第1話
あぁ、またこの夢だ。空に広がる澄んだ青。降りそそぐ陽の光は、無機質なコンクリートに反射して足元の白を際立たせる。目の前には背を向けて立つ彼女の姿。艶のある漆黒の長い髪が風にあおられて優雅にたなびく。薄い患者衣が風に揺れてかすかに音を立てた。
一歩、また一歩、柵へと近付いていく彼女の姿に私はめいっぱい手を伸ばす。けれど、私はそこから動けない。名前を呼びたいのに、その先はダメだと大声で叫びたいのに、どんなに振り絞っても声が出せない。
――待って、行かないで!お願い戻ってきて!
柵を乗り越えた彼女が小さく振り向いた。彼女の口元がわずかに動く。「七瀬」と私の名前をこぼしたあと、強い風が彼女の言葉をかき消した。柵から手が離れると、彼女の体はゆっくりと重力に引かれ、私の視界から消えていった。
肩がビクリと跳ねたのが分かった。耳の奥まで届く心臓の鼓動。うす暗い部屋の天井が私の視界に広がる。じっとりと汗ばんだ肌。張り付く自分の髪が気持ち悪い。浅い呼吸を感じた私は、ゆっくりと息を吸って、吐いた。
また、あの夢。彼女がこの世を去って、もう半年になる。繰り返し見るあの夢は、きっと私への罰なのだろう。
降り続く雨音を背に私はチェストへ視線を向けた。そこには写真立てが一つ、長いあいだ伏せて置いてある。その写真には、ヴァイオリンを手にしている制服姿の私と、同じように眩しい笑顔を見せている私の親友、野々村葵の姿が写っていた。
彼女は去年の冬、入院先の病院の屋上から飛び降りて、この世を去った。
食卓テーブルに並んでいる朝食に私は今日も溜め息を漏らした。お洒落なワンプレートごはん、といったところだろうか。お母さんはやたらと影響を受けやすい人だから、これもきっとテレビで紹介されていた番組の影響なのだろう。確かに見た目は華やかだけれど、品数が多くてとても朝から食べられる量ではない。隣に座っているお父さんも、もういらないと言わんばかりに料理を残して、新聞を読みながら締めのコーヒーを飲んでいた。私も、朝はヨーグルトだけでいいくらいだ。
「あら、七瀬ちゃんもういいの?」
「うん、ごちそうさま」
「あっ、七瀬ちゃん今日は……」
リビングを出ようとした私をお母さんの声が引き留める。その言葉の先は見当が付いていた。
「レッスンでしょ。分かってる」
「そう……。なら、いいの」
ヴァイオリンを始めたのは5歳の時だった。きっかけは両親と一緒に見に行った市の演奏会。私はそこでヴァイオリンの演奏と出会った。お母さんはヴァイオリンに興味を示した私に大変気を良くしたようで、専属の講師を家に招いてレッスンを受けさせてくれた。最初は遊び感覚で楽しく、先生が家にやって来るのを今か今かと待ちわびていた時期もあった。
それが成長するにつれてコンクールという目標にすり替わり、次第に賞を獲るための練習へと変わっていった。
幸いなことに、私はそれなりの実力が備わっていたようで、何度か入賞を果たすこともあった。その時は両親も先生もとても喜んでくれて私自身も嬉しかった。
けれど、今度は更に上の賞を狙いなさいと、目標がどんどん高くなっていく。一度獲った賞は最低ラインに格下げされ、ただの通過点になっていった。両親と先生からの期待は膨らむばかり。上を見上げれば、いくらでも才能に溢れた上手い人がいる。その人たちに追い付いて、追い越して、私は先の見えない頂上を目指していかなければならなくなった。
今の私に、それが出来るとは思えない。もうやめよう。そう何度も思うのに、両親に言い出せない私は、なんて小心者でズルい子供なのだろう。
私は一生許されない罪を犯したというのに。
「相澤、進路希望調査まだ出てないが、今週出せそうか?」
