第3話 図書室での再会
放課後の図書室は、いつものように静寂に包まれていた。夕方の陽射しが窓から斜めに差し込んで、本棚の間に長い影を作っている。埃の粒子が光の筋の中でゆらゆらと舞っていて、なんだか幻想的な雰囲気だった。
窓の外では桜がそよ風に揺れて、時折花びらが窓ガラスを軽く叩いている。ぽん、ぽんという小さな音が、図書室の静けさの中で響いていた。私は英語の宿題をやるために図書館にやってきたのだけれど、なかなか集中できずにいた。
翔太のことばかり考えてしまうからだ。昨日隣の席になってから、彼のことが頭から離れない。授業中の横顔、休み時間の笑顔、お弁当を食べているときの様子。すべてが鮮明に思い出される。
辞書のページをめくりながら、私は時々窓の外を見ていた。桜並木の向こうに見える校庭では、部活動に励む生徒たちの姿があった。野球部の掛け声、テニス部のボールを打つ音、そして吹奏楽部の練習音が微かに聞こえてくる。
そんな時、図書室の奥の方から、ページをめくる音が聞こえてきた。誰か他にも生徒がいるらしい。私は何気なく振り返って、その人物を確認しようとした。
そこにいたのは翔太だった。
窓際の席で、一人静かに本を読んでいる。夕陽が彼の横顔を優しく照らして、まるで絵画のように美しかった。集中して本を読む彼の表情は真剣で、普段の優しい印象とはまた違った魅力があった。
彼が読んでいるのは、星座に関する本のようだった。ページをめくる音が、図書室の静けさの中で小さく響く。時々、何かを確認するように本を見返したり、指で文字を追ったりしている。その仕草がとても丁寧で、几帳面な性格がよく表れていた。
私も天体観測が好きだった。小学生の頃、父に買ってもらった星座の本を夢中で読んでいたのを思い出す。夏の夜、ベランダで星空を見上げながら、星座を探すのが楽しかった。翔太も同じように星を見るのが好きなのだろうか。
胸の奥で、何かが勢いよく脈打った。共通の趣味があるということが、こんなにも嬉しいものだとは思わなかった。話しかけてみたい。でも、図書室では静かにしなければならない。それに、集中して本を読んでいる彼の邪魔をするのも気が引けた。
でも、機会を逃してしまうのはもっと嫌だった。私は意を決して、そっと席を立った。足音を立てないように、静かに彼の席に近づいていく。
「星座、好きなんですか?」
小さな声で話しかけた瞬間、翔太がぱっと顔を上げた。私を見つけて、彼の表情が一瞬驚いたような顔になって、それからぱあっと明るくなった。まるで太陽が雲から顔を出したみたいに、彼の笑顔が図書室を照らした。
その瞬間、開いた窓から桜の香りを含んだ風が吹き込んできた。甘い花の匂いと、本の匂い、そして翔太の優しい石鹸の香りが混じり合って、私の心を包み込んだ。風が翔太の髪を優しく揺らして、私の心も一緒に揺れ動いた。
「美咲さんも星が好きなんですか?」
彼の嬉しそうな声に、私は思わず微笑んでしまった。彼が私の名前を呼んでくれた。美咲さん。その響きが耳に心地よくて、胸がキュンとした。
「はい。小さい頃からよく星を見ていました」
「そうなんですか。僕も子供の頃から星座に興味があって」
翔太が本を閉じて、私の方に体を向けてくれた。彼の瞳はいつものように澄んでいて、でも今日は特に輝いて見えた。共通の話題を見つけた喜びが、その瞳に宿っているようだった。
私も向かいの席に座った。図書室の机は大きくて、二人で座っても十分な広さがあった。でも、翔太との距離が近くて、彼の呼吸や、時々する小さな動作まで感じられた。
「どの星座が好きですか?」
翔太が聞いてきた。
「カシオペア座です。形がわかりやすくて、見つけやすいから」
「僕はオリオン座が好きです。冬の夜空で一番目立ちますよね」
私たちは星座の話で盛り上がった。好きな星、見たことのある流星群、プラネタリウムでの思い出。話せば話すほど、共通点が見つかって、私は嬉しくて仕方がなかった。
