第2話
野々村葵、彼女と初めて出会ったのは高校に入学した当日のことだった。その日は、快晴の青に満開の桜がよく映えて、新しい門出を祝うにはぴったりの心地の良い晴れの日だった。高校生という新たな出会い。きっと新入生は恋や青春、部活といった、きらめいた思いに胸を膨らませ、見るもの全てが色鮮やかに見えていただろう。
けれど私にとって、そんな景色は、ただそこにあるだけの視界の一部でしかなかった。ヴァイオリンを始めて10年。将来有望だと期待され、私は実績を積むことだけにひたすら専念してきた。コンクール優勝を目指して講師の先生とマンツーマンでレッスンを重ねる日々。
中学の頃から、よりクオリティの高いものに仕上げるため、レッスンも一層厳しさが増していった。そこには、もはや楽しさなど微塵も存在せず、音楽科を併設する高校に入学を果たすも、私は一体何を目指し、何のためにヴァイオリンを弾き続けるのか、もうその理由も分からなくなっていた。
いつまでも続く終わりのない練習とプレッシャー。眩しい春の景色も、私には鬱々とした思いが募る灰色の景色にしか見えなかった。
そんなことを思いながら渡り廊下を歩いていると、どこからかピアノの旋律が春風に乗って聞こえてきた。この曲はショパン、ノクターン第2番 作品9-2。誰かがどこかで弾いている。
――なんて柔らかくて綺麗な音だろう。
私は気が付くと、まるで導かれるようにその音色が響く場所へと足を運んでいた。校内の教室はまだよく知らない。ただただ、響く音色だけを辿ってその場所を探した。演奏が段々と近くなる。廊下を曲がると、そこからはっきりとピアノの音が聞こえた。第2音楽室。私はその教室の扉をゆっくりと開けた。
窓から差し込む柔らかな陽の光。艶のあるロングの黒髪が光に反射して美しくなびく。陽光を背に浴びながら、優しく撫でるように演奏する彼女の姿は、絵画のように美しく、まるで色とりどりの花が芽吹く春の景色のようだった。カーテンが緩やかに揺らめき、穏やかな春の匂いが教室に舞う。漆黒のグランドピアノから響くその一音一音はパレットのように色づいていて、灰色だった私の視界を、あっという間に色鮮やかな景色に変えてしまった。
演奏が終わると彼女は私に気付いたようで、そっと立ち上がった。立ち姿すら優雅だ。2年生か、3年生か。子供っぽい私とは違って、とても大人っぽくて華がある。彼女の口元が徐々に開いていった。
「ごめんなさい!もしかしてここ使う予定!?誰も居なかったから、ちょうどいいやって思って私、勝手に使っちゃって……!ごめんなさい、すぐに出て行くので!」
わたわたと焦って鞄を手にした彼女を私は慌てて止めた。
「あっ、あの違います!そうじゃないんです!そうじゃなくて、私は……!」
彼女は手を止めると小さく首を傾げた。
「私はただ、あなたの演奏があまりにも綺麗だったので、その……、どんな人が弾いているんだろうって、見に来ただけなんです……」
すると、彼女の手からするりと鞄が滑り落ちた。そんなこと気にも留めず、彼女はつかつかと歩み寄ると、突然私の手を取ってずいっと身を乗り出してきた。
「本当!?嬉しい!ねぇ、あなたも音楽好き?どんな曲聞くの?もしかしてピアノ弾けたりする?」
「えっ、ちょっ、え!?」
先ほどのおしとやかな雰囲気はどこに行ったのか、彼女は目を輝かせながら興奮気味に私に迫って来た。そのギャップと勢いに私は思わずたじろいでしまった。
「あっ、ごめんなさい!私ついスイッチが入ってしまって……」
照れ笑いを見せる彼女のおどけた表情は、等身大の女の子そのもので、とても可愛らしく親しみに溢れていた。彼女は佇まいを戻し、後ろで手を組むと目元を細めながらもう一度言った。
「ねぇ、あなたも音楽が好き?」
けれど、私はその問いに即答できなかった。「好き」という、たった2文字の言葉がまるで鉛のように重く感じて言葉に出来ない。胸の奥に黒煙のようなモヤがかかる。その2文字は大分前に霞んで、今はもう私には見えなくなってしまった。
「……今は、あんまり」
「そうなの?でも、あなたは音楽に魅力を感じてると思うけどな。じゃなきゃ、今ここに来ていないでしょ?それって、やっぱり音楽が好きってことなんじゃない?」
そうなのだろうか。確かに私は、彼女の音に何か惹き付けられるものを感じて、自然とここに足が向かった。けれど、自分が奏でる音にはそんなふうに感じることができない。音に乗せているのは、今はもう荒んだ感情ばかりだ。
「ピアノは?ピアノは弾く?」
「私はヴァイオリン専攻してるから……」
「え!ヴァイオリニスト!?専攻ってことは、あなた音楽科の生徒だったの!?いいなぁ羨ましい!」
「え?先輩は音楽科のピアノ専攻じゃないんですか?」
すると、彼女はいきなり吹き出してお腹を抱えて笑い出した。
「先輩って!私、今日入学したばっかりだよ?それに、私は普通科の生徒。1年6組、野々村葵。あなたは?」
「1年1組、相澤七瀬、です」
「ねぇ、ここで会ったのも何かの縁だと思うの!私たち友達になろうよ!」
「えっ!……う、うん」
「やったぁ!よろしくね、相澤さん!」
春のうららかな景色に溶け込む、木漏れ日のような彼女の笑顔。桜の花びらが柔らかな風に乗ってグランドピアノの上をそっと滑る。私たちは音楽によって導かれ、こうして出会ったのだった。
音楽科と普通科は校舎が分かれている。葵は昼休憩のたびに、第2音楽室がある音楽科の校舎へわざわざやって来てピアノを弾いていた。普通科の校舎にも音楽室はあるけれど、葵はここのグランドピアノがお気に入りらしい。葵がこちらに来ると分かっているので、私も第2音楽室でお弁当を食べるようになり、いつしかそれが日常になっていった。
葵の演奏技術は、確かに音楽科の生徒に比べると差があるように思えた。それでも、ときどき目が覚めるような洗練された美しい音色を演奏することがある。それは音楽科の誰よりも美しく、思わず聞き惚れるほどの旋律だった。
すっかり親しくなってお互い名前で呼び合う仲になった頃、私は葵に聞いてみた。
「ねぇ、葵は何で普通科にしたの?音楽科のピアノ専攻、受けなかったの?」
「実はね、受けたのよ推薦で。でも落ちちゃった」
「え……」
「私、ピアノ始めたのが遅くてさ、中学からなの。実績も無いし、そりゃ落ちるかぁって一回納得しようとしたんだ。でもそんな時、この学校には普通科から音楽科に編入できる制度があるって知ってね、やっぱり諦めきれなくて普通科の一般入試で滑り込んだってわけ」
「そう、だったんだ……」
正直、驚いた。大抵、音楽をやっている子は、私のように幼い頃からレッスンを受けたり教室に通ったりして多くの時間を音楽に費やして育ってきている。葵は中学からピアノを始めた。正直遅すぎる。手遅れと言っても過言ではない。
でも、葵の演奏技術は音楽科の生徒と比べると差があるとはいえ、大きく見劣りするものではない。スタート地点に大きな差があるにも関わらずだ。音楽の才能がなければ成し得ないことだ。
