我的寶貝
四年も住んでいた割に、僕の部屋には引越し屋を呼ぶほどの荷物はない。東京の大学に在籍している間にミュージシャンとして活躍したいと目論んでいたが、芽が出ることはなかった。明日は親父が借りてきた車に荷物を詰め込んで、東京とはお別れだ。田舎に戻ったら、今後は隣近所を気にすることなくギターを掻き鳴らすことができる。ただの趣味として――。
机の引出しから曲のイメージを書き溜めたノートや、楽譜の束を乱雑につかんでは段ボール箱に詰め込んでいく。机の奥からしまい込んだままになっていたエアメールが出てきた。かれこれ二年近く前に届いたものだ。差出人は楊品妤。アルバイト先にいた台湾女性だ。
上京してすぐのこと。生活の足しにしようと、講義の空き時間を利用して近所の工場で検品のアルバイトを始めた。楊品妤は仕事を教える指導係だった。彼女は父親の転勤のため、一家揃って日本へ移住してきたという。日本語は話せるのだが、時々言葉使いがおかしくて、ついつい笑みが出てしまう。仕事は覚えることが多くて大変なのに、彼女と話をしたいがために続けてこれたようなものだ。のちに僕より五つほど年上だと知る。
当初はなにも知らず、『楊さん』と呼んでいた。彼女から正しい読みと同時に、台湾では面識がない間柄の場合は敬称を付けるけれど、そうでないなら名前を呼び捨てにするのが通例だと教わる。もっと親しくなると姓を含めたフルネームで呼び合うのだとか。日本と海外の文化の違いを、まざまざと思い知らされた。
この日以降、僕は彼女を『品妤』と呼ぶようになった。
ある日、同時刻に仕事を終えた品妤と一緒に工場を出る。駅へ向かう品妤と、途中まで帰り道は一緒だった。とりとめのない話をしながら歩く二人の頭上から、急に降り出した雨。最寄り駅はまだ遠い。次第に強まる雨脚に、僕の部屋で雨宿りすることを提案する。しかし“雨宿り”が通じないようだ。仕方なく僕は品妤の手を引いて自宅へ走り出した。
いきなり部屋に連れてこられて、初めこそ驚いていたものの、ようやく雨宿りの意味を理解した様子だ。渡したタオルで体を拭きながら、部屋の中を興味深く見回している。
ワンルームの小さな部屋は、ギターと楽譜が散らばっていた。楽譜を一枚拾い上げて、「私も台湾ではギターを弾いて歌っていた」と言う。
「ぜひ一曲、聞かせて欲しいな」
親近感が沸き、彼女の歌を聴いてみたくなった。
品妤は困惑した表情をしていたものの、傍に置いてあるアコースティックギターを手に取ると、慣れた手つきで調弦し、軽やかな前奏を弾き始めた。
とてもやさしい歌声の弾き語りに、僕の胸は高鳴った。癖になるフレーズと、中国語で歌う品妤の声が絶妙にマッチして、聴いているうちに楽しくなるというか、心が徐々に癒されていくのがわかる。
『寶貝(たからがい)』は、台湾では有名な曲のようだ。
また品妤の歌声が聞きたい。そんな僕の願いは唐突に断ち切られた。
父親の転勤期間が終わるため、台湾に戻ることになったと告げられたのだ。
「いつか遊びに来てね」
ありふれた言葉を残し、皆から見送られた品妤は生まれ故郷である台北市へ帰って行った。
エアメールはしばらくしてから、教えた住所へ届いた。近況を知らせる短い手紙とともに、台北101というシンボルタワーの写真が同封されていた。
展望レストランから撮ったと思われる写真には、眼下に広がる台北市を眺望しながら、優雅に食事をする品妤の笑顔があった。大きなガラス窓に反射して映り込んだ彼女の姿と、カメラを構える男性の姿が見える。
男性は彼女の家族か、友達か。あるいは恋人かもしれない。
突然、僕の脳裏に『寶貝』のメロディーが流れてきた。雨宿りの日に聞いた品妤の歌声が――。
♬我的寶貝~(私の大切な人)
寂しい思いをしていても、どこかに私を愛し、寄り添ってくれる人がいるという意味の歌だと品妤が話していた。つまり、恋人を想う歌である。
嫉妬というなら否定はしない。品妤に好意を持っていたのは間違いではない。だけど、彼女と関わった日々は、僕の幻影だと思うことにしている。品妤が今を幸せに暮らしているならそれでいい。
二年前、届いたエアメールに返事も書かず、引出しの奥へしまい込んだ。記憶の奥底へ封印したのだ。
彼女の歌を聴いて、僕は打ちのめされた。あの時すでに、彼女に嫉妬し、夢を諦める決断をしていたのかもしれない。
もう二度と品妤の歌を聴くことはないだろう。
エアメールを脇に置き、ガムテープで段ボールを閉じた。
拙作をお目通しいただきまして、ありがとうございます。
台湾のシンガーソングライター張懸さんの曲「寶貝」は、愛らしく優しい歌声と、癖になる曲調が特徴で、聞いているとなんだか楽しくなってきます。興味のある方はYoutubeなどで検索してみてください。