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第3話

 依頼をしてから今日で3日になる。正式に依頼が成立するかどうか、その返答をもらえるのが今日だ。私は朝からそわそわと落ち着かず、登校時間より大分早い朝6時半に家を出た。外は相変わらず鬱屈さを促すような雨模様。私は人気のない早朝の通学路を1人俯きながら歩いていた。

 ふと気が付くと、私はお店の前まで足を運んでいた。無意識にお店へ向かってしまったようだ。ドアに掛けてあるCLOSEと書かれた札。この時間帯はまだ営業時間外だった。お店の中も明かりが灯っていない。

「まだ開店前だよ」

 その声に思わず肩が跳ねた。咄嗟に振り向くと鋭い目つきで私を見やる学ラン姿の彼が立っていた。

「め、巡くん……!おはよう、ございます」

 いきなり名前で呼んでよかったのだろうか。とはいえ、彼のことは下の名前しか知らない。馴れ馴れしいと思われただろうか。私は居たたまれなくて、質問されたわけでもないのに言葉を続けた。

「依頼の返事、今日なので何だか落ち着かなくて……。朝、早いですね。この辺、通学路なんですか?」

「通学路っていうか、俺ん家ここだから」

「え?」

 巡くんが表情を変えずにお店を指差した。

「ここ、うちの店」

 目を丸くしていると、巡くんは扉の前まで足を進め、傘を畳むとポケットから何やら取り出した。そして玄関扉の端に手を伸ばし、ついっと何かを動かした。壁付けのフックのようだ。小さいうえに白い外壁と同化していて、フックがあることに全く気が付かなかった。彼はそこに、ころんとした小さな巾着袋を引っ掛けた。ガーゼのような白無地の袋に、口を結ぶ茶色のリボンがアクセントになっていて何とも可愛らしかった。

「それ、何ですか?」

「香り袋。中に、挽いたコーヒー豆が入ってる」

 お店の前に、しかも雨で湿気も多いこんな時季に飾るなんて少し変わっているかも。そう思っていたら巡くんが続けて言った。

「死者の魂が、この香りを辿ってここへ来る。これは道しるべみたいなものだ」

 どくんと胸が鳴った。彼は振り向くと私をじっと見つめた。

「それって……」

 巡くんはこくりと頷く。

「依頼は成立した。野々村葵さんは今日ここに来る」

 葵ともう一度会える。話ができる。私は持っていた傘の柄をぎゅっと握り締めた。

「魂の滞在時間は黄昏時。これは決まりだから、18時半には必ず店に来て」

「わ、分かりました」

「それと、野々村葵さんから一つ伝言を頼まれた」

「伝言?」

「ヴァイオリンを持って来て。だそうだ」

「え……」

「じゃ、伝えたから」

 そう言うと彼は再び傘をさし、私の側を横切って店の裏へと歩き去って行った。私は視線を足元に落とし、地面をはじく雨を見つめながら、彼が口にした葵の言葉をもう一度脳裏で繰り返した。

 ――ヴァイオリンを持って来て。

 それは、何の為に?

 葵は病院の屋上から飛び降りて自殺した。ピアノ人生を絶たれ、未来に絶望し、悲観したためだ。そんな人が、ただヴァイオリン演奏を聞きたいという理由で、こんな伝言を頼むだろうか。

 考えたら分かるはずだ。葵が絶望に駆られたのは誰のせいだ。原因を作ったのは誰のせいだ。全部、全部、私のせいだ。それなのに私は、この機会を許しを得られる千載一遇のチャンスだと考えてしまった。葵なら許してくれる。心のどこかでそう思っていたのだ。話して謝って、そうしてこの罪から逃れようと考えていたのだ。

 なんて最低な考えなのだろう。葵の気持ちを無視して自分だけ救われようとしていたなんて、そんなの都合が良いに決まっている。分かっていた。でも、その邪な思いを見ないように蓋をしていた。葵はそんな私の気持ちなどお見通しだったのだ。

 葵が私に会いたいと思ったのは親友だからじゃない。ましてや、私のヴァイオリン演奏を聞きたいからじゃない。これは、葵から私への復讐だ。本当の意味で罰が下されるのだ。何を言われても、何をされても甘んじて受け入れなければならない。私はそれだけのことをしたのだから。

 口から漏れた乾いた笑いが、冷たい雨に混じり合い虚しく消えていく。

 何が起こるのかは分からない。ただ、予感だけはある。今日を境に、私はヴァイオリンを手放すことになる。


 夕方、私はヴァイオリンケースを手に家を出た。お母さんには期末実技試験の練習をクラスでやることになったと言っておいた。晩ご飯も皆でファミレスで済ませるからと伝えたら、「そうなの」とあっさり受け入れて、止められることもなかった。きっと、ヴァイオリンに身が入らなかった私が練習に励むようになったと思ったのだろう。本当に単純な人だ。