ホームルームが終わった直後、担任の先生に呼び止められた。「えっと……」と思わずどもると、先生の表情が微妙に曇って、私は思わず視線を逸らしてしまった。
「進路のこと、悩んでいることがあるなら相談に乗るぞ?」
「いえ……、もう少し、考えたくて……」
「そうか。ただ、3年の1学期ももうすぐ終わるし、そろそろ方向性を具体的にした方がいい。どうするか親御さんとちゃんと話すんだぞ」
「はい……」
進路希望調査は未だ白紙のままだ。両親は私がヴァイオリニストを目指すものだと思っている。以前は私もそう思っていた。むしろ、私にはそれしかなかった。
幼い頃から他のことには目を向けず、ひたすらヴァイオリンだけに打ち込んできた。同年代が楽しむような娯楽にも触れず、話題にも乗らず、恋愛だってしてこなかった。当然、クラスの子と話が合うはずもなく、私はいつも一人だった。
けれど、そんな私にもたった一人、心を許せる親友がいたのだ。彼女がいたから続けられた。なのに――。
私は昇降口で、降りしきる雨を眺めた。雨が私の憂鬱な気分を加速させる。溜め息をついて鞄の中を探ると、入れたはずの折りたたみ傘が無いことに気付いた。あぁ、教室の机にかけて置いたままだ。そう思い出す。肩を落とし、仕方なく3階へ引き返した。
教室の前に立ち、ドアに手を伸ばした――その時だった。
「相澤さんってやっぱりプロ目指すのかな」
「そうなんじゃない?だから卒業後も音大か留学ってところじゃないの?いいよね、金持ちの家は。才能もあって決まった道が用意されててさ」
「そういえば、あの子も才能あったって話じゃん」
「え、誰のこと?」
「ほら、去年、自殺したっていうピアノ科の……野々村さん。あの子、相澤さんと仲良かったらしいよ」
「そうなの?でも何で自殺なんか……」
「噂で聞いたんだけど、彼女、事故に遭って利き腕が再起不能になったらしいよ。それで自暴自棄になって病院の屋上から飛び降りたんじゃないかって。遺体の近くにバラバラに壊れたスマホがあったくらいだから、生身の体は相当悲惨な状態だったんじゃないかな」
「えぇ、やだぁ想像したくない」
息が詰まった。伸ばした手を胸におさめ、私は気持ちを覆うように、ぎゅうっと握り締めた。結局、教室に入ることは出来なかった。
正面玄関で、一向に止む様子のない雨の景色をぼんやりと眺める。先ほどのクラスメートの言葉が脳裏に蘇った。
――事故、再起不能、自暴自棄。
私は唇をぎゅっと結び、その言葉をかき消すように校舎の外へ駆け出した。
肌に打ち付ける雨粒。髪が段々と湿っていく。肌を伝って流れる水滴。足元はあっという間に水分を含み、地面を蹴る度にぐちょりと気持ち悪い感覚をまとっていく。雨足は次第に強くなり、私の足も徐々に重くなっていった。
高架下に差しかかった途端、走り続けていた私の足は止めざるを得なかった。目の前の道が冠水していたのだ。遠回りになるけれど迂回するしかない。
私は引き返して別の道を探した。たまたま目に入った道を勢いのまま走り抜ける。普段通ることがない知らない道。そこは細くて人通りがなく、ただただ降りしきる雨の音と、自分の走る音と息遣いだけが耳に反響した。
立ち並ぶ見慣れない家、知らない建物。無機質な建築物が冷たくこちらを見下ろしているように思えて、圧迫感と焦燥感で胸がざわつく。教室で聞いた会話が、また耳の奥で聞こえて来そうで、私はぎゅっと目をつむった。このまま進めばきっとどこか知っている道に出られるはずだ。そう思ってひたすら地面を蹴った。
細い通りを抜けると、途端、ふわりと温かいオレンジ色の光が視界に映った。ひっそりと佇む小さなお店の明かり。白い外壁のそのお店は、入り口に小さな屋根が張り出している。レトロな照明で照らされた木製の扉。木枠の小窓はアーチ形に張り出していて、花壇の花がその出窓を一層クラシックに演出していた。まるで、おとぎ話に出てくるお家のような雰囲気を醸し出している。