翔太が星座の本のページをめくって、綺麗な写真を見せてくれた。北斗七星、はくちょう座、天の川。どれも美しい写真だったけれど、私の目は翔太の指先に釘付けになっていた。ページを指差しながら説明してくれる彼の手は、とても綺麗で、見ているだけで胸がドキドキした。
「今度、一緒に星を見に行きませんか?」
翔太がそう言ったとき、私の心臓は大きく跳ねた。昨日も似たようなことを言ってくれたけれど、今度はもっと具体的な提案だった。
「今度の新月の夜がいいと思うんです。月明かりがないから、星がよく見えます」
「はい、ぜひお願いします」
私は即座に答えていた。翔太と二人で星空を見上げる。それはどんなに素敵な時間になるだろう。想像しただけで、胸がいっぱいになった。
「それじゃあ、来週の金曜日はどうですか?」
「はい、大丈夫です」
約束が決まった瞬間、窓辺に舞い込む桜の花びらが私たちの机の上にひらりと舞い降りた。薄いピンク色の花びらが、まるで今この瞬間を祝福してくれているみたいで、私の胸は幸せでいっぱいになった。
「屋上がいいと思うんです。街の明かりから離れているから」
翔太の提案に、私は頷いた。学校の屋上で、夜空を見上げる。それはきっと、今まで経験したことのない特別な時間になるはず。
図書室に漂う本の匂いと桜の甘い香りが、私たちの約束を包み込んでくれた。静寂の中で交わされた言葉だからこそ、より深く心に刻まれていく気がした。
時計を見ると、もう夕方の5時を過ぎていた。図書室の利用時間も終わりに近づいている。
「そろそろ時間ですね」
翔太が星座の本を閉じながら言った。私も英語の宿題をまとめて、カバンにしまった。実際のところ、宿題はほとんど進んでいなかったけれど、翔太と過ごした時間の方がずっと有意義だった。
一緒に図書室を出るとき、夕日が廊下を赤く染めていた。桜並木も夕陽に照らされて、オレンジ色に輝いている。美しい光景だった。でも、私の目には翔太の横顔の方がずっと美しく映っていた。
「それじゃあ、明日」
「はい、また明日」
別れ際の挨拶を交わして、私たちはそれぞれの下駄箱に向かった。翔太の後ろ姿を見送りながら、私は胸の奥で静かに燃える想いを感じていた。
来週の金曜日。新月の夜に、翔太と二人で星空を見上げる。その約束が現実のものになるまで、あと一週間。長いような、短いような、不思議な感覚だった。
帰り道、桜並木を歩きながら、私は今日の出来事を何度も思い返していた。図書室での再会、星座の話、そして約束。すべてが夢のようで、でも確かに起こったことだった。
夜空を見上げながら歩いていると、既にいくつかの星が瞬き始めていた。来週の夜は、翔太と一緒にこの星たちを見ることができる。そう思うと、胸がきゅっと締め付けられるような、甘い痛みを感じた。
これが恋なのだろうか。17歳の私には、まだはっきりとはわからない。でも、翔太といると心が軽やかになって、彼がいない時間は少し寂しくて、次に会える瞬間を心待ちにしている。きっとこれが、恋と呼ばれる感情なのかもしれない。
家に帰って夕食を食べながらも、私の頭は翔太のことでいっぱいだった。母に「今日は何かいいことがあったの?」と聞かれて、慌てて「別に何も」と答えたけれど、きっと顔に出ていたのだろう。
その夜、ベッドに横になってからも、なかなか眠れなかった。窓から見える夜空に輝く星を見つめながら、来週の約束のことを考えていた。翔太と過ごす特別な夜が、どんなものになるのか。期待と不安が入り混じって、胸がドキドキしていた。
でも、その不安さえも甘くて、私は小さく微笑んだ。明日もまた、翔太の隣の席で一日が始まる。それだけで十分幸せだった。春の夜風が頬を撫でて、桜の香りがかすかに漂ってくる。今年の春は、今までで一番特別な季節になりそうだった。