プロローグ
「洋一くん、またあなた漢字のテストを白紙で提出したわね」
放課後の職員室で、国語教師である沢崎美幸は心配そうに目の前の生徒を見つめた。
だが、当の本人である洋一は鼻歌まじりにそっぽを向いている。テストの事など、どこ吹く風と言った感じだ。
「あなたは、やれば出来る子なの。その事は先生が、よーく知っている。だから、一緒に頑張りましょ。そうだ、これから一緒に漢字の勉強を……」
「悪いけど、俺、帰るから」
「あ、待って!」
美幸の話を一方的にシャットアウトし、洋一はそのまま職員室から出て行ってしまった。
差し伸ばした手をゆっくりと下げ、美幸は深い溜息をつく。
困ったわ。一体どうしたらいいのかしら……。
今年の春から、この聖園中学校に国語の新任教師として着任した美幸。優しく綺麗な容姿をした彼女は生徒からの人気も高く、授業も多少突っかかる所はありながらも、なんとか滞りなく進んでいた。そんな順風満帆に見える彼女だったが、一つだけ悩みの種があった。それが、あの高橋洋一と言う生徒の事である。
洋一は、美幸が行う漢字の書き取りテストを毎回白紙で提出してきた。他のテストは、常に高得点の成績優秀な彼が、何故漢字のテストに限ってこのような事を行うのか。もしかしたら、自分は嫌われているのだろうか? 彼女は頭を悩ませていた。
「全く、困った生徒ですな」
美幸の背後から、意地悪そうな顔をした男が姿を現した。彼女と同じ国語教師である大岩晴彦だ。大岩は銀縁メガネを光らせながら、美幸の横に立った。
「教師に対して、あのような反抗的な態度。全く持って許せませんな。これは、内申書に響かせねばなりませんぞ?」
だが、美幸は首を横に振る。
「いえ。彼は本当は優しい子なんです。ただ、ちょっとだけ意地を張っているだけなんです。ちゃんと話し合えば分かってくれるはずですわ」
美幸の言葉に、大岩は目を細める。
「沢崎先生。お優しいのは良い事ですが、生徒に舐められると言うのはどうかと思いますぞ? ああ言う反抗的な態度を取る生徒は、一発ガツンと注意してやらねば。そうだ、どうです? この後、食事でもしながら教育について語ると言うのは? 私、美味しい店を知っているので……」
「ごめんなさい。この後、生徒と約束がありますので」
するりと大岩の脇をすり抜け、美幸は職員室から出て行く。
誘いを断られ、一人残された大岩を嘲笑する声が辺りから聞こえてきた。大岩は、赤面しながら慌てて逃げるように自分の席へと戻った。