私は何かに引き寄せられるように、そのお店へ足を向けた。
――ごめんなさい、少しだけ。
私は心の中でそう呟きながら屋根の下に身を寄せた。ちょうど照明の近くまで立つと温かみのある淡い光が体に降り注いだ。なぜだろう。先ほどまで感じていたざわつきが次第に晴れて肩の力が抜けていく。緊張感から解放された私は、思わず息を吐きながらその場にしゃがみ込んだ。
その時、ふと、目の前に人の気配を感じた。見上げると、傘をさした学ラン姿の男の子がこちらを見下ろして立っていた。私の体は再び緊張をはらんだ。同い年くらいだろうか。背の高い短髪のその男の子は、無表情のまま、じっとこちらを見つめていた。切れ長の、鋭い目つきが冷たい印象を漂わせていて――少し、怖かった。
すると、男の子はふいと顔を背け、何もなかったように横切り、そのまま歩き去って行った。しゃがんでいたから余計怪しまれたのかもしれない。
ホッとして空を仰ぎ見る。降り止む気配のない雨。何で今日に限って折りたたみ傘にしてしまったんだろう。あの時、教室に入って取りに行けば良かったかもしれない。そう思ったけれど、たとえ時間を巻き戻せたとしても、結局私は同じ選択をしてしまう気がする。
溜め息をひとつ吐いて、私はポケットからハンカチを取り出した。ほんのりと湿っているけれど、ないよりはマシだ。そう思いながら顔や髪を拭った。
それにしても、ここはどの辺りだろう。私はそう思い、スマホを取り出して位置を確認した。普段、学校が終わると寄り道もせず真っ直ぐ家に帰っていたので、決まった道以外を通ったことがなかった。大通りから少し外れると、こんなにも周辺の雰囲気が変わるものなのか。
でも、このお店だけは落ち着いた雰囲気に包まれている。そう思うのは外観のお洒落さもあるかもしれない。こんな所にこんなレトロなお店があるなんて全然知らなかった。
スマホが現在地を知らせる。どうやら道は大きく逸れてはいないらしい。少し歩けば大通りに合流できそうだ。雨の勢いが落ち着くまでもう少しここにいたい。私は膝を抱えて小さくうずくまった。
途端、入り口の扉が開き、チリン、と透き通る可愛らしいベルの音が響いた。咄嗟に振り返ると、そこには深緑色のエプロンをまとった高身長の男の子が立っていた。
「あっ……!」
先ほどの鋭い目つきの男の子。
「中に入れって、店長が」
彼に促されて店内に入ると、ふわりと香ばしいコーヒーの匂いが鼻孔をくすぐった。店内には木製のテーブルと椅子がいくつか並べられている。入り口付近に設けられたカウンター席には5席、壁際に3席、窓際には2人掛けのソファが2つ、互いに向かい合うように席が配置されていた。雑貨屋かと思っていたけれど、どうやらこのお店はカフェだったらしい。
店内に流れる、ゆったりとしたBGM、すずらんのような形をした柔らかな照明、壁に掛けられた絵画、年代を感じさせる振り子時計。外観もレトロ調だったが、内装も古風で落ち着いた装飾に包まれており、何だか安らぎを感じる。
「雨、急に強くなりましたね」
カウンターの奥から眼鏡をかけた優しそうな風貌の男性が現れた。白のワイシャツに黒のカマーベストをまとい、襟元はクロスタイを巻いてカチッと着こなしている。後ろで一つに結った髪も清潔さを漂わせていた。彼が穏やかに微笑むと、口元に年相応の皺が寄った。おそらく、この人が店長さんなのだろう。
「あの、すみません。お店の屋根を借りて勝手に雨宿りしてしまって」
「いいんですよ。外だと体が冷えてしまいます。今、ちょうどお客さんもおりませんし、雨が落ち着くまでどうぞゆっくりしていって下さい」