 しとしとと降り続ける雨。ケースが濡れないよう肩にかけたストラップを短めにして傘の角度を少し後ろに傾けた。こんな時でもヴァイオリンを庇う仕草は体に染みついてしまっている。

 5歳で始めてから今まで、このヴァイオリンで沢山の音楽を奏でてきた。初めて舞台に立ったのは確か8歳の頃だった気がする。そのとき弾いた曲はエルガーの愛の挨拶だった。ガチガチに緊張していたけれど、舞台に立つと、ライトに照らされたヴァイオリンがいつもよりぴかぴかして見えた。艶が映えて銀色の弦もキラキラと反射していた。素敵な輝きだった。この美しいヴァイオリンで演奏できることが誇らしく思えた。そんなことを、今さらになって思い出す。

 成長するにつれてヴァイオリンを弾く楽しさが徐々に薄れていったけれど、その気持ちが一時だけ晴れたことがあった。あれは、賞を取るための練習に嫌気がさしていた頃、ちょうど中学生になる前だったか、その時、勧められて参加したのが講師の先生主催の発表会だった。コンクールとは違って競技要素や評価を気にしなくて良かったから、あれはとても気が楽だった。演奏したのはパッヘルベルのカノン。アレンジも入れたりして好きに演奏させてもらえた。同じヴァイオリンのはずなのに、全然違う音色が出て私自身も驚いた記憶がある。まるでヴァイオリンが歌っているようだった。

 ヴァイオリンは私の感情そのものだった。私を映し出す鏡。そんなヴァイオリンと、私は今日、決別するのだ。

 霧雨が降る薄暗い景色のなか、ぼんやりとオレンジ色の明かりがお店を照らしていた。お洒落でクラシカルな外観は同じだけど、どことなく、いつものような落ち着いた優しい雰囲気とは違う気がした。白いモヤが緩やかに漂って、お店の照明がうっすら霞んで見える。静かで、朧げで、どこか幻想的にも思えた。

 死者と会えるカフェ。まるで、あの世とこの世の狭間にいるようだ。

 入り口まで近づくと、今朝、巡くんが吊るした香り袋が目に入った。彼は挽いたコーヒー豆が入っていると言っていたけれど、顔を近付けてみても、私には香りを感じることはできなかった。死者がこの香りを辿ってここへ来る、と彼は言っていた。これは、死者の魂にしか分からない香りなのかもしれない。

 私は扉の前に立って深く深呼吸をした。取っ手を掴む手に力が入る。チリンと響く小高いベルの音。扉を開けて足を踏み入れると、暖色の照明がふわりと降り注いだ。店内は以前と変わらず温かみに包まれていた。カウンターには穏やかな表情を浮かべた店長さんが、変わらぬ姿勢でそこに立っていた。

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

「よ、よろしくお願いします……」

 店内には、私以外お客さんは誰もいなかった。彼は手のひらを揃えて、そっと店内へ促した。

「お好きなお席へどうぞ」

 他に誰もいないのなら、と私はソファ席へ足を進めた。時計の針は18時過ぎを指している。早く着き過ぎただろうか。私はヴァイオリンケースを足元に置いて腰を下ろした。

 すると、こつこつ、と小さく響く小気味よい靴の音が聞こえた。視線の先には、お水を運んで来る店長さんの姿。私は、「あれ?」と思った。今日は店内のBGMが流れていない。

「相澤様、本日は当店へお越しくださりありがとうございます。ご注文の前に、今回のご依頼に関しまして、私からいくつかお伝えしたいことがございます。少々お時間をいただけますでしょうか」

 こくりと頷くと、彼はお水をテーブルに置いてかしこまって続けた。

「まず、お相手様とお話いただけるのは黄昏時のみでございます。その間、他のお客様がご来店されることはございません。私どももお客様方のお邪魔にならぬよう退席させていただきますので、その点はどうぞご安心ください。黄昏時は19時半までとなりますので、時間いっぱい過ごされて構いません。終わられましたらレジ横のベルでお知らせください。また、お席のご移動も可能でございますので、店内はご自由にお使いください。次に、ご注文のメニューについてご説明させていただきます」

 すると、彼は持っていたメニュー表を開き、最後のページをこちらに向けた。そこには、先日と同じように宙に浮いた文字が書かれている。

「こちらのメニューは相澤様にのみ見えております。つまり、相澤様専用のメニューでございます。ご提供は一杯分のみとなります。こちらを召し上がりますと、お相手様とお話することは勿論、触れることも叶います。ただし、一定時間を過ぎますと効果が薄れ、お相手様のお声もお姿も確かめることが出来なくなりますのでご注意ください。効果を持続する為には、一定の間隔で召し上がっていただく必要がございます。せっかくの機会ですから、少しでも長く、とお思いになるかもしれません。しかし、時間は皆一律に平等でございます。お時間は守っていただきますようお願い申し上げます。私からのご説明は以上でございます。何かご質問などございますでしょうか?」