もちろん才能の一言で片付けられることではない。ここまでの技術を習得するまで、一体彼女はどれだけピアノと向き合い、練習と努力を重ねてきたのだろう。何が、そこまで彼女を突き動かすのだろう。
「私、来年の2月に音楽科ピアノ専攻の編入試験受けようと思ってるんだ。それに合格したらさ、私たち同じ校舎で学べるってことだよね!そうなれたらすごく嬉しいなぁ。欲を言えばクラスも一緒になれたらいいんだけど」
「ピアノ専攻とヴァイオリン専攻はクラス違うからね。でも、葵が音楽科に編入してくれたら私も嬉しいな。アンサンブルの授業もあるし、一緒に授業受けられたら、楽しい、かも……」
「本当!?よーし!私、絶対に合格して、2年生からは七瀬と同じ音楽科に行くからね!」
ひたむきにピアノと向き合って、心から楽しみ、音楽を愛する葵が、私にはとても眩しく見えた。上品な見た目に反して逆風に立ち向かう勇ましさ、勇敢さ。されど、ひとたびピアノを演奏すると気品が漂い、聞く者の景色を彼女の織りなす色に変えてしまう。そんな魅力を秘めた野々村葵という存在が、音楽科の生徒じゃないだなんて不思議な話だ。彼女こそ合格を手にするべき存在だと私は思う。
「ねぇ、七瀬はどうなの?」
「え?」
「ヴァイオリン。ずっとスランプだって言ってたけど」
「うん……、授業の成績もレッスンの調子もあまり良くないんだ。私の音は、ただの記号。……空っぽなの」
私は膝を抱え、嘲笑が混ざった声でそう言った。最近の演奏は、譜面をただなぞるだけのものになってしまった。それは、何の意味もない演奏だ。ヴァイオリンと向き合うのも苦しくて、弾こうとすると腕は重くなり、息が詰まるような感覚に覆われる。
「ねぇ七瀬。明日、私にヴァイオリン聞かせてよ」
「えっ!?」
「だって出会ってもう3ヶ月経つのに、私、まだ七瀬のヴァイオリンの演奏聞いてないんだもん」
「無理だよ無理無理!さっきも言ったじゃん。私の演奏聞いたってガッカリするだけだよ!」
「ガッカリするかどうかは七瀬が決めることじゃないでしょ」
葵は眉を上げて頬を膨らませながらそう言葉にした。腰に当てていた腕を私に向けて指差すと続けて言う。
「絶対だからね!ぜーったい、明日ヴァイオリン持って来てよね!」
そう言われても。と返そうとしたけれど、予鈴のチャイムに阻まれて言い損なってしまった。葵は第2音楽室を出て行く直前、振り返って念を押すように、「約束だよ!」と笑顔を向けた。期待の色を浮かべた眼差しだった。私の演奏は、そんな期待されるような代物じゃないのに。口から思わず溜め息が漏れてしまった。
翌日、お昼がやってきた。本当に弾かないとダメかな、と後ろ向きの思いを抱えながら私はヴァイオリンを片手に第2音楽室の扉を開けた。葵はまだ来ていなかった。いつも私より早く来てピアノを弾いているのに、遅くなるなんて珍しい。
第2音楽室には夏の日差しが差し込んで光と影のコントラストがくっきりと浮かび上がっていた。梅雨が明けて、すっかり夏空に変わった景色。窓を開けると、ぬるい風が私の頬をふわりと撫でていった。さわさわと葉が揺れる音とセミの鳴き声が聞こえる。
誰もいない音楽室。ピアノの椅子に目を向けると、座っている葵の姿が容易に映し出された。同時に彼女の演奏が脳裏に蘇る。よく弾いている曲はパッヘルベルのカノン。葵が奏でる音は不思議と心が落ち着いて、その時だけは鬱屈な感情が取り除かれた。それは穏やかで心地の良い、私だけの特別な時間。
私はヴァイオリンを取り出すと、ピアノの前に立った。演奏する彼女を思い描き、弓を引く。ヴァイオリンの旋律が音楽室に響いた。葵が奏でる滑らかで美しい繊細なピアノの音。もし、その演奏にヴァイオリンを重ねるなら。そんなふうに思いを巡らせた。
その時だ。音楽室の扉が開いた。空想の世界から現実に戻ってきたような感覚がして、私は思わず手が止まった。響いていた音も、ふっと空気に溶けて消えていく。入り口に立っていたのは葵だった。目を大きく開いてこちらをじっと見つめている。彼女の眉がきゅっと吊り上がると、ずんずんと一直線に私へ歩み寄って来た。両腕を掴まれた私は、思わず体を固まらせた。彼女の頬が徐々に潮紅していく。
「素敵!」
「へ?」
「今の、もう一回聞かせて!七瀬のヴァイオリンすっごく素敵だよ!」
花を咲かせたように満面の笑みを浮かべる葵に私は戸惑った。あんな演奏は、ただ気を晴らすためだけの出来心のようなものだ。セオリーなんて無視した、でたらめな演奏。なのに、葵の瞳は光に満ち溢れていて、まるで満天の星空のようにきらめいていた。
返答に困っていると、葵は、「だめ?」と窺うように小首を傾げた。そして少し考える素振りを見せた後、彼女はピアノ椅子に腰かけた。
「じゃあ2人で弾こうよ」
「えぇっ!?」
葵はお構いなしにピアノを弾き始めた。彼女の十八番、パッヘルベルのカノン。美しい旋律が音楽室を包み込む。でも、いつもと違う。葵が弾き始めたのは主旋律ではない。伴奏だ。誘っているのだ、私のヴァイオリンを。「私の音に乗せて」そう語りかけるように。
強引ではない。そっと手を差し伸べているように一音一音丁寧に、優しく誘っている。
私は不思議な感覚に包まれた。それは、安堵感を伴う、まるで穏やかな春の日差しを浴びているような感覚だった。暖色を帯びた色とりどりの音が、胸の奥にふわりふわりと降り注いで優しく反響する。
背中を、そっと、さすってくれているようだった。泣きたくなるくらい優しい旋律が私の背中を緩やかに押す。
堅苦しいしがらみも、厳格なルールも一切ない。肩ひじも張らず、ただただ彼女の音に身を委ねるだけでいい。そう思ったら、力が抜けて体が軽くなった。私は自然とヴァイオリンを構え、柔らかな音に同調するように弓を引いていた。
手にしているヴァイオリンのフォルム、弓の感覚。いつもは何も感じないのに、今は指先までその感覚がしっかりと伝わる。まるで楽器が生きているようだ。不思議と腕が重くない。指も肩も、呼吸も震えていない。驚くほど自然体でいられる。葵の寄り添うような柔らかな音が耳に馴染んで心地良い。私の音と葵の音が重なり、一つの旋律となって溶け合い、そして鮮やかな響きに変わっていく。
――音が、喜んでいる。
次第と湧き上がる熱。お腹の底から沸々と昂っていくこの気持ち。こんな感覚に包まれるのはいつぶりだろうか。葵の奏でる音は、まるで天使がもたらした魔法のようだった。
最後の一小節を弾き終えると、思わず息がふっとこぼれた。胸が熱を帯びて、どきどきと音を鳴らしているのが分かる。
「七瀬」
華のある、落ち着いた彼女の声が私の名前を呼んだ。
「七瀬の音色は、空っぽなんかじゃないよ。音楽は願いや祈りを乗せると、ちゃんと応えてくれるんだよ。どう?私の思い、七瀬にちゃんと届いた?」
真っ直ぐ見据えて微笑みを向ける葵に、私は、じんと目頭に熱を感じた。胸の奥からくすぶる感情と熱が広がってくる。
長い間、私の心はずっと砂漠のように乾いていて、どんな曲を弾いても何の感情も湧いてこなかった。なのに、たった一回、彼女と一緒に演奏しただけで、こんなにも感情を変えられてしまうなんて。