そうは言っても、湿った制服のまま席に座るのは忍びない。それに、目つきが鋭い男の子が先ほどからこちらを睨んでいるように思う。私はその視線から逃れるように、店内を眺めるふりをして奥のスペースへ足を動かした。
途端、私はそれを目にして思わず短く息を吸った。店内に入った時、ちょうどカウンターの仕切りで遮られていて気が付かなかった。
「それ、まだ使えるんですよ。よろしければ、弾いてみられますか?」
壁に沿って配置された木目調が美しいアップライトピアノ。レトロ調のお店に調和して違和感なく上品に馴染んでいる。けれど、私の胸はぎゅっと締まって心の奥に痛みが走った。脳裏に葵の姿がよぎる。私は唇を噛み締めると踵を返した。
「すみません、私やっぱり帰ります!」
私はお店を飛び出し、容赦なく打ち付ける雨の中、逃げるように走って家に帰った。
その日のレッスンは、それはもう散々だった。もともと去年から不調続きではあったけれど、今日はいつも以上に音が乗らなかった。不調の原因は分かりきっている。
レッスン後、1階へ下りるとリビングからお母さんと講師の先生が話している声が聞こえた。
「先生、七瀬ちゃんの演奏、どうなんでしょうか?大事な時期なのにコンクールも辞退しちゃうし、去年からずっと元気も無くて……」
「正直、このままでは厳しいです。技術面は何とか巻き返せるかもしれませんが、今、七瀬さんの音には全く気持ちが乗っていない状態なんです。気持ちがついて来ていない、そんな状況です」
「やっぱり、去年のこと今もまだ引きずっているんだわ……」
「例の、仲の良かったご友人のことですか?」
「えぇ、その子も音楽を――ピアノをやっていたんです。七瀬ちゃんととても仲が良くて、家に遊びに来てくれたこともあったんですよ。本当に良い子だったんです」
「私もレッスンの合間に、七瀬さんからその子のことを少し聞いたことがあります。その子の話をしている時の七瀬さん、目が輝いていてとても楽しそうでした。あの時が今までで一番、音も伸びていて、彼女の才能が開花した瞬間だったように思います」
「進路のこともありますし、元気になってほしいんですけれど……」
「そうですね。私としても七瀬さんには、もっと大きな舞台で活躍してほしいですし、そうなれる才能があると私は思っています。なので、私もできるだけのことはいたします。まずは七瀬さんの心の不調を改善していくことを考えていきましょう」
「えぇ。よろしくお願いします、先生」
自分の部屋に戻ると一層部屋の中が暗く感じた。けれど、明かりをつける気にはならなかった。私はベッドに転がり、枕に顔を埋めた。
心の不調。まるで私が悲観に溺れて沈んでいるような言い方だ。この気持ちはそんな簡単なものじゃない。そう、例えるなら棘だ。真っ暗闇の中、鋭利な棘が私の背中に深く食い込んでいる。この痛みは私への罰なのだ。
大きな舞台なんて望んでいない。もう、これ以上私に期待しないでほしい。ヴァイオリンから逃げる勇気も、向き合う勇気もなく、私はもうずっと棘に絡まった底なし沼でもがき続けている。
「葵……」
私は彼女の名前を呟いて小さくうずくまった。
「ねぇ聞いてー!このあいだ載せたカフェの写真、閲覧数伸びて反響すっごく良いの!」
雨が降る朝、登校していると、じめじめとした気分を吹き飛ばすような女子生徒の弾む声が後ろから聞こえた。近年、SNSに写真を載せるのが流行っているらしいことは私も何となく知っている。そうやって不特定多数の人たちに見てもらうのが楽しいらしい。私には縁遠い話だ。そう思い、会話を聞き流しながら歩みを進めた。
「あのラテアートのやつ?」