「あの……」

 私は肩をすくめてメニュー表を指しながら、おずおずと彼を見上げた。

「これって、コーヒーなんですよね?」

「えぇ、左様でございます」

「実は私、コーヒーの苦みがちょっと苦手で……、出来れば、その……苦くないコーヒーにしてもらえると有り難いんですが、そういうことって出来るんでしょうか?」

「あぁ、左様でしたか。ではそのように申し伝えます」

 私はホッと胸を撫で下ろし、そのコーヒーを注文した。

「最後に私から一つ」

 彼はそう言うと、胸に手を当てながら慈しむような眼差しを私に向けた。

「限られたお時間をどのように過ごされるかは相澤様のお心次第でございます。どうぞ、ご納得のいくひとときをお過ごしください。それでは、私はこれにて失礼いたします」

 カウンターの奥へと向かう彼の後ろ姿を眺めながら、私は先ほどの言葉を反芻した。

 納得のいくひととき――か。そう、元々、これは心残りがある人に与えられる機会だ。きっと彼は私が心残りを晴らすことを望んでいるのだろう。けれど、私は今日ここに罰を受けに来た。ヴァイオリンを手放し、もう二度とヴァイオリンを弾かないと誓うために。

 内気で友達もできず、特別頭が良いわけでも、社交的でもない。ヴァイオリンしかなかった私からヴァイオリンを奪う。せめて、それくらいのことをしないと葵の魂は報われないのだ。

 振り子時計の規則正しい音が小さく響く。その音が、まるでカウントダウンのようにも思えて、私の心臓の音と連動して一層重く聞こえた。うなだれているとカウンターから再び近付いてくる足音が聞こえた。

「お待たせしました」

 その声に一瞬、体が強張った。側に立っていたのは巡くんだった。ただ、装いがこれまでとは違っていて、彼も店長さんと同じようにベストを纏い、襟元にクロスタイを巻いていた。高身長なだけあって、絵になる立ち姿だ。

 テーブルにカップとシュガーポットが置かれると私は目を見開いた。これはコーヒーなのだろうか。カップの中にはたっぷりとホイップクリームが乗っていた。その中央にはアクセントにココアが散りばめられている。見た目もお洒落で可愛らしい。思わず、白くてふわふわしたホイップクリームをまじまじと見つめてしまった。ほのかな甘い香りとコーヒーの香ばしい匂いが織り交ざり、私の鼻を優しくくすぐった。

「苦くないコーヒーをご希望でしたので、バニラシロップを加えてみました」

「えっ、これ巡くんが作ったんですか?」

「そうですが」

「へぇ!凄い……!」

 巡くんは一瞬、反応に迷ったような気配を見せたあと、小さく咳ばらいをすると、指を揃えて入り口の方へ手を向けた。

「間もなく黄昏時です。野々村葵さんがご来店されますので、まずは一口召し上がってお待ちください。それでは、失礼いたします」

 丁寧にお辞儀をしたあと彼はカウンターの奥へと姿を消していった。店内は再び私一人だけ。目の前のコーヒーを見つめ、もう一度深呼吸をする。そしてカップを手に取り、私は最初の一口を飲んだ。

 苦みが全くないわけではない。けれど、ホイップクリームとバニラシロップのおかげか、口当たりがよくまろやかで苦みがさほど気にならなかった。これなら飲めそうだ。

 そう思った時だった。チリン、と小高いベルの音が耳に響いた。私は思わず全身に力が入り、一瞬息を止めてしまった。恐る恐る入り口へ視線を向け、ゆっくりと開いていく扉を見つめた。手が小刻みに震え出し、冷や汗がじわじわと噴き出す。覚悟を決めて来たはずなのに、もう恐怖で逃げ出したい気持ちに苛まれている。

 こつ、と床を鳴らすローファー。見慣れた制服のスカートがふわりと揺れ、綺麗で長い黒髪がさらりとなびいた。背筋がすっと伸びた上品な立ち姿。生前と何も変わらない姿で、彼女はここに現れた。

「七瀬」

「……葵」

 彼女はこちらへ真っ直ぐ歩みを進め、テーブルまでやって来ると私を見下ろして言った。

「久しぶりね」

 生前のような、明るく、はつらつとした声ではない。異様に落ち着いた静かな声が、私の恐怖をより増幅させる。顔を見るのが怖くて、私は思わずコーヒーに視線を落として答えた。

「う、うん……」

「座っていい?」

「ど、どうぞ」

 そっと腰を下ろして目の前に座る葵。私はそろりと彼女の右腕に視線を向けた。傷なども一切無い、事故に遭う前の右手だ。

「今は、ちょうど梅雨の時季なのかしら」

「うん……」

「そう。じゃあ私が死んでから半年くらい経つのね。七瀬は今、高3で、来年卒業なんだ」

 心臓がばくばくと鳴って、鼓動が全身で感じられるほど大きく波打っている。冷や汗が出て背中が冷たい。まるで、胸に鋭利な刃物を突き付けられているような、そんな感覚に覆われる。声が震えて一言返すので精一杯だった。