砂漠に埋もれた私を、葵はいとも簡単に引っ張り出してしまった。差し伸ばされたその手も、言葉も、声も、音色も、葵の織りなす世界はどれも光に満ちていて、砂漠だった私の世界をあっという間に湖が広がる大自然に塗り替えてしまった。
葵は、とんでもないピアニストだ。見た目は上品で可憐なのに、強引で勝手なところがある女の子。でも、優しい音を生み出せる、清らかな心の持ち主。私の、初めての友達。
「うん、届いた。届いたよ、葵」
葵は、胸の奥に光る小さな欠片に気付かせてくれた。それは、ずっと前に失くしてしまった音楽の欠片。私の音は、まだ消えてはいなかった。ずっとここにあったのだ。
ふと窓の外を見ると、夏色に変わった空がどこまでも青く遠く広がっていた。その青がやけに眩しくて、私には、涙が出るほど鮮やかに見えた気がした。
「七瀬さん、音の伸びが良くなりましたね」
レッスン中、ヴァイオリン講師の先生からそう伝えられたのは、夏休みが始まる前のことだった。
「少し前とは大違いです。これなら、またコンクールで上位を狙えますよ」
「コンクール……」
葵との演奏を経て、ヴァイオリンを弾くことへの鬱屈さが和らいだとはいえ、コンクールへの意欲は湧かないままだった。沢山のコンクールに出場して、出場し続けて、永遠に終わらない挑戦を続けることに何の意味があるのだろうかと、そう考えてしまう。賞を取ったとして、それが何になるのだろうか。仮にヴァイオリニストとして大きな舞台に立ち、演奏したところで、その先に待っているものは何だ。多くの歓声と拍手、脚光を浴びて注目を得る。それは世間一般としては成功と呼べるものだろう。けれど、今の私にはそういったものに興味が持てない。意欲が湧かない。私にはヴァイオリニストとして舞台に立って弾き続けたい理由がないのだ。
「どうでしょう七瀬さん、ちょうど秋に行われる全日本クラシックコンクール、出場してみませんか?」
「先生、私は……」
「大丈夫!七瀬さんは技術の高さはもちろん、曲の解釈や表現力も備わっています。しばらくの間、集中力が続かなかったり、気分が中々乗らなかったようでしたが、最近は改善されてそれが音にも表れています。十分、自信を持っていいレベルですよ」
「はあ……」
「申し込みの締め切りまでまだ時間がありますし、考えてみてくださいね」
コンクールへの出場は一旦保留となった。
ちょうどその頃、クラスでは学校祭の話題が上がるようになった。各クラス、出し物は自由だ。音楽科だからといってクラスで音楽の発表をする必要はない。各々、個人的にコンクールを控えていたりと、そちらの練習に取り組みたい人も多いはずだ。音楽とは関係のない出し物をやることは珍しくなかった。
ところが、今年の音楽科の1年生は文武両道思考が強いらしい。クラスの垣根を越えてオーケストラをやらないかという提案が出たのだ。皆その提案に乗り気になって、あれよあれよという間に決定事項となってしまった。きっと、夏休みはその練習で多く時間を取られるだろう。夏休みは葵を誘ってどこか遊びに行きたい。そう思っていたのに。
「七瀬、これ見て!」
お昼、いつものように第2音楽室でお弁当を食べていると、葵が意気揚々とチラシを目の前にかざして言ってきた。そのチラシは私も見覚えがある。掲示板に貼り出されていたからよく目にしていた。音楽科が併設されているこの学校らしい、学校祭の有名な催しの一つ。
「響華祭音楽コンサート……」
「うん!出場は誰でもどんな形式でもオッケー。曲の縛りもないし自由度も高い。一見、学校祭を盛り上げる、ただのコンサートって感じだけど、このコンサートにはある噂があるの」
「噂?」
「表向きはコンサートと銘打っているけど、実際はコンクールと同等の意味を持っているらしいの。最も優秀な演奏を披露した生徒は、それが成績に反映されて評価も得られるって噂よ」
「本当に?ただの噂じゃない?」
「そうね、所詮噂でしかない。それでも、私、挑戦してみたいの。可能性があるならどんな小さなことでもやってみたい。ここで強い印象を残して、音楽科の編入を少しでも近付けたいの。それでね七瀬、実はお願いがあって……。その……、私と一緒にデュオ演奏で出場してくれないかな?」
「えっ、私!?」
「うん、どうしても七瀬と出たいの!お願い!」
深々と頭を下げる葵の姿が何だか妙に小さく見えた。明るかった彼女の声色に、少し必死さが帯びていて、スカートの裾をぎゅっと掴むその手が小さく震えていた。
デュオ演奏、つまり葵と私がピアノとヴァイオリンで二重奏曲を披露するということだ。なぜ私なのだろう。そう思う気持ちと、私を選んでくれたという、くすぐったい気持ちが混ざり合う。消えかけていた私の音色を本当の意味で引っ張り出してくれたのは、他でもない、葵だ。葵は私に寄り添ってくれた。だったら、今度は私が彼女の力になる番だ。葵の背中を支えてあげたい。私は心からそう思った。
「分かった、いいよ。デュオ一緒にやろう」
「本当!?嬉しい、ありがとう七瀬!」
顔を上げた葵は、ふわりとほころんだ笑顔を見せて安堵感を漂わせていた。私もにこやかに微笑み返す。とはいえ、音楽科の出し物とコンサート、夏休みの課題とレッスン、これらを全て同時進行でこなさなければならない。これはハードな夏休みになりそうだ。
それでも、コンサートの噂が本当なら葵のためにも手を抜くことは絶対にできない。この挑戦が音楽科編入への足掛かりになるなら、私も葵のことを応援したい。葵が音楽科に編入してくれたら、きっともっと沢山話ができて今より多くの時間を一緒に過ごせる。葵にとっても、私にとっても明るい未来に繋がるのだ。そう思うと高揚感がみなぎってきた。
絶対に成功させよう。私は気合いを入れるように小さく拳を握った。
夏休みは思った通り目が回る忙しさだった。覚悟はしていたつもりだったけれど、スケジュールが圧迫されて練習時間が満足に取れていない。夏休みの課題なんて全然手をつけていない状況だ。
「七瀬、疲れた顔してるけど大丈夫?ごめんね、オケの練習もあって大変なのに……。音楽科のクラスがオケやるって私知らなくて、それなのにお願いしちゃって……」
「大丈夫、大丈夫!気にしないで。私がやるって決めたことだから。それに私、葵と一緒に演奏できるのが嬉しいんだ。誰かとヴァイオリンを弾くことはよくあるけど、葵と一緒に演奏している時だけは景色が全然違って見えるの。私、葵といる時が一番、音楽と向き合えてる気がする」
「七瀬……。ありがとう、本当に」
お礼を言うべきなのは私の方だ。こうやってもう一度、ヴァイオリンを心地よく弾けるようになったのは葵のおかげなのだから。葵ならきっと、このコンサートも成功させて編入試験にも合格できる。私にはそういう確信があった。