「そうそう!もはや芸術だよね。マスターもすっごい紳士的でさ、見た目も落ち着いた大人って感じで素敵なの」
「えー何それ、私も気になるー!お店、何て名前だっけ?」
「カフェ・ド・ルリエ。学校からわりと近くにあるんだけど、隠れ家的なカフェだからちょっと見つけにくいんだ。これ、お店の外観の写真。レトロでめっちゃ可愛いでしょ?」
「え、待ってここ幽霊カフェじゃない!?」
「え?幽霊カフェ?」
「うん……、この間ね、オカルト研究部の男子が学校の近くに幽霊カフェがあるって話してたの。なんでもそのカフェは、あの世とこの世に繋がる入り口があって、お客さんに会いに死者が姿を現わすとか何とか」
「えー、嘘だぁ。だって全然怖い雰囲気もなかったし、他のお客さんも普通だったよ?本当にこのお店のことなの?」
「絶対そうだよ。学校近くでこんな見た目のお店他にないでしょ。確か、店内には古そうなピアノが置いてあるって聞いたけど」
「確かに置いてあるけど……。でもただの噂でしょ?オカ研の情報ってほとんど胡散臭い話ばっかじゃん」
私はそれを耳にした途端、足が止まった。ピアノが置いてあるレトロなカフェ。間違いない。昨日、私が雨宿りした、あのお店のことだ。
「それがさ、実際に体験した人がいるらしいのよ」
「え、ヤダ、怖いんだけど」
「確か、オカルト研究部の子の叔父さんの知り合いだったかな。その人が、もう何年も前に体験した話でね、結婚前に病気で亡くした婚約者と、そのカフェを介して再会を果たしたらしいの。その人、婚約者が亡くなってからずっと時間が止まったような人生を送ってたらしいんだけど、そのカフェのおかげで気持ちの踏ん切りがついて、今は別の奥さんと結婚してお子さんと幸せに暮らしてるって話だよ」
「へぇ、なんだ。怖い話かと思ったけど、意外と素敵な話じゃん。その死者って、つまり自分が知ってる人ってこと?だったら私も会ってみたいなぁ」
「えー?誰に?」
「昔、私がまだ小さい頃に死んじゃったおばあちゃん!私こんなに成長したんだよー!って見てほしい」
「いいね、おばあちゃん喜びそうじゃん!」
話をしていた彼女たちが、足を止めた私を追い抜いて行く。死者が現れるカフェ。その話が本当なら、私はそこでもう一度、葵と会うことができるのだろうか。もし、会えたとしたら私は……。
確か、この辺りだったはず。私は放課後、地図アプリを見ながら記憶を辿ってお店を探した。
路地を抜けると、昨日訪れた時と同じ白い外壁のお店がそこにあった。オレンジ色の照明がふんわりと玄関を照らしている。連日降り続く雨で辺りは湿気を帯び、じめついた空気が漂っていたが、そのお店だけは優しく包み込むような温かさを纏っていた。
私は傘の柄をぎゅっと握ると玄関へと足を進めた。お店の上部に施された袖看板を見やる。蔦のようなカーブを描いた装飾に、金具で吊るされた木製の看板。昨日はそこに書いてある文字にまで意識が向かなかった。カフェ・ド・ルリエ。それが、このカフェの名前だ。
チリンと小高いベルの音が響くと、落ち着いた男性の声が私を出迎えた。
「いらっしゃいませ」
店内に香る焙煎されたコーヒーの匂い。一歩足を踏み入れると、耳元で騒音のように聞こえていた雨音は鎮まり、まるで別世界に来たような感覚を覚えた。
「どうぞ、お好きな席へお座りください」
そう言ってカウンターから私に笑顔を向けてくれたのは店長さんだった。今日は何人かお客さんが座っている。カウンター席に、間を空けて老年の男性が1人と、若い女性が1人、ソファ席に年配の女性が3人。私は店長さんにおずおずと頭を下げ、空いている壁際の席に座った。今日は、あの目つきの怖い男の子はいないらしい。正直、会わずに済んでホッとした。
「こちら、メニューでございます」