「ヴァイオリン、持って来てるよね?」

 圧を感じるその言葉に、私はずしりと圧し掛かる重力を感じた。もう後戻りは出来ない。私は小さく頷き、震える手で、足元に置いていたヴァイオリンケースをテーブルに置いた。ケースを開くと、オレンジ色の照明に照らされたヴァイオリンが艶をまとって姿を現した。そして私は、そのまま葵に差し出した。

「どうぞ……」

 彼女は無言のまま、じっとヴァイオリンを見つめると、鋭い目つきで私を見据えて言った。

「私に差し出して、どうしろって言うのよ」

「え……?」

「自分には必要ない物だから、あの世に持って行けとでも言いたいの?」

「わ、私は、葵の夢を奪ったから……ヴァイオリンを弾く資格なんてない。これを手放すくらいしないと、私は罪を償えないから……」

「何それ。ヴァイオリンを弾かない理由に、私を利用してるだけじゃない」

「そっ、そんなこと……!」

「そうじゃない。七瀬、言ってたよね。ヴァイオリンを弾く理由も、夢も、目標もないって。そのあと、七瀬を追いかけた私が事故に遭って、もう二度とピアノが弾けない体になった。そのせいにすれば罪だの罰だの言い訳ができるものね。私が罵って、『償え』なんて言えばなおさら好都合。ヴァイオリンを手放す理由ができて、全てをリセットできる。そうなれば楽になれるものね。でも、そんなこと絶対に言ってやらないんだから」

 ぞくりと背中を冷たいものが這い上がった。あぁ、そうか。これこそが本当の罰なんだ。私は、許されることも、ヴァイオリンを手放すこともできない。何の為に弾き続けるのか分からない、そんな暗闇の中で、私はこの先も延々とヴァイオリンを弾き続けなければならない。壊れたピエロのおもちゃのように、滑稽なヴァイオリニストとして弾き続ける。まさに生き地獄だ。それが、葵が考えた、私を絶望へと叩き落とす最も効果的で残酷な復讐だったのだ。

 そう理解すると、私はうなだれるしかなくて顔を上げる気力も起きなかった。

「……正直、腕のことを聞いた時はショックだったわよ。医者が話してるのを偶然聞いたの。私の腕は神経系もやられてて、例えリハビリをしても、今までと同じレベルでピアノを弾くのは難しくなるって。それを聞いたら目の前が真っ暗になって、しばらく、何も考えられなくなった……。でもね、それから少し経った頃、たまたま小児科で入院している子供たちと触れ合う機会があったの。片腕だけどピアノを弾いたらその子たちすごく喜んでくれて。その時の子供たちの笑顔に背中押してもらったんだ。まだ諦めないでって」

 ぼんやりと聞いていた私は、彼女のその言葉に違和感を抱き顔を上げた。

「待って、じゃあ葵は何で飛び降り自殺なんかしたの……?」

「自殺……?どういうこと?私、自殺したことになってるの?」

 葵は困惑している私を見ると、唇の端をわずかに上げ、苦笑ともとれない表情を浮かべた。そうして深く溜め息をつき、視線を落として額に手を当てた。

「そう……。七瀬がどうして罪だとか償うだとか、異様に自分を追い詰めるようなことを言うのか納得がいったわ。腕の負傷でピアノ人生を絶たれ、私がそれに絶望して飛び降りたと思ったわけね」

 葵は肩をすくめて苦笑した。

「私、自殺なんて1ミリも考えたことないわよ」

「じゃあ、一体何が……」

 彼女はかすかに微笑みながら、そっと視線を落とした。

「屋上から落ちたのはね、ただの事故。私の運が悪かっただけ。柵の向こう側に滑り落ちてしまったスマホを取ろうとして、自分から柵を越えたの。で、足滑らせちゃってそのまま落下。まさか、こんなことで命を落とすなんてね」

 そんな理不尽なことがあっていいのか。葵は諦めていなかった。もう一度、前を見てピアノと向き合おうとしていた。なのに、運が葵を見放したなんて、こんなことあっていいはずがない。そんなのあんまりだ。

「……なさい、ごめんなさい、葵……、ごめんなさい……」

「どうして七瀬が謝るの?言ったでしょ、これは私の運が悪かっただけなの。七瀬のせいじゃない」

「違うよ!もとはと言えば、私があのとき道路に飛び出さなきゃ、葵は事故に遭うことなんてなかった!入院もしなくて済んだ!死んじゃうこともなかったのに……!私のせいだ、私が葵を巻き込んだから、こんなことになったんだ!あの時、葵じゃなくて私が事故に遭っていれば――」

「そんなこと言わないで!」

 いきなり葵の怒声がお店の中に響き渡った。私は思わず肩をすくめて息を飲んだ。キッと眉を上げ、鋭く睨む彼女の表情。怒りに震えている。けれど、彼女は唇を噛んで、今にも泣き出してしまいそうなのを必死に耐えていた。今までに見たことのない表情だった。