4月から今日まで、私は彼女の演奏をずっと側で聞いてきた。初めて出会ったあの時から、彼女が奏でるその音は格段に変わってきているのだ。ヴァイオリンを専攻している私でさえ分かる。だからなのだろうか、私も彼女の音に触発されて、より洗練された音を奏でたくなったのだ。昂る思いが泉のように込み上げる。確かに体は疲れを感じている。けれど、葵と演奏する時だけは心が躍ってそんなことを忘れてしまう。葵の隣にいるだけで、私は私らしくいられるのだ。
練習を終えたあと、第2音楽室を出るとクーラーが効いていた部屋とは一変して廊下はじっとりとした熱気を帯びていた。夕方とはいえ太陽はまだまだ元気に校舎を照らしている。気休めにしかならないと分かっていても、思わず手であおいで自分に風を送ってしまう。
「うぅ……私、じめじめした暑さが一番苦手だな。葵は髪切らないの?暑くない?手入れも大変そう」
「確かにそうなんだけど、長い髪は結ってしまえば案外涼しいものだよ。それに、願掛けみたいなものだから、まだ切りたくなくて」
「願掛けかぁ、何だかロマンチック!どんな願い事をかけてるの?」
「それは――」
その時、側を歩いていた教室から声が聞こえてきた。
「聞いた?今年の響華祭のコンサート、普通科の生徒が出場するんだって。度胸あるよね」
「聞いた聞いた。自由参加とはいえ結構レベル高いでしょ、あのコンサート。音楽科の為にあるようなものだし。しかも今年の出場は3年生の実力派揃いだって聞いたよ。普通科の人が出ても場が盛り下がるだろうし、恥かくだけなのにね」
「しかも相澤さんと一緒に出るって話だよ。うちらオケあるのにさ、何で出場決めちゃうかな。相澤さん、断れば良かったのに」
「普通科の生徒に脅されたとか?ほら、相澤さんってヴァイオリンは上手いんだけど、内気と言うか、大人しくて言い返すようなタイプじゃないじゃん」
「あぁ確かにね。相澤さん、良いように利用されちゃって可哀そう」
頭が一気に熱くなったのを感じた。血が逆流するような不快感が全身を覆う。可哀そうって何だ。勝手な憶測で決めつけないでほしい。何より、葵の演奏を聞いてもいないのに人を下げるような物言いをされたことが許せない。私は拳を握り締め、怒りで震えた。
すると、葵が私の手をそっと掬い上げ、両手で包むと静かに首を振った。柔らかな微笑みを見せる葵。両手から伝わる彼女の体温。強張っていた私の拳は緩やかに解かれていった。その様子を確認すると、葵は教室のドアに手を掛けた。いきなり開いたドアに、中にいた生徒は驚いた様子でこちらへ振り向く。
「葵!?」
「普通科1年6組、野々村葵!今年の響華祭コンサートは、私と七瀬が全生徒を魅了させてみせます!他の音じゃ満足できなくなるくらい心臓に刻み込んでみせるので、どうぞ楽しみに待っていてください!」
大口叩いてタンカを切った葵に、私は思わず口をあんぐりと開いてしまった。
「行こう、七瀬!」
「えっ、ちょ、葵!」
言われるまま手を引かれ、私たちは廊下を駆け抜けた。太陽がちかちかと反射する。前を走る彼女の髪が左右に揺れて踊っている。弾む笑い声、ひらりと舞う制服のスカート。振り向いた彼女の頬はほんのりと染まっていて、息を上げながら眩しい笑顔を携えていた。その姿が絵になるほど華麗で、釘付けになった私は思わず目が離せなくなった。
「あー!面白かった!さっきの子たち、鳩が豆鉄砲を食ったような顔してておかしくなっちゃった!」
「面白かった、じゃないよー!いきなり何言い出すのよ、こっちがびっくりして心臓飛び出るかと思ったじゃん!」
「本当、大きなこと言っちゃったよね、私。でも何でかな。私、七瀬とならやってのけちゃう気がするんだ」
そう言って彼女はニッと歯を見せた。どうしてだろう、3年生には実力者がぞろぞろといるはずなのに、葵が言うと不思議とそうなってしまうんじゃないかと思えてしまう。
ふと、先ほど見たクラスメートの驚いた顔が浮かんだ。目を丸くして呆然とした表情。思い出すと何だかおかしくなってきて、つられて私も笑い出した。廊下に響く二つ分の笑い声。
夕方を知らせるチャイムが遠くで響く。夏休みも、そろそろ折り返し地点に差しかかろうとしていた。
ヴァイオリン講師の先生から、もう一度コンクール出場の打診を受けたのは練習が大詰めを迎えた頃だった。
「どうでしょうか、七瀬さん。秋のコンクール、ここで上位入賞を果たせたら来年行われる国際コンクールへの出場も有利になります。今の実力ならきっと入賞できますし、それに国際コンクールで名を知られることができたら、将来の幅ももっと広がります。出てみて損はないですよ。出場してみませんか?」
先生から向けられた期待と切望をはらんだ眼差し。名誉や名声。私にはそんなものはいらない。葵と一緒に演奏する時間の方が、よっぽど尊くて大切で胸が高鳴る。私は葵と一緒に音楽ができればそれでいい。今ならはっきり言える。私が音楽と向き合う理由は、ただそれだけだ。
「すみません、先生。私コンクールには出ません」
「え!?」
「私、入賞とか名声とか、そういうものがほしくて、今、音楽やっているわけじゃないんです」
「でもね、七瀬さん――」
「先生には小さい時からお世話になっていますし、そのおかげで今までコンクールも結果を残すことが出来ました。上達できたのは側で先生が指導してくれたおかげだと思っています。それには感謝しています。でも私、コンクールのために音楽がやりたいんじゃないんです。私は、大切な親友のために音楽をやりたいんです」
「七瀬さん……」
「わがまま言って、ごめんなさい」
「……一先ず、分かりました。また気が変わったら、いつでも言ってくださいね」
今まで、自分の主張をあまりしてこなかったせいか、先生は私の言葉に少々困惑している様子だった。私自身、こんなにはっきりと自分の気持ちを口にしたことはない。言葉にすると、より一層強く胸に感じた。彼女のため。そう思うと、私は自分の音に誇りを持って演奏が出来る。そう感じたのだ。
問題が起こったのは学校祭の3日前のことだった。生徒に配布された響華祭のパンフレットを見て私は目を疑った。音楽科クラスの演奏とコンサートの出場時間が被っていたのだ。それぞれ披露する会場も異なっている。私と葵は慌てて学校祭実行委員会に調整の申し出をした。
「あのっ!この演目、順番変えてもらえませんか!?私、どちらにも出場することになっているんです!」
「え!?おかしいな、ちゃんと考慮して組んだはずなんだけど……。うーん、今から構成組み替えてパンフレット作成し直すのはさすがに時間的に無理があるなぁ。印刷所に依頼しても間に合わない。悪いけど、個々で相談してもらえないかな。変更のアナウンスは言ってくれたら当日対応するからさ」
間違えたのは委員会なのに、言うことはそれだけなのか。持っていたパンフレットにくしゃりと皺が入る。適当にあしらわれているようで納得がいかなかった。
「七瀬、仕方ないよ。コンサートに出場する先輩たちに掛け合ってみよう」
けれど、3年の先輩たちもクラスの出し物やアンサンブルメンバーの都合から時間をずらすことが叶わなかった。
「どうしよう……」