店長さんがお水とメニューを運んで来ると、私は膝に置いた手をぎゅっと握り締めて顔を上げた。
「あっ、あの!昨日は、失礼な振る舞いをしてしまって、すみませんでした!」
彼は、一瞬きょとんとした表情を見せたあと、再び柔らかく微笑んだ。
「いえいえ。どうぞお気になさらずに。私どもは全く気にしておりませんので、お客様もどうぞご安心ください。それよりも、またお越しいただけて嬉しいです。ご来店ありがとうございます」
「実は、その……、聞きたいことがあって――」
言いかけると、カウンターからベルの呼び鈴が鳴った。どうやら会計を待つお客さんが鳴らしたようだ。彼は返事を返したけれど、私は会計のお客さんを待たせるのが心苦しく思えて、そちらを優先してもらうよう伝えた。
「すみません。では後ほどお伺いしますので、少々お待ちください」
そう言ってレジへ向かう彼を見送り、私はメニュー表を手に取った。書いてある文字の羅列に私は思わず手を止めた。
――しまった、どうしよう。
実は、私はコーヒーが苦手なのだ。昔、それは小学生の時だった。家でお父さんがコーヒーを飲んでる姿をよく見ていたから、どんな味がするのだろうと口にしたことがある。ミルクも砂糖も入っていないブラックコーヒーは、小学生の舌には刺激が強過ぎた。あまりの苦さに私は耐え切れず盛大に吐き出してしまった思い出がある。それからというもの、コーヒーの味には苦手意識があって飲むことを避けてきた。コーヒーの香ばしい香りは好きだけれど、どうにも飲むには気が引ける。
そうは言っても、席に座ったからには何か注文しなければいけない。メニューには色んな名前のコーヒーが並んでいた。普段コーヒーを飲まない私にとっては、どれが何なのかさっぱり分からない。一番苦くないコーヒーを選んで、ミルクと砂糖をめいっぱいお願いするしかない。
そう思いながらページを捲ると、ソフトドリンクの文字が目に入った。隣には軽食も載っている。種類は限られるが、コーヒー以外も頼めることに安心して焦りがふっと和らいだ。
最後のページを捲ると私は再び手を止めた。そこに載っているメニューは真ん中に一行のみ。その文字の表記が、これまでのフォントと明らかに違う。フォントというか、表記の仕方だろうか。何というか、少し宙に浮いて見える。
よく、目の錯覚を利用した表現方法がある。確か、そういうのをトリックアートと言っていたと思う。メニューに触れてみても何もない。これは、ただの印字された紙だ。よく出来ているなと思わず驚いた。表記が他と違うということは、きっとお店が推しているメニューなのだろう。私は、何だかそのメニューが妙に気になってしまった。
「お待たせいたしました」
会計を済ませた店長さんが戻ってきた。私は先ほどのメニューを指差して尋ねてみた。
「あの、これ、どんな飲み物なんですか?」
彼は一瞬、不意を突かれたような表情を見せると、また穏やかに頬を緩ませ私に笑顔を向けた。慈しむような優しい笑みだ。
「恐れ入ります。そちらのメニューは、ただ今お出しすることが出来かねます。大変申し訳ございません」
「あっ、いえ!大丈夫です。ただ、ちょっと他と違った表記だったので気になっただけなんです」
「左様でしたか。そちらのお飲み物は、ご提供できるお時間が限られた特別なメニューでございます。ですが、お客様もいずれ、ご賞味いただける機会が訪れるかと存じますよ」
つまり、期間限定メニューということだろうか。今日は逃しても通い続けていれば、いずれ味わえる日が来ますよ、と、そう伝えたいのだろう。お客さんに対する配慮と巧みな言葉選びに思わず感心してしまった。
私はページを戻してソフトドリンク欄を指差した。
「じゃあ、ホットミルクをお願いします」
「かしこまりました」