「……七瀬、私が、どうしてこの依頼を承諾したか分かる?」

 私は弱々しく首を振った。

 少しの沈黙のあと、葵はそっと目を伏せて小さく息を吸い込んだ。そして、ゆっくり顔を上げると静かに語り出した。

「私の人生は、たった17年で終わった。正直、悔しかったよ。大好きなピアノ、もっともっと弾き続けたかった。まだまだやりたいこと沢山あったのに、夢だって叶えたかったのに、こんなにあっけなく人生が終わってしまうなんて、悔しくて堪らなかった……!でもね、何よりも一番悔しかったのは、七瀬に大事なことを言いそびれてしまったことなの。ずっと、言い出せなかったことがあったの」

「私に……?」

 彼女はこくりと頷き、ゆっくりと思いを馳せるように遠くを見つめた。

「実はね、ずっと前に私、七瀬と出会ってるの」

「え……?」

「小6の時、コンサート会場で初めて七瀬のヴァイオリンを聞いたの。七瀬はね、悲しみに沈んでいた私を癒してくれたどころか、私にピアノを始めるキッカケまで与えてくれたんだよ」

 私は目を見開いた。小6の時に出場したコンサート。それは、ちょうどヴァイオリンに鬱屈さを抱き始めた頃に、ヴァイオリン講師の先生に勧められて出場した発表会のことだ。賞も評価も気にしなくていい、自由に楽しく演奏させてもらった、あの発表会。その会場に彼女はいて、そして私の演奏を聞いていたのだ。

「私ね、七瀬の演奏に出会ってから、ずっと七瀬に憧れてたんだ。いつかまた会いたい、舞台上で共演できるようになりたいって思ったの。その為に、音楽科の高校を目指して中学3年間必死に練習を重ねてきた。そしたら入学初日に本物の七瀬と出会えちゃうんだから、びっくりしちゃったよ。嬉しかったけど、憧れていることバレるのが恥ずかしくて、初対面のフリして必死に取り繕ってた。でも実際話してみると、演奏している時と全然印象が違って、そこも驚いちゃったな」

 葵はクスクスと思い出し笑いをして続けた。

「でも、やっぱり七瀬の音には人を虜にするような魅力があって、昔と変わらず心に響く優しさと強さがあった。憧れの存在が隣にいて嬉しい反面、実力のない私は、七瀬に追い付きたくて必死だった。胸を張って七瀬の隣に立ちたかったの。一緒に、大きな舞台で演奏がしたかった」

 葵は眉を下げると、寂しさを帯びた柔らかな微笑みを浮かべた。すると、彼女の姿が薄っすらと透け始め、私は慌てて二口目のコーヒーを飲んだ。

「このお店、ピアノが置いてあるのね」

 葵はピアノに視線を向けていた。彼女はおもむろに立ち上がり、ピアノの側まで足を運ぶと鍵盤蓋を優しく撫でた。

「素敵なピアノ。年季が入ってるけど、音まだ出るのかな」

「……うん、まだ弾けるって店長さんが言ってた」

「そう。じゃあ、少し拝借しちゃおうかな」

 葵は鍵盤蓋をそっと開いてピアノ椅子に腰かけた。一音だけ触れると、ぽん、と響いて店内に音が溶けていった。彼女は両手を鍵盤に添え、静かに、そして優しく弾き始めた。ゆったりとした穏やかで澄んだ音が紡ぎ出されていく。

「七瀬は気付いていないかもしれないけど、私は七瀬のヴァイオリンに何度も救ってもらったんだよ。小6の時も、響華祭の時も、編入試験の時だって助けてもらったんだよ。合格できたのも、あのとき七瀬が弾いてくれたG線上のアリアがあったおかげ。ずっと聞いてたんだ。入院中もね、私、病院の屋上で曲を流してたの。お守りのように、スマホから流れるG線上のアリアを、繰り返し、繰り返し聞いてた。優しい音色がそっと寄り添ってくれて、孤独と不安でどうしようもなかった私の心を落ち着かせてくれた。大丈夫って背中を押してくれたのは、いつも七瀬のヴァイオリンだった。いつだって、七瀬は小心者の私の心を変えてしまう。七瀬の音楽と出会えたから、辛いことがあっても私は前を向くことができたんだよ」

 彼女は弾いていた手をゆるりと止め、体を向き直すと私の瞳を真っ直ぐ見つめて言った。

「だから、ありがとう。友達になってくれて、とても嬉しかったの。七瀬と出会えて本当に良かった。私、七瀬のヴァイオリンが好き。七瀬が奏でる音が、一番好きだよ」

 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられて痛い。彼女の努力は、私と一緒に音楽をするためのものだったのだ。それなのに、私はその努力が眩しくて、羨ましくて、独りよがりな嫉妬を抱いてしまった。勝手に遠い存在だと決めつけて、彼女を知らず知らずのうちに拒絶してしまったのだ。

