心の準備ができてません 1
ようやく、声が出た。
まるきり慣れてはいないが、別の恐怖に後押しされている。
(ふ、服に……靴……ほ、宝飾品……きっと最期の望みってことだし……)
それなら、別のものがいい。
とまでは言えなかったが、服や靴や宝飾品になんて、興味はなかった。
興味のないものを「最期の望み」に確定されるのは、さすがに困る。
人生に未練はなくとも、最後につまらないものを与えられて終わるなんて。
「だが、なくては困るであろう?」
たしかに着替えは必要かもしれない。
人生最期に着ていた服が、姉の着古したドレスとなるのは情けない気がする。
ほんの少しだけ、マシな服であってもいいと、思えた。
(せ、せめて新品……どうせ私には、似合わないだろうけど……)
ジョゼフィーネの、ハイパーネガティブ症候群は、猛威を振るっている。
死の覚悟の前でも、衰えることがない。
彼女は、とにかく自分に自信が持てずにいた。
彼女の心の部屋、その隅っこの、三角な壁に頭を押し当てている。
そこから出る気にもならない。
心の中でも引きこもりなのだ。
「で、では……き、着替えは、い、1枚で……」
「俺の嫁は、財布の紐が固いのだな」
ばくっと、心臓が大きく跳ねていた。
ジョゼフィーネは、無自覚に、王太子の胸を右手で掴む。
左手は、彼に、がちっと掴まれていたからだ。
『俺の嫁』
リフルワンスでは、そんなことを言う者は、誰1人、いない。
そもそも「嫁」だなんて口にするはずもなかった。
そんな言葉は、この世界にはない。
ジョゼフィーネが知っているのは、前世の記憶があるからだ。
この世界で、妻は妻でしかありえなかった。
女主人として、家人から「奥様」と呼ばれることはある。
赤の他人から「○○夫人」と呼ばれることもある。
が、それらは、夫から妻に対しての呼びかたではない。
「あ、あの……」
さらに、ジョゼフィーネは、勇気を振り絞る。
もう、水が、ひと滴も落ちないくらい、絞りに絞った雑巾並みに。
「あ、あなたは……」
彼の言う「嫁」とは「あちら」側の言葉だ。
もしかすると、王太子も、自分と同じく、転生したのかもしれない。
それが気になった。
(どの道、殺されるとしても……日本で生きてた人に殺されるなら……)
少しは「本望」と言える気がする。
そもそも、ジョゼフィーネは、人生を降りたがっていたのだ。
誰に、どう殺されたって「本望」となりそうなものだが、それはともかく。
ぎゅぎゅうっ。
意気込みが仕草に出てしまう。
ジョゼフィーネは、王太子の左胸のあたりを、右手で鷲掴み。
シャツが、くしゃっとなっているのにも気づかない。
それよりも、ほかのことで頭がいっぱいになっていた。
「な、なぜ嫁と……?」
「俺の嫁だからだ」
「で、ですが……あの……正妃……妻といった……」
「リフルワンスでは、そう呼ぶのだろうが、我が国は、表現豊かな国なのだ」
しゅわしゅわと、気持ちが沈んでいく。
自分と似た境遇の人がいるかもしれないと、ちょっぴり期待していたせいだ。
ジョゼフィーネのハイパーネガティブに、ブーストがかかる。
(……引きこもりの私じゃ、ほかの国のことなんて知らなくて、当然……屋敷の外に出たことないし……また、お姉さまたちに馬鹿にされる……でも、どうせ、私、馬鹿だし……たぶん、もう死んじゃうから関係ないけど……)
目の前にいる王太子は、とても無表情。
ジョゼフィーネは「気に入られていない」と、完全に、思い込んでいた。
だいたい、この婚姻は、互いの国のための政略結婚に過ぎないのだ。
地味で目立たなくて、会話もままならない自分は、ひどく不快だろう。
気に入らない者など、王太子の一存で首を刎ねられたってしかたがない。
(会話が下手なのも、引きこもってた、私の……自業自得だし……)
どんどん後ろ向きになっていく。
後ろを向き過ぎて、ころんと背中から転がってしまいそうなくらいだった。
「俺の曾祖父が字引きの編纂をしていてな。とても多くの新語を見つけている」
「み、見つけ……?」
「当時、懇意にしていた女性から、多くを学んだようだ」
「そ、その、そのかた、は……?」
「70年ほど前に、この世を去っておる」
仮に、だが。
仮に、その女性がジョゼフィーネと同じように、日本から転生したのだとしても、もう会うことはできない。
同郷か確かめるすべはなかった。
(そんなもんだよ……所詮、私の人生だし……いいことなんてあるわけない……)
最期くらいは良いことがあるかも、との願いも散る。
ジョゼフィーネは、がっかりして、うつむいた。
しかし、王太子の服はつかんだままだ。
無意識なので、ジョゼフィーネは、手を離していないことに気づかずにいる。
「お前も、字引きに関心があるのか」
字引きに興味などない。
と言えば嘘になるので、ジョゼフィーネは黙っていた。
どうせ、そのうち、殺されるのだ。
興味があろうと、関係ない。
字引きを読む前に、この人生は終了する。
今の彼女は、なにが起ころうと、すべて後ろ向きにしか捉えられない。
ハイパーネガティブ機能は、簡単にはオフにならないのだ。
なでなで、なでなで。
さりとて、なぜ王太子は、さっきからずっと自分の頭を撫でているのか。
撫でられて、こちらが気を良くしたところを見計らい、頭をカチ割る気でいるのだろうか。
それくらいしか、頭を撫でられている理由を思いつけなかった。
「俺にしがみついておるのは、そういう意味か?」
苦痛なく殺してほしい、という気持ちはある。
が「そういう意味」として、表明した覚えはない。
そもそも、しがみついている意識もなかったし。
「嫁というのも、悪くはないものだ」
くいっと顎を持ち上げられ、視線が交わる。
直後、スッと王太子の顔が、ジョゼフィーネに近づいて、きた。