数分待つと、注文したホットミルクが運ばれてきた。さっそく一口飲むと、そのまろやかな味わいに驚いた。口当たりがよく、ほんのりと甘味を感じる。とても飲みやすくて美味しい。陶器にも店長さんのこだわりを感じた。手に馴染む丸みを帯びた形をしていて、艶のある濃紺色のカップとミルクの純白とのコントラストがまた素敵だった。思わず、ふうっと息が漏れ肩の力が抜けた。このお店は何だか不思議な心地に包まれる。ふわりと立ち昇る湯気を眺めていると、時間がゆっくり流れているように感じた。
チリン、と入り口のベルが鳴り、ふと辺りに目を向けると、いつの間にか店内には私ひとりだけになっていた。今、私だけがこのカフェの空気を独り占めしている。そう思うと少しだけ胸に優越感が湧いた。
けれど、視界の端にピアノが映った瞬間、その心地良さが一気にかき消された。
そうだ、もう一度このお店に訪れたのには理由がある。あの噂が本当なのか確かめたい。そう思って私は来たのだ。
残りのミルクを飲み干して、私はレジへ向かった。
「350円のお返しでございます」
店長さんの曇り気のない穏和な微笑み。私は何だか胸の辺りがざらついて、迷いが生じてしまった。いきなり、「ここは死者と会えるカフェですか?」なんて聞いたら、嫌な顔をさせてしまうんじゃないだろうか。せっかく雰囲気の良いお店なのに、そんなことを言って気を悪くさせたらどうしよう。そう思ったら喉の奥がぎゅっと苦しくなって、急に言葉が詰まってしまった。
やっぱりやめよう。もし違っていたら私も変な目で見られてしまう。普通に考えても、死んだ人ともう一度会うなんて、そんなこと出来るはずがないのだ。
私は俯きながら扉へ足を向けた。
「お客様」
呼び止める彼の落ち着いた声に、私は温かくも不思議な空気を感じて振り向いた。
「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか?」
「え?は、はい……」
「お客様は、過去に何か、心残りがおありではございませんか?」
心臓がどくんと大きく波打った。ごくりと喉が鳴る。小さく開いた口がわずかに震え、私は唇をぎゅっと結んだ。全身の血が引いていくような感覚。鼓動が段々と早くなっていくのが分かる。いきなりの問いに、私は戸惑いを隠せなかった。
「な、何で……」
「あぁ、決してお客様を困らせようとしているわけではございません。ただ、お客様があのメニューをご覧になったようでしたので」
「あの、メニュー……?」
「えぇ、メニュー表の最後のページでございます。そのページを指して、お客様は私に、どういった飲み物なのかと尋ねられました。ですが、そこには本来、何も書かれていないのです。お客様がご覧になったメニューは、強い心残りを抱えている方にしか現れない特別なメニューなのでございます」
強い心残り。そう、私には強い心残りがある。半年前からずっと心に消えずに渦巻いている心残りが。
私はピアノが置いてある奥のスペースへ視線を向けた。ここからでは、ちょうどカウンターの仕切りで隠れて見えない。でも、もう脳裏に焼き付いてしまって壁越しでもハッキリとそのピアノの存在を感じる。
「死者と、会えるカフェ……」
気付いたら言葉を漏らしていた。
「お会いしたいと思う故人様がいらっしゃるのですね」
彼の瞳が私を真っ直ぐ捉える。緊張と不安と期待が入り交じって私の心臓の音はずっと耳元で鳴り続けていた。私は息を吐きながら、ゆっくりと口を動かした。
「噂で、聞いたんです。ここは、あの世とこの世に繋がる入り口があって、死者ともう一度会えるカフェだって。それは、本当なんですか……?」
彼はしっかりと頷いて答えた。
「えぇ、おっしゃる通りです」