「私ね、七瀬には、この先もずっとヴァイオリンを弾いててほしいの」

 私は顔が上げられなかった。真っ直ぐで、純粋で温かな彼女の言葉。痛いほど伝わる彼女の想い。だからこそ、私には受け取ることができない。

 背中を小さくして、顔を覆いながら私はふるふると首を横に振った。

「無理だよ……。私にはもう、ヴァイオリンと、音楽と向き合うことが出来ない。もう、何のために弾けばいいのか分からないよ……」

 声が震える。喉の奥が詰まる。胸が苦しい。唯一の光を失った世界で、私はこれ以上ヴァイオリンを弾くことなんて出来ない。届ける相手がいない、こんな空虚な世界で弾いたって何の意味も成さない。空っぽの音楽が、溶けて消えていくだけの虚しい時間を繰り返すだけだ。

 ふわりとソファのクッションが沈み、彼女が隣に座ったのが分かった。葵の手のひらが、そっと私の手を掴む。私は今、どんな顔をしているだろう。きっと、みっともなくて人に見せられないくらい涙で脆く崩れた顔をしている。そんな私を見ても、葵は茶化すことも呆れることもせず、ただ、真剣に私を見つめていた。

「じゃあ、私のために弾いて」

「え……?」

「誰でもなく、私のためだけに弾いて」

「でも、葵は……」

 握られた手にぎゅっと力が入った。彼女に触れている。彼女の体温を感じる。目の前にいる彼女は、まるで生きている人間そのものだ。けれど。

「届くよ、絶対。きっと届く。言ったじゃない、音楽は願いや祈りを乗せると、ちゃんと応えてくれるって。だからね、お願い。私の大好きな七瀬のヴァイオリン、これからも私に届け続けてほしい」

 柔らかく微笑む彼女にオレンジ色のライトが優しく降り注ぐ。彼女はどこまでも真っ直ぐで、清らかで、私を暗闇から引っ張り出してくれる光だ。彼女に出会わなければ、きっと私は永遠に出口のない奈落の迷路を歩き続けていただろう。

 彼女に伝えるべきなのは懺悔でも許しを請う言葉でもない。救われたのは、私の方だ。

「葵……」

「うん」

「私も、伝えたいことがあるの。聞いてくれる?」

「うん、聞きたい。聞かせて?」

 視界が段々と滲んでいく。目頭が熱くて鼻の奥がつんとする。頬を伝うしずくは拭っても拭っても止まらない。抑えていた蓋が外れたように、涙とともに感情が溢れ出す。

「私のヴァイオリンを、好きになってくれてありがとう。今まで、隣にいてくれてありがとう。葵、私もね、葵に出会えて良かったよ……!」

 私にはヴァイオリンしかない。そう思っていた。背後には底の見えない谷。一歩でも後退りをすると落ちてしまう。そんな崖の端に立っているような気分だった。それがずっと怖かった。

 でも、そうじゃない。振り返った景色にはちゃんと道が繋がっていて、地面には自分の足あとが沢山付いている。回り道もした。同じ道をぐるぐる歩いたこともあった。それでも足あとはちょっとずつ大きくなっていて、今、この場所へと繋がっている。積み重ねた時間が葵との出会いに繋がっていたのだ。

 弾くことへの情熱と高揚感、喜び、楽しさ。抜け落ちた感情をもう一度教えてくれたのは葵だった。葵がいたから、もう一度ヴァイオリンと向き合うことが出来た。だからこそ彼女の願いを叶えたい。いや、叶えられるのだ。その手段を私はもう持っている。

 私には、ヴァイオリンがあるのだから。

 葵は泣き止まない私の肩をそっと抱いて、「うん、うん」と何度も繰り返し頷いてくれた。その声が温かくて、私は気が済むまで彼女の隣で涙を流し続けた。

 こんなに感情のまま泣いたのはいつぶりだろう。ようやく落ち着いた頃、葵は時計を見やり、おもむろに立ち上がった。ピアノの側へ向かうと振り返って言った。

「まだ時間あるよね。せっかくだから何か弾こうよ」

 薄っすらと透ける彼女の姿。私は頷いたあと、三口目のコーヒーを飲んでヴァイオリンを手に取った。

 ピアノとヴァイオリン、二つの音が重なり合い店内に響き渡る。沢山披露してきた曲、練習してきた曲、響華祭で共演するはずだった曲。ここでの演奏は賞も評価も関係ない。お互いの存在、お互いの呼吸、お互いの音を感じて、ただただ自由に一つの音楽を奏でていく。

 過ぎていく2人だけの時間。一音一音奏でる度、まるで弦から小さな光が放たれるように、お昼の第2音楽室で過ごした思い出が蘇る。葵と共に過ごした短い高校生活は、一瞬一瞬が眩しくて、カラフルなキャンバスのように色鮮やかで情熱的な輝きに満ち溢れていた。そのどれもが、葵と、そして音楽と共にあった。大切で、かけがえのない私の青春。私の、一番の宝物。