校舎裏で、私と葵は途方に暮れていた。もういっそ、クラスのオケは辞退してしまおうか。私はそんなふうに考えていた。葵も隣でずっと黙りこくっている。沈黙が続くなか、セミの鳴き声だけが、ずっと耳に響いている。すると、葵が突然立ち上がった。彼女は背を向けたまま振り向かない。
「七瀬は、クラスの演奏のほうに出て」
「え……?ちょっと待ってよ。それじゃあデュオはどうなるの!?」
「ピアノソロで出ることにする」
「そんな、今からソロに変更なんて……!私、デュオやるよ!クラスのオケは辞退する!オケは私がいなくても何とかなるって!」
「ダメだよ。七瀬、言ってたじゃん、ソロパートもあるって。七瀬が抜けたら音楽科の人たちに沢山迷惑がかかっちゃう」
「でも、私は葵と……!」
振り向いた彼女の瞳は不安と覚悟が入り混ざった色をしていた。
「ありがとう、七瀬。でも、これは私にとっての試練なのかもしれない。乗り越えろって、神様が言ってるのかも。だから、私やってみる」
「葵……」
それから当日まで、私はオケの最終練習に多くの時間を割くことになり、葵と会うことなく私たちは響華祭当日を迎えることとなった。
私はあのとき葵が見せた、不安を隠し切れない表情がどうしても頭から離れなかった。コンサートの出場をお願いされた時も、彼女の手は小さく震えていた。実績が無いと言っていた彼女にとって、初めての大きな舞台。私も大勢の前に初めて一人で舞台に立った時は、緊張と不安で押し潰されそうな思いがした。きっと葵も同じなのだ。気丈に振る舞っていても、心は不安でいっぱいなのだ。
だから私は考えた。音楽科クラスの演奏は午後の演目第一発目、1階のメインホールで行われる。対して葵の演奏はその20分後、2階のリサイタルホールで行われる。オケの演目は30分間の構成だ。そして私のヴァイオリンソロパートは開始から5分後。時間は十分間に合うはずだ。
私は意を決して葵に電話をかけた。長く鳴り続ける呼び出し音。
お願い、電話に出て。演目の最終調整中か、それとも――。
なかなか繋がらない電話に心配が募っていく。その時だ。
「七瀬……?」
スマホから葵の声が聞こえた。けれど、その声にはいつもの明るさが感じられない。私は顔を上げてはっきりと言葉にした。
「葵、演奏見に来て。最初の5分だけでいい。私のソロパートを見に来て。葵に見てほしいの。いい?絶対だからね」
私は葵の返事を待たず通話を切った。彼女が来てくれるかどうかは分からない。それでも私は決めたのだ。最も注目を浴びるヴァイオリンソロは、たった一人の、大切な親友のために弾くと。
午後1時。音楽科1年生のオーケストラ演奏の時間がやってきた。舞台上のライトの熱。観客のいる会場。張り詰めた緊張感のある空気。この感覚、久しぶりだ。壇上に上がった生徒たちが指揮者の合図で静かにフォームを構える。
次の瞬間、静かな空気が震え、会場内を包み込む壮大な音楽が生まれた。重厚感のある演奏、重なり合う音の調べ。その一部に溶け込む私の音色。でも、ここだけは私の独壇場だ。音楽がいよいよヴァイオリンソロパートに差し掛かる。私は立ち上がり、この演奏に魂の全てを込めた。
見てほしい、私の姿を。届いてほしい、彼女に。この思いは、きっと言葉よりも音楽のほうがずっと強く伝わる。行け、響け、私の音。この音は空っぽなんかじゃない。音楽は、願いや祈りを乗せると、ちゃんと応えてくれる。きっと届くはずだ。彼女が、そう教えてくれたのだから。
――届け、届け!届け!あなたは絶対、大丈夫!
私は自分の音に思いの丈をぶつけた。こんなに情熱を込めた演奏は初めてかもしれない。心臓が大きく鼓動する。熱と光と肌に感じる空気、そして私の思いに呼応して反響する音色。この全てを私は会場に解き放った。
――どうか、彼女に届きますように。
演奏が終わると会場は盛大な拍手に包まれた。袖に捌けた途端、急激な疲労感が私を襲った。渾身の演奏を披露したのだ。その疲れは今までの比ではない。クラスメートや先生が駆け寄って私の演奏を称賛した。私はそれらの声にほとんど耳を傾けず、すぐさま2階のリサイタルホールへと急いだ。
葵の演奏は今どうなっているのだろうか。演奏の疲労も相まって階段を一段一段のぼるたび、息がどんどん上がっていく。たった1階分の距離なのに逸る気持ちのせいか、その距離がやけに長く感じた。
――早く、早く、葵の演奏が終わってしまう。
階段を上った先にホールの扉が見えた。息を整えるのも忘れ、私は取っ手に手をかけた。
扉を開いた瞬間、私は別世界へと足を踏み入れたような感覚に覆われた。ステージ上に見えるのは、煌々とライトを浴びて艶をまとう漆黒のグランドピアノ。そして、品格のあるそのフォルムに負けないくらい、まばゆい光のような存在感を放つ葵の姿があった。
私は一瞬、鳥肌が立ったのを感じた。耳に届く音が今までとはまるで違う。一瞬で引き込まれた。圧倒されるような気高く洗練された演奏。大輪の花のような大胆さとシルクのような繊細さ、音から様々な情景が浮かび上がる。これが葵の演奏。葵が奏でる世界。
最後の一音を奏で終わると、まるで大トリを飾ったかのような拍手と歓声が舞い起こった。リサイタルホールはメインホールほど大きくない。客席も全部埋まっているわけではなかった。それでも、湧き起こった賞賛の音は会場中に反響していた。
葵はプログラムの第一奏者。もはやコンサートの前座と捉えられても仕方がない順番だった。それを、彼女はたった一人で客席全員の心を射抜き、虜にしてしまった。
堂々とした姿で観客に笑顔を見せる彼女に、目頭がじんわりと熱くなった。不安そうだった彼女の姿がまるで嘘のようだ。
――すごい。すごいよ葵。
鳴り止まない会場の拍手。私も負けないくらい、めいっぱいの拍手を彼女に送った。
葵の演奏が終わると、私はエントランスの壁に凭れかかりながら余韻に浸っていた。ほんの少ししか聞くことが出来なかったけれど、それでも葵の演奏は心に残るほど印象深いものだった。本当なら私もあの場にいて、葵の隣でデュオ演奏をしていたはずだった。一緒に舞台に立ちたかった。あの瞬間を分かち合いたかった。でも叶わなかった。葵の演奏が成功した喜びはもちろんある。けれど、それと同じくらい胸の奥で悔しさが湧いていた。
そしてもう一つ、私は葵の演奏技術と音楽的センスに驚きを隠せなかった。当初、曲の主旋律はヴァイオリンだった。デュオ演奏からソロ演奏に変更したのが3日前。葵はその3日間で編曲し、演奏のバランスを考え、完成まで持っていった。私は自分のクラス演奏の練習に時間を取られてしまって、アドバイスは一切何もしていない。葵はこれをたった一人で成し遂げてしまった。その力量に、私は葵の底知れない何かを感じた。
「七瀬!」
葵の弾んだ声に振り向くと、彼女は一直線に駆け寄り、人目も気にせず思いっきり私に抱きついた。
「葵!?」
「七瀬ありがとう!私、七瀬のヴァイオリンのおかげで最後までやり切れたよ!」
「見に来てくれたんだ」
「うん、見に行った!聞いたよ、七瀬のヴァイオリンソロ。七瀬の音が私の背中を力いっぱい押してくれたんだよ!」
葵は腕を解くと、恥ずかしそうに眉を下げた。