思わず息を呑んだ。あの話は本当だったのだ。
「ですが、どなたでも可能なわけではございません。お会いできるか否かは条件がございますので」
「条件?」
「はい。まず前提として、強く心残りを抱いているお客様にしかご案内ができません。その度合いはこちらのメニューで判断いたします。先ほど申し上げたように、特別なメニューが見えたお客様は条件を満たしたということでございます」
「店長さんも、その文字が見えているんですか?」
彼が開いたメニュー最後のページ。そこには、先ほど見た時と同じように宙に浮いた文字が見えている。彼は微笑みながら眉を下げて首を振った。
「残念ながら、私には見えておりません。私にできることは、お客様をご案内することだけでございます」
「じゃあ、もし私が見えているフリをして嘘をついていたらどうするんですか?」
「問題には及びません。彼なら一目で分かりますから」
「彼?」
店長さんがカウンターの奥に向かって、「巡くん」と声をかけた。すると、奥から深緑色のエプロンを身に付けた長身の男の子が姿を現した。目つきの鋭い、黒髪の男の子。思わず、「あっ」と小さく声が出た。今日はいないと思っていたけれど、カウンターの奥にいたらしい。どうにも苦手で、私は彼と目が合うと反射的に肩をすくめてしまった。
「念のため、お客様のお言葉を巡くんに確認させていただきました。お客様は確かにこのメニューが見えていらっしゃいます。さて、もう一つの条件でございますが、それは故人様のご意思によります」
「故人の、意思……?」
「えぇ。亡くなられた方からの申し出があったか否かです。お客様と同様に、故人様も心残りがあり、もう一度お会いしたいと思っておられた場合、初めて条件が満たされるのでございます」
「亡くなった人の意思って、どうやって確認するんですか?」
「恐れ入りますが、これ以上詳しいことは申し上げられません。ただ、彼ならば、そういったことが可能なのです」
巡くんと呼ばれていた彼は、相変わらず無表情というか不愛想というか、店長さんとは真逆で全然笑顔を見せないし喋らない。本当に、彼にそんなことが出来るのだろうか。
「お客様、改めてお伺いいたします。故人様と、もう一度お会いすることをお望みでいらっしゃいますか?」
会える条件は、お互いが会いたいと願っていること。もし葵がそう思っていなければ、私がどんなに願っていたとしても叶わない。これは独りよがりの願いかもしれない。だって私は、葵に取り返しのつかないことをしてしまったから。それがずっと心残りだった。だから、もし会えるのなら、叶えられるなら葵に会いたい。会ってもう一度話がしたい。
私はぎゅっと目をつむり震える手で制服の裾を掴んだ。
拒絶されるかもしれない。怖い。けれど。
「会いたいです……。もう一度、会いたいです!」
顔を上げて、はっきりと店長さんへ伝えた。その言葉を受け、彼は穏やかな微笑みを頬に乗せて丁寧にお辞儀をした。
「かしこまりました。そのご依頼、承ります」
すると、巡くんが一歩踏み出してペンと紙を差し出した。
「確認するから、相手の名前と、あんたの名前と電話番号書いて」
私は受け取って名前と電話番号を書き記し、おずおずと紙とペンを彼に戻した。店長さんが続けて言った。
「念のため、もう一度お伝えいたしますが、故人様のご意思が無かった場合、このご依頼は取り止めとさせていただきますので、その点、ご了承ください。結果は3日後にこちらからお知らせいたします。それまでもうしばらくお待ちください」
「分かりました。よろしくお願いします」
結果は3日後。葵は私に会いたいと思っているだろうか。
絶え間なく降り続く雨空を見上げ、私はわずかな期待と不安を胸に抱きながらお店を後にした。