 気付けばコーヒーはもう残り一口分しか残っていなかった。これが、葵と最後の演奏になる。

 私は最後の一口を味わって飲み干した。口の中に広がるほのかな苦み。冷めてしまってもコーヒーに溶けたホイップクリームが混ざり合って、まろやかな美味しさは消えていない。

 私は席を立ち、ヴァイオリンを手にピアノの側まで足を進めた。今日、まだ弾いていない曲がある。葵に、「何か弾こう」と言われた時、真っ先にこの曲が浮かんだ。でも、きっとこれは最後に弾く曲なのだと思った。そう感じたのには訳がある。メニュー名だ。私にしか見えないそのメニュー名に、曲名が含まれていたからだ。

 コーヒーには詳しくないけれど、一般的な名称くらいは知っている。けれど、こんなコーヒーの名前は聞いたことがなかった。だからあの時、気になって店長さんに聞いてみたくなった。

 今なら、これがどんなメニューなのかが分かる。確かに、私だけの特別なコーヒータイムだ。

 私はヴァイオリンを構えた。最後に2人で演奏する曲。それは、小6の時、私たちが出会ったきっかけの曲であり、初めて葵とデュオを奏でた曲。そして、私の音楽にもう一度光を宿してくれた、大切な曲。

 葵の十八番――パッヘルベルの≪カノン≫。

 柔らかなピアノ伴奏が始まった。耳に馴染む美しい旋律が心地いい。入学式の日、初めて耳にした瞬間から私は葵の奏でるピアノに魅了されていた。彼女の音楽は、時に春風のように温かく、時に灼熱の太陽のように熱を纏い、秋の名月のように静かで、冬の銀世界のように無垢な音を奏でる。

 どの音も色彩豊かで、沢山の表情があって、様々な景色を私に見せてくれた。彼女は私にとって一生忘れられない、特別な経験と時間をくれた。

 ――音って、こんなに綺麗だったんだ。音楽って、こんなに楽しかったんだ。幼い頃に感じたことを、もう一度思い出させてくれてありがとう。私の音を蘇らせてくれて、好きだと言ってくれてありがとう。楽器が、音が喜んでいるのがちゃんと分かるよ。

 葵の姿が光を纏うようにほのかに透け始めた。私は唇をぎゅっと結んで、込み上げる感情を必死に堪えた。

 まだ終わりたくない。まだ一緒に弾いていたい。まだ、もう少し、あと少しだけ。

 その時、彼女が顔を上げ視線が交じり合った。潤んだ瞳。今にもこぼれ落ちそうな涙をめいっぱい浮かべ、それでも楽しそうに笑顔を浮かべて笑っている。そして、彼女は力強く頷いた。

 ――音楽は、願いや祈りを乗せると、ちゃんと応えてくれるよ。

 心が溢れる。私も頷き返し、音に全ての想いを込めた。

 まだだ、まだ終わらせない。まだ弾ける、まだ奏でられる。あと少し、響け、一秒でも長く。

 ――最後まで響きわたらせるんだ、私たちの音楽を!

 私たちは、最後の一音まで空気を震わせた。音に寄り添い、互いの想いを乗せて、ただひたすらに音楽を楽しみ、奏で合った。

 目の前には、曲の余韻を残してオレンジ色のライトに照らされたピアノだけが上品に佇む。私は天井を仰いだ。

 葵が教えてくれたことは、この先も私の胸の中で生き続ける。そして、届け続けよう。いつまでも、いつまでも。

 大好き。ありがとう。私の大切な一番の親友。


 ヴァイオリンケースを肩に提げ、私はレジカウンターまで足を運んだ。側に置いてあるベルを押すとチン、と小高い音が響いた。

 目にむくみを感じる。あれだけ泣いたのだから当然か。きっと鼻の頭も赤いだろう。みっともない姿を見られてしまうのは恥ずかしいけれど、憑き物が落ちたように気分はスッキリとしていた。一時間前に来店した時とは大違いだ。

 カウンターの奥から店長さんが顔を出した。彼はレジの前に立つと変わらぬ物腰で穏やかに言った。

「本日、召し上がっていただいたメニューのお代は頂戴いたしません」

「え、いいんですか?」

「えぇ、決まりですので」

 私は制服の裾をきゅっと掴んで、ちらりとカウンターの奥へ視線を向けた。

「……あの、巡くんはまだいますか?」

「はい、おりますよ。お呼びしますので少々お待ちください」

 店長さんが奥に消えてしばらくすると、巡くんが入れ替わりで姿を現した。

「お呼びでしょうか」

「あ、あの……!コーヒー、ごちそうさまでした!苦いのダメな私を気遣って甘くなる工夫もしてくれて、ありがとうございました。おかげで最後まで飲むことが出来ました。とても美味しかったです」