「実はね、私、情けないことに今日ずっと手が震えてたの。緊張と不安と心細さで、ずっと震えてた。でも、七瀬のヴァイオリンを聞いたら不思議と震えが止まったの。大丈夫だよって、七瀬が言ってくれているような気がして。側で支えてくれているような、そんな気がして。そしたら段々と気持ちが昂ってきてね、あんなに不安でいっぱいだったのに、早くピアノが弾きたいって思えてきたの!本当だよ!」
音に込めた私の思いは、葵の心にちゃんと届いていた。届けられた。キラキラと輝く彼女の満面の笑み。そんな彼女を目にしたら、私の胸は満たされたような充足感が湧いてきた。今日ほどヴァイオリンをやっていて良かったと思った日はない。きっとこの日が、本当の意味で私の音楽に意味が生まれた瞬間だったのだと、そう思えた。
「ねぇ七瀬、響華祭なんだし、せっかくだから一緒に写真撮ろうよ!」
「えっ、写真!?私写真とか写るの苦手で……」
「えー!七瀬すごく可愛いのに勿体ないよ!撮ろう、絶対!」
「いや、私なんて全然……」
「もー!七瀬は何でも過小評価しちゃうんだから!」
葵が私のほっぺたを軽くつねった。
「いい!?七瀬はね、ご飯の食べ方も仕草も全部が可愛いの。コーヒーが苦手だったり、ふわふわした髪だったり、控えめなところも全部、すずらんみたいに清楚で可憐なの!でも舞台に立つと全然違うの。力強くて、優雅で存在感に溢れてる。まるで牡丹の花が咲いたみたい。七瀬はもっと自分の魅力に気づくべきだよ。少なくとも私はそう思ってる!」
膨らませていた頬を緩ませて、葵がまた弾けるような笑顔を見せる。あぁ、彼女は本心からそう思って口にしている。胸の奥がこそばゆくて温かくて変な感じがする。葵と出会ってから私の世界は変わりっぱなしだ。
「そうだ、どうせならヴァイオリン持って写そうよ!」
早く早く、と楽しそうにまくし立てる彼女の声に観念して、私はケースからヴァイオリンを取り出した。葵はいつの間にか、通りかかった生徒に写真撮影を頼んで準備万端というふうに片手でOKサインを出していた。
「いきますよ、はい、チーズ」
シャッター音が小さく響く。
「ほら、やっぱり可愛い」
初めて撮った葵とのツーショット写真。画面の中の私は、自分でも驚くくらい晴れやかな笑顔を浮かべていた。
眩しい笑顔が並んだ写真に思わず頬が緩む。来年もまたここで一緒に撮りたい。私は写真を眺めながらそんなふうに思っていた。
けれど、後にも先にも葵と一緒に撮った写真は、この一枚だけだった。
「こんにちは、本日はお邪魔します」
「いらっしゃい、葵ちゃん!来てくれて嬉しいわ!さぁ、どうぞ上がって」
「あの、これ良かったら皆さんでどうぞ」
「まぁ、気が利くのね!七瀬ちゃんとは大違い!」
本人がいる前でそれを言いますか。私は口を尖らせながら、出迎えたお母さんを睨んで心の中でそう呟いた。今日はなんと、葵がうちに遊びに来てくれたのだ。
事の始まりは響華祭の日、写真を撮ったあとのことだった。お母さんから、「差し入れを持って来たから会いたい」と連絡があった。差し入れなんて別にいらないし、何より学校で親と会うのが恥ずかしくて堪らなかった。私は断ろうとしたけれど、電話越しのお母さんの声がかなり上機嫌で、その勢いに負け、強引に押し切られてしまった。
合流した時、葵もその場にいたので彼女を紹介すると、お母さんは余計舞い上がった様子を見せた。これまで友達と言えるような人がいなかったから、私に親しい友人が出来たことが相当嬉しかったのだろう。それからだ。お母さんは、「葵ちゃん、たまにはお家に招待したらどう?」とか「いつ来てくれそう?」と何度も聞いてくるようになった。
うんざりしながら葵にそのことを話すと彼女は嬉しそうに笑った。
「嫌じゃなかったら、私、行ってみたいな。七瀬のお家」
「嫌だなんて思わないよ!でも、本当にいいの?無理してない?」
「無理なんてしてないよ。誘ってもらえて本当に嬉しい。ねぇ、行ってもいい?」
期待に満ちた笑顔を向ける葵。そんな彼女の嬉しそうな様子を見ていたら、私もまんざらでもなく、そわそわとした気分になった。
何しろ、友達を家に呼ぶなんて初めてのことだったのだから。
「葵ちゃんは何飲む?オレンジジュース、アップルジュース、紅茶、ジャスミンティー、ココア、コーヒー。好きなもの選んでね」
「わぁ、こんなに沢山選べるなんて、まるでカフェみたいですね!」
お母さんは嬉しそうにメニュー表を広げて見せた。そんなもの今までリビングに無かったのに、昨日わざわざ作ったのだろうか。
「じゃあ、ジャスミンティーをお願いします」
「七瀬ちゃんは何がいい?」
「オレンジジュース。それじゃ私たち、もう部屋行くから」
「アップルパイ焼いたから、あとでお部屋に持って行くわね」
アップルパイなんて普段作らないくせに、張り切っちゃって恥ずかしい。
「七瀬のお母さん、素敵な人だね」
「見栄張ってるだけだよ。良く思われたいだけ。飲み物だって、いつもはあんなに置いてないし、アップルパイもわざわざ作らなくていいのに」
「良いお母さんじゃん。私、七瀬のお母さん可愛らしくて好きだよ」
「えー、そうかなぁ」
部屋に通すと、葵はチェストに飾っていた写真の前で立ち止まった。そこに写っているのは笑顔を見せている私と葵の姿。響華祭で一緒に撮ったツーショット写真だ。
「写真、飾ってくれてるんだね」
「うん、せっかくだから飾ろうと思って」
少し前まで、私の部屋にはコンクールで受賞した盾やトロフィー、賞状が飾られていた。まるで自分の証であるかのように、まざまざと並んでいたのだ。けれど、私にとってそれらは逃れられない呪いのように思えてならなかった。
でも、私は響華祭を機にそれらを箱に仕舞う決心をした。私にそんなものは必要ない。私の音楽は、たった一人のためにあるのだから。飾るのは、この写真だけで十分だ。
ドアの向こうで、ノック音とお母さんの声が聞こえた。飲み物とアップルパイを運んで来たお母さんは、早速テーブルに並べながら葵を質問攻めにした。「お家はどこらへん?」「今度ご挨拶に行ってもいいかしら?」「七瀬ちゃんとはいつからお友達に?」「七瀬ちゃんは学校ではどんなふうに過ごしてる?」側で聞いていたら、頬が段々と熱くなっていくのを感じた。
お母さんには、そんなこと知る必要もないし関係のないことだ。せっかく2人で話しているのに、親が間に入って来ないでほしい。
私は堪らずお母さんを引っ張って部屋から追い出した。最悪だ。こんなことなら、お母さんがいない日に呼べば良かった。
私はほっぺたを押さえてしゃがみ込んだ。そんな私の姿を見て、葵はクスクスと上品に笑う。
「もう本当にごめんね、うちのお母さんスイッチが入ると止まらなくて」
「ううん、全然平気。それに、見たことなかった七瀬の一面も見られて何だか楽しい」
「えー、恥ずかしいよ!」
