館。両国の王族、貴族、外交官が一堂に会する、緊迫した場。
そして、その料理を任されたのは――
「リーゼロッテ嬢、準備はいいか」
セドリック陛下が、厨房を覗き込んだ。深紅の瞳には、信頼の光が宿っている。
「はい、陛下」
私はエプロンを結び直し、微笑んだ。
「最高のカレーをお見せします」
◇ ◇ ◇
晩餐会の夜。
煌びやかなシャンデリアの下、両国の要人たちが席についていた。クリスタルのグラス、銀の食器、白い磁器の皿。全てが一流で、全てが緊張に包まれていた。
上座にはヴェルミリオンのセドリック国王。その隣には、私。
そして末席には――
「なぜ……私がこんな末席に……」
アルヴィン王太子が、屈辱に顔を歪めていた。
隣には聖女エステル。けれど彼女の顔には、かつての自信は欠片もなかった。銀髪は艶を失い、頬はこけている。
偽りの聖女として告発され、王太子の寵愛も失った今、彼女はただの没落令嬢に過ぎない。
「皆様、本日の料理をご紹介いたします」
セドリック陛下が立ち上がった。黒髪が燭台の光を受けて艶やかに輝く。
「本日の主菜は、リーゼロッテ・フォン・ヴァイスベルク嬢による『絆のカレー』です」
ざわめきが広がる。
「カレー……だと?」
「あの、平民の……」
「いいえ」
セドリック陛下が、静かに、けれど力強く言った。その声は、広間の隅々まで届いた。
「このカレーは、両国の架け橋となる料理です」
◇ ◇ ◇
給仕が始まった。
黄金色に輝くカレーが、銀の皿に盛られて運ばれていく。白い米の上に、とろりとルーがかかる。
その香りが広がった瞬間、会場の空気が変わった。
「なんだ、この香りは……」
「こんな料理、初めてだ」
「魔力が……体に染み渡るようだ」
貴族たちが、次々とスプーンを口に運ぶ。
そして、誰もが目を見開いた。
「美味い……!」
「こんな味、生まれて初めてだ!」
「魔力回復どころか、体の芯から力が湧いてくる!」
歓声が上がる。両国の貴族たちが、身分も立場も、国境さえも忘れて料理を讃えた。
つい先刻まで敵対していた者同士が、同じ皿を囲んで笑い合っている。
「これが……リーゼロッテ嬢の料理か」
クラウディウス国王が、感嘆の声を漏らした。白髪交じりの威厳ある王は、深く頷いた。
「息子よ」
「は、はい……父上」
「お前は、とんでもない宝を手放したな」
アルヴィンの顔が、蒼白になった。
◇ ◇ ◇
晩餐会の終盤。
私はアルヴィン王太子の前に立った。
「殿下」
「リーゼロッテ……」
アルヴィンが顔を上げる。その瞳には、後悔と屈辱が渦巻いていた。かつての傲慢さは消え、ただ打ちのめされた男がそこにいた。
「殿下、このカレーは平民だけでなく、王侯貴族も、国境さえも超えるのですよ」
私は静かに微笑んだ。
「あの日、殿下は『平民の食べ物』と仰いました。けれど見てください。今、両国の王族がこの料理を讃えています」
「……」
「私が三年かけて作り上げたものを、殿下は一瞬で否定しました。理解しようともせず、聞く耳も持たず」
「私が間違っていた。戻ってきてくれ、リーゼロッテ……!」
アルヴィンが立ち上がり、手を伸ばす。
けれど私は、一歩退いた。
「殿下が私を過去にしたように、私も殿下を過去にします」
「待ってくれ、リーゼロッテ……!」
「申し訳ありません」
私は深く、優雅に礼をした。侯爵令嬢として最後の礼。
「もう、遅いのです」
アルヴィンの顔が、絶望に歪んだ。
隣では、エステルが震えていた。全てを失った女の、なれの果て。
(これが因果応報というものよ)
私は振り返ることなく、その場を去った。
◇ ◇ ◇
晩餐会の後。
月明かりの差し込むバルコニーで、セドリック陛下が私の前に跪いた。
「リーゼロッテ」
「陛下……?」
深紅の瞳が、真っ直ぐに私を見上げる。王としての威厳も、国を背負う重圧も、全てを脱ぎ捨てた、一人の男の目。
「君の作る食事を、一生隣で食べたい」
月光が、彼の黒髪を銀色に染める。
「俺と結婚してくれないか」
私は、涙が溢れるのを感じた。
前世では、叶わなかった夢。料理で誰かを幸せにする人生。誰かに「美味しい」と言ってもらえる喜び。誰かの隣で、温かい食事を分かち合う幸せ。
「母上の夢を、君と一緒に叶えたい」
セドリック陛下が続ける。
「この世界の食文化を変えるという夢を。君となら、できると思うんだ」
「陛下……」
「俺のことは、セドリックと呼んでくれ。君を王妃として迎えるなら、対等な関係でいたい」
その言葉が、心に染み渡る。
対等。理解。尊重。
王太子殿下からは、一度も得られなかったもの。
「はい」
私は微笑んで、差し出された手を取った。大きくて、温かい手。
「喜んで、セドリック様」
月光の下、二人の影が重なる。
「ありがとう、リーゼロッテ」
セドリックが私を抱きしめる。その胸の鼓動が、確かに聞こえた。
『私のカレーは、私を大切にしてくれる人のためだけに作ります』
その言葉は、もう一人のためだけのものになった。
◇ ◇ ◇
エピローグ。
ヴェルミリオン王国の新王妃として迎えられた私は、王宮の厨房を一から改革した。
魔力回復効果のある料理。栄養バランスの取れた献立。そして何より、食べる人を笑顔にする味。
エリザベータ王妃のレシピノートを参考に、この世界とあの世界の料理を融合させた新しい食文化を創り上げていった。
「陛下、今日のお昼は何がいいですか?」
「君が作るものなら何でも」
セドリックが笑う。その笑顔を見るたび、私の胸は温かくなる。
「フェンリス、おかわりは三杯までよ」
「……四杯」
「駄目です」
「…………三杯半」
「交渉の余地はありません」
銀狼の魔獣は、不満そうに尻尾を垂らした。けれど、その目は満足そうに細められている。
「姉上、お客様ですよ」
ルキウスが厨房に顔を出す。王宮の厨房長補佐として、今も私を支えてくれている。
「お客様?」
「元宮廷料理長のマルグリット様です。『弟子にしてくれ』と」
私は思わず笑った。
「喜んで。この世界の食文化を変える仲間は、多い方がいいもの」
窓の外では、城下町の市場が賑わっている。私が広めたカレーは、今や国民的な料理になりつつあった。
屋台では冒険者が、食堂では家族が、同じ料理を囲んで笑い合っている。
「リーゼロッテ」
セドリックが、後ろから私を抱きしめた。
「幸せか?」
「ええ、とても」
私は彼の腕の中で微笑んだ。
「前世でも叶わなかった夢が、今ここにあります。料理で誰かを幸せにする人生。それを分かち合える人がいる人生」
「俺も幸せだ。毎日、君の料理が食べられて」
「それだけですか?」
「それだけじゃない」
セドリックが、私の頬にそっとキスをした。
「君がいてくれることが、何より幸せだ」
――これは、一皿のカレーから始まった、国境を超える愛の物語。
平民の食べ物と蔑まれた料理が、二つの国を結び、二つの心を繋いだ。
私のカレーは、私を大切にしてくれる人のためだけに。
そしてその人は、一生私の隣にいてくれる。