「巡くんは口数が少ないですが、気遣いの出来る、とても良い子ですよ」

 巡くんの後ろから、再びひょこっと姿を現した店長さんに、彼は体をびくっとさせて目を向けた。店長さんが穏やかに言う。

「相澤様が最初にご来店された日、玄関の屋根の下で雨宿りをされていたそうですね。そんな相澤様の様子を見て、お店に招き入れてよいか尋ねたのは、彼のほうなのです。風邪を引いてしまうかもしれない、とね」

 あの時、不審者扱いされて睨まれたのだとばかり思っていた。見た目で判断してはいけないとは、こういうことだ。申し訳ない。

「私、てっきり嫌われているのかと……。勘違いしてすみません。……あの時、声を掛けてもらわなかったら、きっと今日この時間を過ごすことも無かったと思います」

 私はピアノに視線を向け、先程までそこで楽しそうに演奏していた葵の姿を思い出していた。

「とても良い時間が過ごせました。本当に、ありがとうございました」

 2人にお辞儀をして私は扉へ向かった。取っ手を掴んだところで足を止め、私はもう一度振り返った。これは巡くんに伝えたい、そう思ったから。

「 “カノン・ド・ヴィエナ”。このコーヒーの名前、とても素敵な名前だと思います」

 巡くんは不意を突かれたように目をぱちぱちさせた後、ほんのわずかに視線を逸らし、小さく喉を鳴らした。そうして、再びかしこまって丁寧に頭を下げた。

「またのお越しをお待ちしております」

 お店を出ると雨は止んでいて、雲間にわずかだけれど星が覗いていた。雨粒が洗い流したあとの世界は、空気が透き通っていて清々しく感じる。私は段差を降りて、一歩、前に踏み出した。



「本日はお忙しいなか貴重なお時間を頂戴し、誠にありがとうございます。わたくし、『クラシック・ファボ』編集部の的場と申します。本日は、ヴァイオリニストとして大舞台で活躍し続ける相澤さんの演奏や、今後の活動について、色々とお話を伺えたらと思っております。どうぞ、よろしくお願いいたします」

 やわらかな声のトーンで丁寧にお辞儀をする彼は、品の良いクラシカルなスーツをまとっていた。落ち着きのある穏やかな壮年の男性。彼の姿に、私はふとあのカフェのことを思い出して、思わずふふっと笑みをこぼしてしまった。彼はそんな私に対し、目を瞬かせて聞いた。

「何か、おかしなことを申しましたでしょうか……?」

「あっ、いえ!すみません。少し、昔のことを思い出しまして」

「昔、と申しますと?」

「高校生の時の話です。あるカフェで、的場さんのような紳士的なお人柄の店長さんと、そこで働く、無愛想だけど気遣う心を持った優しい男の子と出会ったんです。私はそこで、大切な人と再会して、ヴァイオリンを弾く意味を見出すことができたんです」

「それは興味深いお話ですね。ぜひ、そのお話も詳しくお聞かせいただけますか?」

「えぇ。でも、信じてもらえないかもしれません」

「そんな、なぜでしょうか?」

「そのカフェ、一部の人たちのあいだで『幽霊カフェ』だなんて呼ばれていましたから」

「ゆ、幽霊ですか……?」

 彼の笑みが少し緊張をはらんだのを感じ、私は思わずクスクスと笑った。

「信じるも信じないも、記事にするもしないもご自由に。ただ、あの出来事は私にとって、一生忘れられない大切なひと時でした。まるで、苦いのに優しい味のするコーヒーのような。少し、長くなりますがよろしいですか?」

「分かりました。そのお話、お聞かせください」

 私は、あの一連の出来事を初めて誰かに話した。隠していたわけではないけれど、胸に大切にしまっていたいと思って、今まで誰にも話してこなかったのだ。けれど、なぜだろうか。彼には話していいと思った。

 死者と会えるカフェ。その話をすると、彼の瞳はかすかに揺れ、瞼の奥に羨望の光が垣間見えた気がした。それは、私の勝手な思い込みかもしれない。あるいは、経験した者だけが感じる何かかもしれない。

 何を思い、今を生きるのか。その問いに、私は今日も応えていく。

 閉じていた瞼をそっと開くと、舞台上を照らし出すオレンジ色のライトが視界に映った。ゆっくりと深呼吸を一つして、影と光の境界線を一歩踏み出す。ドレスの裾がふわりと揺れ動き、私は煌々と降り注ぐその場所へ歩みを進めた。

 あれから10年。かかとの高いヒールを履いて歩くのも、もうすっかり慣れたものだ。

 日本を離れた大舞台。歴史を感じさせる荘厳な造りの会場。向けられた多くの拍手。私は舞台の真ん中でそっとヴァイオリンを構えた。空気が変わり、静寂に包まれる会場内。観客全ての視線が私へ集中する。高鳴る鼓動。湧き上がる高揚感。

 ――いい感じだ。

 さぁ、今日も届けようか、私の音楽を。

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