私は今まで、ヴァイオリンのこと以外、何もしてこなかった。そんな私の部屋は殺風景で、可愛らしい小物やヘアグッズ、趣味と言えるような物は何一つ置いていない。お洒落でも何でもなかったこの部屋がいつもより明るく感じるのは、きっと葵がいるからだ。楽しそうに、嬉しそうに笑う葵が隣にいるから。それだけで部屋の空気も簡単に変わってしまう。
彼女はいつも私に光を与えてくれる。時には陽だまりのように、時には清々しい朝日のように。彼女の光を側に感じると私は生きた心地を得られる。もし神様がいるとしたら、彼女と巡り合わせてくれたことに感謝を伝えたい。彼女のおかげで私はヴァイオリンを弾く意味を見出せたのだから。
「そうだ、七瀬。ちょっとお願いがあるんだけど聞いてもらえる?」
「お願い?」
「うん。七瀬のヴァイオリン曲、スマホに録音させてほしいんだ」
「え!?」
「ダメかな……?」
「いいけど、急にどうしたの?」
葵は頬を指でかきながら、小さく笑った。
「前に、音楽科の推薦で試験に落ちた話をしたじゃない?私ね、いざっていう時に緊張や不安で怖くて手が震えちゃうんだ。中学の時、コンクールに何度か出場したことがあったんだけど、当日になると手が震えて、舞台に立った瞬間に頭が真っ白になってしまうの。音楽科の受験の時もそう。練習の時は落ち着いて弾けるのに、本番になるとダメになっちゃう」
「でも、響華祭の時は1人で演奏できたじゃない」
「あの時は、七瀬のヴァイオリンを聞けたから。不思議とね、七瀬のヴァイオリンの音を聞くと気持ちが落ち着くの。ここにいる、大丈夫って、音がそう語りかけてくれるようで安心する。だから、いつでも聞けるようにしたいの。来年、音楽科の編入試験に合格するためにも」
葵が私の音を必要としている。こんな幸せなことはあるだろうか。葵が望むなら、私はいくらでも弓を持つ。私の音は、誰でもない、彼女のためにあるのだから。
「分かった。何の曲がいい?好きな曲言ってよ」
「ありがとう七瀬。それじゃあ、G線上のアリアをお願いしていい?」
「うん、任せて!」
ヴァイオリンを構えると、葵が録音開始の合図を送った。静かに響き始める曲の旋律。この曲に乗せたい想いは、寄り添う心。
葵が言っていたことは私にもよく分かる。舞台に立つと、失敗への恐怖と不安で目をつむってしまいそうになるのだ。同じ演奏家として、その気持ちは痛いほど分かる。でも、それでいい。怖いのは決して自分の心が弱いからじゃない。当たり前のことなんだ。平気だなんて虚勢を張らなくていい、無理に不安を振り払おうとしなくていい。そのままでいいのだ。不安も恐怖も受け入れた等身大のあなただから表現できる。気付いてほしい。あなたの音楽は、もうとっくに人の心を変える力があるのだと。
演奏を終えると葵は満面の笑みで私に拍手を送った。
「七瀬のヴァイオリン、やっぱり素敵だなぁ」
「言ってくれたら私、葵の好きな曲いくらでも弾くよ?クラシック以外でももちろん平気。ポップスとか、知らない曲でも楽譜探して練習するし、何でも言って!」
葵は一瞬きょとんとしたあと、吹き出してけらけらと笑った。
「もー、七瀬ってば、まるで私専属の音楽家にでもなったみたい。でも大丈夫、この曲があれば私は十分だから。それに七瀬は忙しいんだから、もっと自分の練習を優先してよ。コンクールだってあるんでしょ?」
「へ……?」
コンクール。その言葉に、私の笑顔は一瞬で凍りついた。
「私も頑張らなきゃ!今は音楽科の編入試験合格が目標だけど、それはあくまで通過点だし。コンクールで賞を取って、より大きい舞台で演奏できるようにならなきゃ意味がないもの」
「……何で?」
「え?」
「葵は……、何で、そんなに賞が取りたいの?」
彼女はそれを聞くと頬をほんのりと染めて、照れながらはにかんだ。
「憧れている人がいるの。私の家ね、犬を飼ってたんだけど、小6の時にその子が死んじゃって、私はその悲しみをずっと引きずってた。そんな時だったの。その人と、その人の音楽に出会ったのは。両親が連れて行ってくれたコンサート会場で、その人の演奏を初めて聞いて、私は涙が溢れて止まらなくなった。悲しみに寄り添ってもらえたような、そんな気がして。演奏が終わったあとは不思議と心が洗われたような気持ちになったんだ。音楽ってすごい。こんなに人の心を癒す力があるんだって、感動して胸が震えた。私もあの人みたいに、心に響く演奏がしたいって思ったの。それで、両親に頼んで中学に上がってからピアノを始めたんだ。その人は、カッコ良くて、音楽に愛されている天才で、私の憧れの人。私がピアノを始めるきっかけをくれた人。世界でも活躍するような人だから、今の私にはまだまだ遠い存在なんだけどね。だけどいつか、その人と同じ舞台に立って一緒に演奏がしたいの。一緒に、音楽の力を沢山の人に届けたい。それが私の夢なんだ」
そう言葉にした葵の瞳は、希望と情熱の光を宿して遥か遠くを見つめていた。私なんかとは見ている景色が違う、もっと先の未来を。
胸の奥で何かが軋む音がした。それは、デタラメに弾いた弦の不協和音にも似た音だった。その音が耳の奥で段々と大きく膨れ上がる。
脳裏に蘇る、葵と過ごした時間と思い出。それが、不格好に積まれたジェンガのように、ぐらぐらとバランスを崩して傾き始めた。目の前の景色が、また灰色に落ちていく。やっと拾ったと思ったのに、私の存在価値が、存在理由が再び失われていく。
私の音楽は、葵が必要としてくれたから息を吹き返したのだ。彼女が必要としている、それが私の存在価値だと思っていた。
けれど、彼女にとって、ここは夢のための通過点でしかなかった。私の存在は、ちっぽけな点でしかなかったのだ。
私には葵がいればそれで十分だった。昼下がりの第2音楽室で一緒に演奏ができればそれで満足だった。私にとって、葵と過ごしてきた時間は特別で、尊くて、それはまるで宝石のように輝いていて、この夢心地な時間が永遠に続けばいいと思っていた。きっと葵も同じなのだと、そう思い込んでいた。
でも彼女は違った。どんなに可憐な花があったとしても、蝶はいつまでもそこに留まってはくれない。彼女はただ一時、羽を休めただけの自由に舞う蝶だった。根を張ってしまった花はその場から動くことはできない。過ぎ去っていく蝶を、ただ虚しく見上げるしかできない。
じゃあ、残された私はこれから何のためにヴァイオリンを弾けばいい。私の音楽は、また意味を持たない空っぽな音に戻っていってしまうのか。
そう思った途端、胸の奥で何かが崩れ落ちるような、絶望にも似た重くて鈍い音が響いた。夢から現実に戻されたような、そんな思いがした。
葵はその後、音楽科の編入試験に見事合格した。4月、ピアノ科に編入した彼女はその才能を発揮し、みるみる注目を浴びるようになった。人当たりが良く、上品で明るい性格から男女問わず仲良くなり、誰とでも交友関係を築いていた。廊下で彼女の姿を目にした時は、必ず誰かが周りにいるほどだった。コンクールにも大小問わず定期的に出場しているらしい。学校の掲示板に、受賞者として彼女の名前が載る機会が多くなった。編入試験合格を最後に連絡はぱったりと無くなり、あんなに一緒に過ごしていたのが嘘のように、今では彼女が遠い存在のようになっていた。
