心の準備ができてません 3
ジョゼフィーネは、意識を失っている。
夢ともつかない、夢を見ていた。
夢といえど、現実に起きたことだ。
5歳の頃の自分が見える。
屋敷の裏庭にいた。
そこは、ジョゼフィーネの隠れ場所。
どうしても屋敷内にいられない時の逃げ場でもある。
その日も、ジョゼフィーネはメイドから嫌な態度をとられていた。
相手は、ジョゼフィーネを5歳の子供だと思っている。
やり返されないのをいいことに、平気で虐げてくるのだ。
誰も暴力はふるわない。
殴られたり、蹴られたりは、1度もなかったけれど。
言葉の暴力。
前世の記憶にある言い回しだ。
まさに、言葉の暴力を、常にジョゼフィーネは受けていた。
子供だから、たいして伝わらないと思われていたのだろう。
が、ジョゼフィーネにはわかるし、正確に伝わる。
愛妾風情が子を成して、なんと身の程知らずの母親か。
認知など、おこがましいにもほどがある。
なんのために産まれてきたのか。
穢らわしいお荷物、邪魔者、不器量、忌み子。
とにかく罵詈雑言の日々だった。
なにもしていないのに。
その頃には、すでにジョゼフィーネは諦めていた。
この国では「愛妾の子」というだけで差別の対象となる。
蔑まれ、虐げられてもしかたのない存在なのだ。
だから、人との関わりも、より良い人生も諦めた。
前世と同じく引きこもり。
部屋から、ほとんど出ずに生活している。
さりとて、前世とは違い、漫画も本もテレビもゲームもなし。
かろうじて本はあったが、与えられるものは少なかった。
これといって、できることもない。
することもない。
ジョゼフィーネは、部屋に閉じこもったまま、無為に日々を過ごしていた。
自分の人生なんて「どうせ」こんなもの。
3歳で己の立場を自覚し、5歳には諦めて。
前向きになる暇もなかった。
「きみ、なにしてるの?」
ぎくっとして、振り向いた。
屋敷の奥にある庭園は、ほとんど手入れがされていない。
誰も来ないからだ。
屋敷から離れ過ぎていて、客を案内するような場所ではなかった。
「あ、あの……」
「僕は、アントワーヌ・シャロテール。きみは?」
名乗られても、ジョゼフィーネには関係ない。
おそらく客の連れてきた子供だろうが、彼女は、紹介などされないのだから。
今後、会うこともないと、わかっている。
サラサラと風になびく薄茶色の髪に、少し濃いめの茶色をした瞳。
その瞳は、とても優しそうだった。
いつも向けられている蔑みのまなざしとは違う。
ジョゼフィーネは、諦めていた。
前世の記憶もあった。
それでも5歳の子供だった。
だから、ほんのごくごくわずか、期待の種を胸に芽吹かせてしまう。
アントワーヌと名乗る少年の前で、顔を上げたのだ。
相当な恐怖と闘って。
「わ、私……じ、ジョゼフィーネ……」
彼の態度が、一変するのではないか。
恐れるジョゼフィーネに、彼は、笑った。
笑って、さらに、ジョゼフィーネの髪にふれてくる。
「きれいな髪だね、ジョゼフィーネ」
「き、きれい……?」
「うん。若葉みたいな色。光に当たって、すごくきれいだよ」
そんなことを言われたのは、転生以来、いや、前世の記憶にもなかった。
胸が、弾む。
同時に、きゅうん、となった。
嬉しくて、苦しくなる。
自分を「普通」に見てくれる人がいるなんて信じられなかった。
けれど、アントワーヌは、ジョゼフィーネに手を伸ばしてくる。
無意識に、その手を取った。
「あっちのイスで、お菓子、食べようよ」
「で、でも……お菓子なんて……」
「僕、持ってるんだ。広間のテーブルから、こっそり取ってきた」
そう言って笑うアントワーヌに、ジョゼフィーネは惹かれる。
暗闇の中に見えた光みたいだった。
長い長いトンネルの向こうにある、点のような、明るい出口。
「イス、ぼろぼろだし、汚いけど……大丈夫?」
アントワーヌの着ている服は、ひと目で高級なことがわかる。
汚したら叱られるのではないかと、心配になった。
ジョゼフィーネは「どうせ」汚そうと汚すまいと、文句を言われるので、慣れている。
汚れたら、ひそかに自分で洗えばすむ話でもあった。
「父上が仰っていたのだけれどね。服の皺や汚れを気にするのは、貴族としては、2流らしいよ」
「……2流? どうして?」
「服が汚れるかもしれないと気遣うのは、値段が気にかかるから。つまり、吝嗇家ということだね。一流の貴族なら、値段なんて気にしないものさ」
貧相な服しか着たことのないジョゼフィーネには、わからない理屈だ。
ただ、前世の記憶にある「質素倹約」が、美徳ではないらしい、と理解する。
だからといってアントワーヌに、がっかりしたりはしなかった。
こちらで言うところの、平民しかいなかった前世とは、社会の在り様自体が違うからだ。
「ほら。座って」
アントワーヌは、そのまま無頓着にイスに腰かける。
が、ジョゼフィーネの座る場所には、ハンカチを敷いてくれた。
それにも感動する。
気遣われたことが、なかったからだ。
「はい、どうぞ」
差し出されたのは、カップケーキ。
ジョゼフィーネが、滅多に口にできないお菓子だった。
食事は、部屋で、1人。
両親や姉とは明らかに違う待遇だと、わかっていた。
食堂には、ふんだんにお菓子も運ばれていたのだ。
「僕のことは、トニーでいいよ。きみのことは……ジョージーでいい?」
愛称で呼ばれるのも初めてで、ジョゼフィーネの心は、舞い上がる。
アントワーヌにうなずきつつ、彼女は長く締めていた心の鍵を開けてしまった。
11年後に手痛い思いをするなんて思いもしないで。