「相澤さん、これ第2音楽室に戻しておいてくれないかしら?」
秋が深まってきた10月下旬。肌寒い日だった。その日、レポート課題の提出が遅れていた私は、放課後になってようやく書き上げたものを職員室へ持って行った。先生に声をかけられたのはその時だった。手渡されたのはメトロノーム。断る暇もなく、「お願いね」と言われ受け取ってしまったのだ。側面に貼られた第2音楽室というラベルの文字。私は思わず持っていた手に力が入った。
去年、お昼によく訪れていたその場所には、今では授業の時しか行くことがなくなった。彼女は今でも、そこでピアノを弾いて過ごしているのだろうか。私は足どり重く第2音楽室へ向かった。
教室の扉を開くと、そこには誰もいなくて、しんとして静かだった。私はメトロノームを所定の位置に戻してピアノへ視線を向けた。そこに座って演奏していた1年前の彼女の姿が懐かしく蘇る。
「七瀬?」
品のある、おしとやかな声色。その声に、不意に体が反応した。ゆっくり振り返ると、彼女はパッと花を咲かせたような笑みを浮かべた。
「やっぱり七瀬だ!わぁ、久しぶり!偶然だね!元気?七瀬と会うのいつぶりだろう。せっかく音楽科に編入できたのに、ヴァイオリン専攻クラスと関わることあまり無いんだもの。でも私、編入して良かったよ!練習沢山できるし、ピアノ弾くのがどんどん楽しくなってきてね、コンクールでもリラックスして弾けるようになったの。最近はできるだけ沢山コンクールに出場するようにしてるんだ。今年の響華祭はコンクールで参加できなかったけど、来年は高校最後だし、また響華祭音楽コンサートに出ようかと思ってて――」
「何なのよ……」
「え?」
「自慢話でもしに来たの?私が、今までどんな思いで過ごしてきたかも知らないくせに、よくそんな話ができるね」
「七瀬……?どうしたの?何かあった?もしかして、コンクール調子悪いとか?」
「それ、本気で言ってるの?」
「え……?」
「私が、今でもコンクールに出場してるって、本気で思ってるの?」
「違うの……?だって七瀬は――」
「コンクールなんて、もうずっと前から出てないわよ!賞?名声?そんなもの取って何になるのよ!私は葵とは違うの!夢も才能もあるあんたと一緒にしないで!私にはヴァイオリンを弾く理由も、夢も目標も無い!そんな人間が賞を手にしたところで無意味なのよ!もううんざり!こんな思いをするなら、いっそヴァイオリンになんか出会わなければよかった!」
私はそう吐き捨てて第2音楽室を飛び出した。涙で視界が滲む。廊下を目いっぱい蹴って駆け抜ける。
――もうヴァイオリンなんか弾きたくない。学校も行きたくない。レッスンも受けたくない。何もかも投げ捨ててしまいたい。いっそ弾けなくなればいいのに。
私は靴を履き替えることもせず感情のまま正面玄関を抜け、校門の外へと飛び出した。
その瞬間、私は何か強い力に押された。目の前が真っ暗になって、気付いた時には私は道路に横たわっていた。手のひらがひりひりと痛む。砂利が皮膚にくっついて所々血が滲んでいた。ゆっくり体を起こすと、ぼんやりとしていた雑音が段々と鮮明になってきた。後ろを振り向くと、電柱に叩きつけられたバイクが無惨に転がり、その側にはヘルメットを被ったまま動かない人が横たわっていた。呼吸が途端に荒くなる。恐る恐る視線をずらしていくと、喉が締め付けられたような感覚に覆われ、息が止まった。
横たわっている葵の姿。その右腕が無残な形に変わり果てていた。混乱する頭の中。意識が飛ぶ前、背中に感じた押し出されるような強い力。周りが騒然としている中、私は声も出ず、ただただ、彼女の綺麗な黒い髪が、じわじわと赤く染まっていくのを見ることだけしか出来なかった。
葵が一命を取り留めたと聞いたのは、それから3日後のことだった。ずっと息が詰まったような心地で過ごしていた私は、その時ようやく深く息を吐くことができたように思う。体の力が抜けて、私はその場にしゃがみ込んだ。葵が生きている。それだけを噛みしめるように、私は何度もそれを心の中で繰り返した。
けれど、お見舞いに行くことは出来なかった。私にそんな資格なんてない。あんな突き放すようなことを言っておいて、どの顔を下げて行けばいいというのか。私の顔なんて見たくもないだろう。きっと仲の良いクラスの友達がお見舞いに行っている。
それでも、葵の顔が見たいと思っている自分がいた。この目で、葵が生きていると確かめたかった。一目でいい。それだけでいい。ほんの少しだけ――そう思って、私は誰にも気づかれないように、そっと病院へ足を運んだ。
けれど、私は病室の前で立ち尽くした。そこで目にしたのは声を上げて泣いている葵の姿だった。葵の両親が彼女を抱きしめて一緒に泣いていた。「手が、私の手が」と、彼女は悲痛な声を何度も上げながら泣きじゃくっていた。
脳裏に蘇る事故直後の光景。あの時、視界に映った彼女の無残な右腕がフラッシュバックする。私は耐えきれず逃げるように病室から離れた。
たとえ腕が完治しても、指先の感覚は以前と同じようにはいかないだろう。ピアノ奏者にとって、何よりも大切に扱わなければならないのが自身の両手だ。研ぎ澄まされた、繊細で美しい指の感覚。ピアノ奏者の命ともいえるその指を、私は、彼女の夢ごと壊してしまった。
夢を奪われ、絶望の淵に沈んでいる彼女に顔向けなど出来るはずもない。私は彼女に取り返しのつかないことをしてしまったのだ。
葵が入院して1ヶ月が経とうとした頃だった。その報せは何の前触れもなく、突然学校で聞かされた。
葵が病院の屋上から飛び降り、亡くなったという。
私の視界は、どず黒く重たい闇に覆われた。泥を飲み込んだような気持ち悪さ。胸やけがして、食べた物が込み上げてくるような感覚に覆われた。背中がやけに冷たく感じて、手が小刻みに震えているのが分かった。
ああ、私のせいだ。あの時、あと少しタイミングが違っていれば、私が道路に飛び出さなければ、足を止めていれば。そんな思考がぐるぐると頭を駆け巡る。悔やんでも悔やんでも時間を巻き戻すことなんて出来なくて、ただただ胸が潰れていくような感覚が残り続けていた。
私はその日から、親友を自殺に追い込んだという後悔に苛まれながら生きている。彼女の夢を絶ち、絶望に追い込んだ張本人が夢も目標もないくせに、のうのうとヴァイオリンを弾き続けているなんておかしな話だ。いっそ弾けなくなればいい。そう思って自分の手首にカッターを突き付けたこともあった。
けれど、弾けなくなったその先を考えると手が震えた。ヴァイオリンしかやってこなかった私にとって、弾けなくなるということは唯一のアイデンティティを失うようなものだった。そう思ったら、突き付けた刃をそれ以上先へ進めることが出来なくて、結局、またモノクロの世界で空っぽの音を奏で続けるしかなかった。
親友をこの手で失い、ヴァイオリンという楽器にただしがみつき、投げ出すことも、向き合うことも出来ずに、あの日から、私の時間はずっと止まったままなのだ。




